2020-01-01から1年間の記事一覧
"Overwork is repulsive to human nature--not work. Overwork for supplying the few with luxury--not work for the well-being of all. Work is a physiological necessity, a necessity of spending accumulated bodily energy, a necessity which is he…
20201205@YouTubeライブ配信 コロナ禍時代において演劇はもはや純演劇的であることを許されていないらしい。俳優はマスクを身に着けなければならないし、演出はソーシャル・ディスタンシングを内在化しなければならない。感染防止対策という演劇外のものを…
フリッツ・ライナーのような指揮者はもう出てこないのではないか。ショーマンシップの真逆をいくような、魅せない指揮だ。オーケストラ奏者を従わせる指揮だが、聴衆を酔わせる指揮ではない。そこから生まれる音楽は峻厳で、諧謔味はあっても、陽気に微笑む…
流動する複層――エサ=ペッカ・サロネンの指揮する音楽をそのような言葉で言い表してみたい欲望に駆られる。サロネンの音楽は、多声的でありながら、和声的なところに回収されない。縦のラインで輪切りにして、それを連続させるのではなく、相互に独立した横…
「プルト」という単位は過去の遺物となってしまうのだろうか。 ここで弦奏者は、2人1組で譜面をシェアするのではなく、1人ずつ独立した譜面台を使っている。ひとりで譜めくりも演奏もこなさなければならないからだろう(プルト制であれば、ひとりが弾き続け…
選択の誘導は、それ自体としては、たんなる技術でしかない。ある選択を優先的に促すようなアーキテクチャを作ることは、たんなる技術以上のものではあるが、それでも、ほかの選択が原理的にブロックされたり消去されたりしておらず、依然として選択者が自由…
マルクスの永遠のライバルとしてのプルードン。マルクスの罵倒の常套戦略とは、相手の議論が誰かの二番煎じであることを徹底的な文献学的調査によって暴き立てることであるという。それはこじつけに近いところもあるが、論敵の信用を下げるうえでは一定の効…
「「敵はなにを恐れているんだと思う?」「あんたちだよ! 科学者だ! しかもおかしなことに、研究が実用性から遠のけば遠のくほど恐れられているみたいだ……だからこんなに容赦のないやりかたをしてるんだよ。あんたらを殺すことが問題の解決になるなら、全…
人類学は世界-他者「とともに」考える哲学であって、いわゆる哲学のような世界-他者「について」の哲学ではないとティム・インゴルドが挑発的に述べるとき、彼はある意味で、ヘーゲルが『精神現象学』の序文で述べたことを敷衍しているとも言える。認識され…
この充実ぶりは何なのだろう。豊穣というわけではない。みずみずしい弾力性ではなく、生硬な不器用さがある。音は磨き抜かれているけれども、角が取れて滑らかになるのではなく、地肌が露出して、ごつごつとした手ざわりになっている。 無骨なのだ。音がぶつ…
未来のコミュニズムの妨げになるのは、過去のコミュニズムなのです。(130頁) 「Xはすべてだめ、Yならすべてうまくいく」という物言いは、詐欺師の口上だ。レトリックとして注意深く使うならわかる。意図的に使うならわかる。しかし、これを本当の言葉とし…
チェリビダッケのスローテンポは、近くによりすぎると止まっているように見えるけれども、離れてみればすべてが動いていることがわかる悠然とした大河の流れを思わせる。でっぷりと腹の出たチェリビダッケの座った身体が水面下の動きのない動きをマクロに体…
公共領域に著作権は発生しない。(130頁) ジャネット・サディク=カーン、セス・ソロモノウ、中島直人 監訳、石田祐也、関谷進吾、三浦詩乃 訳『ストリートファイト 人間の街路を取り戻したニューヨーク市交通局長の闘い』 都市空間は誰のためのものか。都…
都市環境を進化のための土壌として捉えること、または都市もまた自然の一部であると考えること。それはつまり、人間と自然の二分法を改定することだ。人間が作り出した「人工的」な空間に生物が生息する以上、それもまた生物にとっては「自然環境」であり、…
バタイユ/ブランショ/レヴィナスのラインで考えればそうなる(ニーチェからモース、そしてヘーゲル)のは当然だが、ネタがわかっている側からすると、このような贈与についての思索には、何番煎じかという印象を抱かざるをえない。それに、キリスト教精神…
ダニエル・バレンボイムの演奏は微妙に雑だ。彼の音楽は確かに全体性を捉えている。だからとても見通しがよい。旋律が歌っている。抒情性がある。勘所は外さない。しかし、瑕疵がある。 音楽のことを本当によくわかっている音楽家の音楽。バレンボイムによる…
バレンボイムも80歳近くなり、さすがに体が利かなくなってきた部分があるのか、足を揃えてすっと指揮台に立ったまま、ほとんどそこから動かない。上下運動が基調となるタクトの振れ幅は大きくない。もしかするとあまり肩が上がらないのかもしれない。しかし…
特任講師観察記断章。「ルールを守る」というのは、ルールそれ自体には含まれていないメタ・ルールであり、ゲーム参加の大前提だ。ゲームの具体的なルールのために、自らの自由を制約することを自発的に受け入れることを意味する。公的で集団的な営為である…
ブルーノ・マデルナの指揮はデフォルメと切り離して考えることができないけれども、なぜデフォルメがあるのかの理由を語ることは難しいし、彼のデフォルメを方法論的に説明することはさらに困難だ。 情念的な粘っこい歌い回し、スローテンポ、引き伸ばし、ゲ…
特任講師観察記断章。「金は出すが口は出さない」と言えるほどの金を持ったこともなければ、そのようなことを言いたくなる相手にもいまだめぐり合っていない身では、あくまで想像するだけなのだけれど、この言葉の根底にあるのは賭けなのだと思う。博打精神…
20201004@やどりぎ座、『蜘蛛の糸』(作:芥川龍之介、演出:吉見亮) コロナ禍が強いるものがどこまでこの舞台を縛っているのか、そして、強制されたものでしかなかったものがどこまで舞台のために役立てられているのか。吉見亮演出の『蜘蛛の糸』を見なが…
特任講師観察記断章。今日今学期最初の対面授業の教室に向かいながらふと最後に教壇に立ったのはいつだったかと思いそれが2月のこと、8ヵ月も前であることに気がついて愕然としたけれども、30人近い学生を前にしてややぞんざいな感じで英語でしゃべりだすと…
カルロス・クライバーの音楽は純粋なシニフィアンなのかもしれない。何かを表現するのでも描写するのでもなく、音自体がある。音のダンスだ。その手前にも、その向こうにも還元できない、音そのものの運動のエネルギーが、クライバーの音楽なのだ。 極論すれ…
ディミトリ・ミトロプーロスがどのようにして音を合わせていたのか、どうしてもわからない。オーケストラの音の合わせ方など、そうそうヴァリエーションがあるものでもない。「点」で合わせるか(するとブーレーズのように、重なり絡み合う音が透けて聞こえ…
ブルーノ・ワルターの音楽の説得力は破格だ。しかし、その力の出どころは、解釈の卓越性ではないような気がする。モーツァルトのト短調1楽章再現部のルフトパウゼがもっとも顕著な例だけれど、理性的にはどうにも理解できない部分はある。それでも感性的には…
「私たちの記憶の最良の部分は私たちの外、たとえば、雨を含んだ風や閉め切った部屋の匂い、最初に火が熾りかけたときの香りのうちに、そう、私たちの知性が使い道を知らずに軽んじていた何か──最後まで取り置かれていた過去であり、過去の最良の部分でもあ…
「誰かを愛しているとき、あまりに大きくなりすぎた愛は、私たちの心のなかには入りきらなくなってしまう。愛は愛する対象のほうへ放射され、相手のある面にぶつかって止まると、出発地点に向かって送り返される。私たち自身の愛情のこうした跳ね返りこそ相…
翻訳語考。publicとsocialの違いが、どうもしっくりこない。どちらもラテン語を語源とする言葉だ。publicはpeopleに、socialはsocietyやassociationに通じるわけだから、当然、publicのほうが指示範囲は広い。publicがとある共同体の人々全員をカバーすると…
9月2日に59歳で亡くなる。 1961年、ニューヨークの労働者階級の家庭に生まれる。父ケネスはカンザス出身で、スペイン市民戦争では反フランコ派の国際旅団 International Brigadesに加わって闘う。母ルースはポーランド出身で、1930年代に、労働組合による唯…
ハンス・スワロフスキーの超客観的演奏には、不思議な抒情性がある。誰のものでもないが、誰かのものではあるのかもしれない、非主観的で非人称的な匿名的感性だ。全体として乾いた音だというのに、潤いに欠けているわけではない。 あまり人好きのしない、ぶ…