うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

観劇メモ

SPAC『妖怪の与太郎』再演:コロナ禍時代の演劇の可能性と不可能性

20201205@YouTubeライブ配信 コロナ禍時代において演劇はもはや純演劇的であることを許されていないらしい。俳優はマスクを身に着けなければならないし、演出はソーシャル・ディスタンシングを内在化しなければならない。感染防止対策という演劇外のものを…

コロナ以後の演劇を再興する:『蜘蛛の糸』(作:芥川龍之介、演出:吉見亮)

20201004@やどりぎ座、『蜘蛛の糸』(作:芥川龍之介、演出:吉見亮) コロナ禍が強いるものがどこまでこの舞台を縛っているのか、そして、強制されたものでしかなかったものがどこまで舞台のために役立てられているのか。吉見亮演出の『蜘蛛の糸』を見なが…

「わたし」を理解すること、理解してもらうこと:増田雄の『私』、関根淳子の『わたし』

「わたし」を理解すること、理解してもらうこと――それが『わたし』の核心にある主題だ。増田雄が2016年に執筆した『私』を脚色した関根淳子の『わたし』は、関根が言うように、「当事者演劇」と呼んでいいものなのだろう。原作者の増田はADHDであり、関根は…

工業的大量生産品をユートピア化する:静岡県立美術館「きたれ、バウハウス」展

20200523@静岡県立美術館 具体的に存在している物を抽象化し、抽象的なモノ――線や図形――に具体的な動きや流れやバランスを見いだし、それをふたたび物質として具体化する。具体的なものを純粋に具体的にするために、それを抽象的な要素として捉え直すという…

ホラーのなかで生き続ける:キリル・セレブレンニコフの『The Student』

20200505@くものうえ世界演劇祭 2時間ほどのキリル・セレブレンニコフの長編映画『The Student』(原題:Ученик)は何かについての作品なのだろうか。大澤真幸のプレトークによれば、「信じること」をめぐる映画であるという。母子家庭の高校生男子ヴェーニ…

クィアに約束されたユートピア:オリヴィエ・ピィの『愛が勝つおはなし』

20200504@くものうえ世界演劇祭 ほんの1時間ほどのオリヴィエ・ピィの『愛が勝つおはなし』は、ピイが長年取り組んでいるグリム童話シリーズのひとつ、その下敷きとなるのは象徴主義劇作家メーテルリンクがその処女作に選んだのと同じ「マレーヌ姫」で、波乱…

Zoom in Trainingについてのまとまらないまとめ:天真五相についてのメモ

決してじっくり見ていたわけではないけれど、自分が演劇をやっているわけでもないのにわざわざ連日Zoom in Trainingを見ていたのはわりと珍しい部類に入る視聴者だったのではないかという気もするわけで、だからといってそれを自慢する気もなければ、ながら…

わたしたちは同じ夢をともに夢見ている:クリスティアヌ・ジャタヒーの『Utopia.doc』

20200506@くものうえせかい演劇祭 70分ほどのドキュメンタリー映画『Utopia.doc』のなかでクリスティアヌ・ジャタヒーは「わたしたちは同じ夢をともに夢見ているのか」という問いをたえず投げかける。その問いに応えるように、移住と定住をめぐるオーラルヒ…

死後の世界の救済、または現世の葛藤の永続という戦略的ジャポニズム:アヴィニョン法王庁前での『アンティゴネ』

20200503@くものうえせかい演劇祭 100分近くにおよぶ宮城聰演出のソポクレス『アンティゴネ』の2017年アヴィンニョン演劇祭のときの公演映像が描き出すのは、徹頭徹尾、死者の物語にほかならない。なるほど、ソホクレスの登場人物たちは生者であるし、舞台…

記憶と回想の絵物語:オマール・ポラス『虹のローブ』

20200503@ふじのくにせかい演劇祭 8分と少しのオマール・ポラスの映像は、記憶と回想の絵物語になっている。東日本大震災直後の演劇祭のために訪れてくれた静岡に捧げられオマージュであると同時に、出奔した祖国コロンビアへの想像的な帰還であり、自由の…

マニュアル化できない動きをメソッドで作り上げる(ことはできるのか?):Zoom in Trainingの難問

20200502@くものうえせかい演劇祭 戯曲と演出から演劇を鑑賞するということ、それは舞台を全体として捉える態度であり、そのなかで個々の俳優や小道具や背景はあくまでパーツにすぎず、全体との整合性や相乗効果においてのみ耳目を引くものでしかないところ…

彼方から引かれ、彼方に惹かれ、しかしいまここにある:自律性と他律性のあいだのZoom in Training

20200428@くものうえせかい演劇祭 「状態をコントロールすること」がこのトレーニングの「秘中の秘」であると宮城は先日述べていたけれど、今日の説明を聞いていると、彼のいう「コントロール」は、わたしたちが普通考えるそれとは大きく違っているのだろと…

すでに生まれている子どもに応答するために:「わたしたちは何も変わらなかった」とは言わないために

20200425@くものうえせかい演劇祭 15分近くにわたるワジディ・ムアワッドの朗読は、最初から最後まで、必ずやって来るはずのコロナウィルス後の世界のことをめぐる断章的省察であるにもかかわらず、そこにはつねに陰鬱な蔭がつきまとっている。 コロナウィル…

Zoom in Trainingの先にあるもの:状態のコントロール、または存在の演劇

20200424@くものうえせかい演劇祭 宮城の言うところの「秘中の秘」、このトレーニングの先にあるものは、「ムーブメントではなく、状態をコントロールすること」にあるという。 (1)一方において、まず丹田に重心を集め、それを安定化させる。しかし他方に…

自撮りの技術とそれ以上のセルフ・プロデュース力:バーチャル立ち稽古再視聴

20200422@くものうえせかい演劇祭 バーチャル立ち稽古をなんだかんだで仕事のお供にしながら視聴しているのだけれど、見るほどに、個々の俳優にかなり特殊な演出力を要求するメディアだという思いが募る。 特殊な演出力と大げさに書いたけれど、平たく言えば…

身体の不自然化の帰結はどこに?:Zoom in Training再視聴

20200418@くものうえせかい演劇祭 Zoom in Trainingはもう見ないだろうと言った手前、なんでまた見たのだと自らツッコミを入れたくなるところだが、激しい雨が降っていてとくにやることもなかったのでと答えるほかない。宮城による解説を初めて見たが、トレ…

Zoomのスピーカー・ビュー・モードでやるバーチャル演劇の構図の問題性

20200412@バーチャル立ち稽古『おちょこの傘持つメアリー・ポピンズ』、くものうえ演劇祭 Zoomのスピーカー・ビュー・モードだと、はからずも、ふたりの対話が古典的ハリウッド映画の構図――対話相手の視点からの発話者の画が交互に入れ替わる――のはちょっと…

Zoom in Training:「体重をできるだけ小さな球としてイメージする」

20200411@くものうえ演劇祭 Zoom in Trainingは見世物として面白いものでもないが――まあ、そもそも見世物として意識されているものではないから、それは当然ではあるのだけれど――たまに入る宮城さんの解説が面白い。 「できるだけ小さな球として体重を体の…

神と「かのように」をともに信じる:遠藤周作『メナム河の日本人』遠藤周作全集9巻

あのお声が忘れられませぬ。今一度、そのお顔を微笑まれて……お声をかけてくださいまし。山田長政、と。 だが秩序を司る者、政をする者は、かのように生きねばならぬ。なぜなら、この秩序とは、かのようにであるからだ。 わからぬものゆえ、人が信じるのでは…

西欧を普遍化するために、またはお姫様と王様は金髪に白い服でなければならないのか:オリヴィエ・ピィ作、宮城聰演出『グリム童話~少女と悪魔と風車小屋~』

20200202@静岡芸術劇場 神話を持たない民族は存在しない。ヴィーコは『新しい学』のなかでそんなことを書いていたと思う。自然発生的に生まれた共同体はかならず何かしらの物語を共同で作り上げ、世代を超えて引き継ぎ、修正や変更を加えながら語り続けてき…

俗っぽさとコケティッシュ:みわぞうsingsブレヒト静岡スペシャル 音楽紙芝居『三文オペラ』

20191221 @マルヒラ呉服店 ブレヒト‐ワイルが求める俗っぽさ。なぜわざわざこのような場所で思ったが、意外や意外、なるほどという感じがした。『三文オペラ』自体は劇場で上演されているから、ちょっと事情は違うだろうけれど、20年代30年代のキャバレーソ…

問いを上演する:ユディ・タジュディンおよび共同創作アーティスト『ペール・ギュントたち』

20191117@静岡芸術劇場 終演後、演出家のユディ・タジュディンさんとドラマトゥルグのウゴラン・プラサドさんと個人的に話すことができて、疑問点をいろいろと質問することができたのが、今日2回目を見に来た最大の収穫だったかもしれない。ユディさんに厄…

「過去は忘れたい、未来は知らない」:ユディ・タジュディンおよび共同創作アーティスト『ペール・ギュントたち~わくらばの夢~』

20191109@静岡芸術劇場 多様性と多層性と多元性 おそろしく情報密度の高いパフォーマンスだ。幕開けから異常な感覚にさらされる。情報量で圧倒してくるのではない。情報が多様に多層的なのだ。弓のように軽く湾曲した棒を頭の上に載せ、スーツケースを運び…

ズレたままの演出:SPAC宮城聰演出、北村想『寿歌』

20191025@静岡芸術劇場 「ちょっとそこまで」と「ずっとむこうまで」 「「ちょっとそこまで」と「ずっとむこうまで」」は、どのあたりが、似てるんでしょう」とヤスオはゲサクとキョウコに訊き返す。似ているようで似ていない、似ていないようで似ている、…

パーソナルな記録と告白の問題性:キャシー・ジェイ『The Red Pill』(2016)

20190512@常葉大学静岡草薙キャンパス 向こう側がどう感じているか コンセプトは決して悪くない。「向こう側」がどのように感じているか、真摯に知ろうとすること、それは重要なことだ。フェミニズムによって女性の社会的権利は拡大し、男女のあいだの不平…

宮城聰作・演出『イナバとナバホの白兎』

20190609@静岡芸術劇場 spac.or.jp 純粋な高揚感、または内容と強度 宮城の演劇が観客に与えるのは、感動というよりも高揚だ。身体的でもあれば精神的でもある高揚。もしかすると魂の高揚と言ってしまっていいのかもしれない。高揚であって感動でないのは、…

ふじのくに⇔せかい演劇祭2019、ピッポ・デルボーノ『歓喜の詩』

20190506@静岡芸術劇場 歓喜にいたるには死を経験しなければならない、しかしそれは自分のものよりもはるかに痛ましい他の人の死なのだ、あなたの愛した人の死があなたを狂気の淵につれていく、しかし歓びは狂うことではない、狂うことのなかに歓びはない、…

ふじのくに⇔せかい演劇祭2019、ロバート・ソフトリー・ゲイル『マイ・レフトライト・フット』

20190502@静岡芸術劇場 自伝についての映画についての劇についてのミュージカル 障碍についての自伝、 についての映画、 についての劇、 についてのミュージカル ロバート・ソフトリー・ゲイル『マイ・レフトライト・フット』の入れ子状の構造をわかってもら…

ふじのくに⇔せかい演劇祭2019、ミロ・ラウ『コンゴ裁判』

20190427@グランシップ映像ホール 『コンゴ裁判』はノンフィクション・フィクションとでもいうべきドキュメンタリー作品である。登場するのはすべて実在の人物であり、誰もが本当の言葉で語る。600万人以上の死者を出した20年以上にわたる紛争のなか、第三…

ふじのくに⇔せかい演劇祭2019、宮城聰演出、ヴィクトル・ユーゴー『マダム・ボルジア』

20190505@静岡市駿府城公園 ゴシップと/の真実、または明かすことのできない母の愛かなり軽い調子の、チャラいほどにお気楽な調子で劇が始まる。ゴシップから始まる。ボルジア家の悪評についてのゴシップ、なによりルクレチアの性的放縦さについてのゴシッ…