うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

猜疑心の実存的な哀しさ、チープ・ポップな不用意な軽さ:モリエール、ジャン・ランベール=ヴィルド演出『守銭奴』

20221211@静岡芸術劇場

チープ・ポップ。舞台はいくつかのエリアに分かれている。中央の空白。下手奥には、Tシャツを暖簾のようにはためかせる、縁日の屋台のような音楽隊のスペース。その上手よりの隣に、オープンなクローゼット。上手奥にはオープンなガレージ。こちらにも斜めにロープが張り渡され、舞台袖に向かって旗のようなものが垂れ下がっている。上手手前にはオープンな事務作業スペース。下手手前には便器。そのほとんどが、ガラクタで出来ている。スチールのような硬い素材ではなく、プラスチックのような柔らかい素材。いや、ガラクタというよりも、ゴミといったほうがふさわしいかもしれない雰囲気である。プラスチックやビニール袋の発色の良いカラフルさのおかげで、どこかポップではあるし、コンテンポラリーアートのように見えなくもない。しかし、よく見れば、やはりゴミのようだ。「守銭奴」を主人公とするドラマが、汚部屋、汚屋敷めいた空間のなかで始まるというのは、痛烈な皮肉である。

ジャン・ランベール=ヴィルドの演出するモリエールの『守銭奴』は、古典としての権威を忠実かつ重厚に表現するのではなく、現代にも通底するアクチュアルさを前面に押し出しつつ、喜劇というジャンルを、軽やかに、お笑いに変換してみせる。ミュージカル的なテイストもある。すべてはコミカルである。

かのように見える。『守銭奴』は古典的な傑作だ。限定的な人間関係から、錯綜してはいるけれど、複雑すぎることはない、最終的にはきれいにストンとすべてのピースがはまるプロットを作り上げている。守銭奴なアルパゴンの息子クレオンと娘エリーズには結婚したい相手がいる。しかし、アルパゴンは、さらなる蓄財のために、子どもたちに見合いを勧め、自身も同じ理由で、若い女性マリアンヌを娶ろうとする。しかし、マリアンヌは息子の懸想する相手でもある。こうして金と愛が、父と息子が、互いを出し抜こうと策を練る。そこに、仲介役たちが割り込んでくる。息子の一枚上を行った父だったが、金を盗まれて取り乱し、最後は子どもたちに降参する。娘も息子も意中の相手と結ばれてハッピーエンドで終わる。

というのが原作だが、ここではこれが、マイルドヤンキー的なセッティングに移し替えられている。だからクレオン(永井健二)は盛った長髪のギャル男となり、エリーズ(宮城嶋遥加)はゴテゴテとした装いの傲岸不遜なギャルとなる。クレオンの思い人であるマリアンヌ(ながいさやこ)こそ落ち着いた感じの服装で現れるけれど、エリーズのお相手のヴァレール(大高浩一)は上下ツナギ姿。仲介役のフロズィーヌ(木内琴子)やラ・フレッシュ(本多麻紀)は、どちらもトリックスター的な存在であり、前者は女中的な普段着、後者は気取ったドレスだけれど、そこはかとなくコスプレ的な雰囲気がある。誰もが、いわば、「タイプ」的な役を演じている。唯一無二の演技ではあるけれども、それを、「いかにもそれらしい」ものになるようにコントロールしている。

けれどもそれが演出家の求めたものだったのだろうか。演出家は原作に2つの大きな変更を加えていた。ひとつは冒頭のシーン、もうひとつは終結のシーン。舞台は、びくびく歩きながら登場し、後ろを何度も振り返るアルパゴンと、彼の鏡像のように、彼と向かい合って紙幣を渡す謎めいた人物とのパントマイムから始まる。人の所作の猿真似という本源的なコメディの手法を踏襲しつつ、そこには不吉なカラスの鳴き声が響いている。それと同じカラスの不吉な鳴き声は、パイプオルガン的な荘厳な音楽と合唱によって増幅されて、最後のシーンでも響きわたることになる。そこではもはや、青白い光を発する札束の詰まったアタッシェケースを見つめるアルパゴンが、ホラーの主人公のように見えてくる。そのような彼を、皆がハゲタカのように餌食にする。彼は文字通り身ぐるみを剥がされて、舞台に転がされることになるだろう。

モリエールの『守銭奴』は、なんだかんだで、大団円に終わるのに、演出家はそのような予定調和的ハッピーエンドを断固として拒否する。モリエールではデウス・エクス・マキナのように突如として登場し、ヴァレールとマリアンヌの資産家の父として、エリーズとクレオントの縁談をまとめるアンセルヌが、「?」として、舞台に遍在しながら、アルパゴンにしか見えないような、彼自身のドッペルゲンガーのような存在にとどまる。まるで、解決は主観的な妄想でしかありえないかのように。「?」は最後に、暗闇のなかで妖しく照らし出される神秘的な存在として再登場し、劇を終わらせはする。そこに、第3の壁を越えて観客に語りかえるようなところがある。そしてそのとき、アルパゴンはすでに、子どもたちからも、召使たちからも見放されているのだ。アルパゴンの実存的な裸性を最終的に提示されたわたしたちは、喜劇が悲劇に転化したことに、そしてそれが、特殊な出来事というよりも、普遍的な事実として明かされたことに、戦慄させられる。

力演ではあったし、好演ではあった。体当たり的な宮城嶋の演技はポップにはじけてはいたし、木内や本多の性格俳優的演技は巧みではあった。愚直な召使であるジャックを演じる吉植荘一郎や、アルパゴンの下男のブランダヴォワーヌを演じる山崎皓司は、きっちりと脇を固め、猜疑心をめぐるこの劇に奥行きを与えてはいた。けれども、俳優のあいだで温度差はあったように思う。大高は自分の演じる役柄にたいしてクールな距離を保っていたし、永井はその距離を誠実に埋めようとするあまり、決して重なり合わない自分の資質と役柄の要求を逆説的に際立たせてしまっていた。

しかし、大岡淳がブレヒト三文オペラ』で創作したような、意図的に野卑な日本語をここであえて使用し、それを視覚的にも表象することの演出的必然性を、出演者の全員が理解していたのかというと、どうも怪しい気がするところでもあるし、そのような視覚表象が日本の観客に与える印象を、日本(語)の文脈を理解していないのかもしれない演出家がどこまで把握できていたのかは、ますます怪しい気がしてならないところではある。その意味で、この演出は、制作側や出演者たちの「悪ノリ」の所産ではないかという気もするところ。ギャル的な読み替えは2020年的というよりも1990年代的であり、1世代のズレを「現代的」と言い張るには無理があるだろう。本当に日本化するなら、キャラクターの名前すら明治期の翻訳にあったように日本化しても良かったと思うし、「エキュ」のような17世紀フランスの貨幣単位を忠実に残したのは、「翻訳・通訳・ドラマトルギー」の平野暁人の踏み切れなさの現れであるようにも感じられた。

そのなかで傑出していたのは、主役のアルパゴン(貴島豪)であり、そのオルター・エゴであるような、プログラムノーツには「?」とクレジットされている役(三島景太)であった。彼ら二人の言葉と身体は、古典的な格調の高さと、現代的演出のポップさを、ギリギリのところで両立させていた。彼ら二人はコミカルさの裏に、それと同じぐらいのシリアスさを注入し、『守銭奴』を近代的心理劇へと変容させていた。それこそ、ランベール=ウィルドの演出の核心ではなかっただろうか。古典戯曲が描きはしなかった近代的心理=真理を、現代的な演出において抉り出し、そこに、わたしたちの存在のままならない哀しみをただよわせること。そのような普遍的悲喜劇が、日本のお笑い的なテイストに流れすぎてしまったように思う。もちろん、それはそれで、面白く見られるものではあったのだけれど。