うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20231111 多田淳之介の演出についてのいくつかの覚書。

多田淳之介の演出についてのいくつかの覚書。

*多田の演出をあえて挑発的に「貧しい演劇」と呼んでみたい。演出が質的に貧困だというのではまったくない。そうではなく、圧倒的に不十分な量しか与えられていないリソースをいかにして最大限活用し、最大限の効果を生み出すかが、彼の演出哲学の根幹にある問いであるように思われるからだ。

*無理に金をかけるのでも、足りない人手をどこかから借りてくるのでもなく、いまあるものをとことん使い尽くすことによって、演出の拡充を目論んでいる。現実問題としてあるマテリアルな貧しさを、豊かに創造的に使い倒している。量的な貧しさを別種の豊かさに転化する演劇。だとすれば、こう言ったほうが正確かもしれない。「豊かな貧しい演劇」。

*そのために多田が試みるのは、逆説的に聞こえるかもしれないけれど、量的な最大化。

*もっともわかりやすいのは最大化される音量。同じ曲でも、同じスピーカーでも、ボリュームをぎりぎりまで上げれば、それだけフィジカルなインパクトは高まる。

*光や色にも似たようなことが言える。ミラーボールが降りてきて劇場を照らし出すとき、照明はかなりどぎつい。黒であったり、蛍光色であったり、目に優しくない色。それは自然には存在しない色、作為的な人工色である。

*舞台装置は俳優に身体的な緊張を強いることがある。『伊豆の踊子』にはほとんど当てはまらないけれど、『歯車』の舞台はかなり傾斜があり、それを幾度となく上り下りさせる演出だった。多田の舞台環境では(すくなくとも一部の演出作品の場合は)、俳優の身体はいわばつねにある種のストレス下にあり、その結果、つねにビジーな状態にあるのかもしれない。

*それによって純粋にフィジカルな疲労困憊がもたらされるのかもしれないが、にもかかわらず、最終的に目論まれているのは、精神的なものであるように思われる。俳優の身体を疲れさせるのは、精神的にハイな状態を強制的に作り出すという目的のための手段。

*同じことがが観客にも当てはまる。腹に響くほどに圧倒的な音量、眼がくらむほどの光量は、観客の五感を強制的な満足状態に導く。ほんの一口、衝撃的なものを味わったというよりも、次から次へと料理が口の中に放り込まれていき、質というよりも量によって、リミッターが物理的に外れそうになるぐらいにまで満たされ満ち足りた満腹状態。

*ただし、これは、現代のハリウッド映画の過剰さ――解像度の高すぎる映像、精巧すぎるCG、リアルすぎるSFX効果、リッチすぎる音楽や効果音――とは真逆の効果をもたらしているのではないか。たとえば、マーベル映画が、わたしたちがもはや物理的に処理できないほどの大量の情報を流し込み、わたしたちの感覚受容体をオーバーフローさせ、酩酊的な麻痺状態をもたらすとしたら、多田の演劇はむしろそのような酩酊状態によってわたしたちの感覚を限界の向こうに押し上げ、シュルレアリスムな覚醒状態に接近させる。

*多田の舞台は、非=有機的と言えるかもしれない。彼の舞台で音量が急激に上がったり、光が突然まぶしいほどに明るくなったりするとき、それは、物語展開の内的な必然性に導かれてのことではなく——もちろん、そのような部分もあるが——、究極的には、演出的決断によるものであるように思われる。多田の舞台には、舞台で繰り広げられる劇の内容とは別次元で作動する要素があり、それが、観客の注意を惹きつける。

*だからこそ、多田の舞台は断続的であり、それが感情移入を阻害し、批判意識を呼び込む。感性的には生理的に満足させられる一方で、理性的には宙づり状態に置かれる。だから観客は、愉しみつつ、快楽に溺れてしまうことがない。

*多田の演出は、かなり出演者に寄り添ったものでもある。『伊豆の踊子』では、出演者のほとんどに何かしらの見せ場がある。主役である学生(山崎皓司)と踊子(河村若菜)が目立つのは当然だが、旅芸人一座の夫婦(春日井一平と布施安寿香)にも、芸人の負の側面を演じる存在(ながいさやこ)にも、それをアグレッシブなラップとして表出させる存在(鈴林まり)にも、見せ場を与えていた。

*そのなかで特筆すべきは、宿の女将(舘野百代)と宿泊客(渡辺敬彦)のベテランの妙技。ふたりは、いわば、昭和的な偏見を、いやらしくも、しかし、いやらしすぎることがないギリギリのラインで、見事に「演じて」いた。

*その意味では、ドラァグパフォーマンス(三島景太)は、やや、ファンサービスすぎたような気もする。単体で見れば、ひじょうに面白い部分ではあったけれど、近年の公演における三島の起用法に親しんでいる観客からすると、新味に乏しい起用法ではあった(三島のパフォーマンス自体はきわめて印象的ではあったけれど)。

*エンタメと批判性の曖昧な同居。多田の演出は、両立しがたいふたつを、同じぐらいのクオリティで成立させている。だからこそ、観客としては思ってしまうのだ。彼は批判性と娯楽性のどちらを目指しているのか、と。

*川端の「伊豆の踊り子」に描かれなかった裏面を描き出そうとする多田の『伊豆の踊子(The Dancing Girl of Izu)』は、川端よりも、多様な現実を視野に入れている。しかし、多田が目指すのは、多様性を表象することそれ自体にはないようにも思う。ここでは、批判性が娯楽性に絡めとられているようでもある(性攪乱的なドラァグパフォーマンスも、社会糾弾的なラップも、「劇中劇」だからこそ許容されているきらいはある)。

*「それの何が問題なのか」と問われると、言いよどんでしまう。そう、娯楽性を批判性よりも優先させることは、演出家の選択であり、どちらが絶対的な正解というわけではない。演劇が社会革命に奉仕しなければならないと言うのは、社会主義リアリズムのイデオロギーの押し付けでしかない。

*しかし、しかしながら、社会変革のための可能性をここまでみなぎらせた上演だからこそ、それを、「パフォーマンスですから」とたわめてしまう多田のやり方は、弱腰であるようにも感じてしまう。なるほど、たしかに、すべての演出家がブレヒトのようでなければならない必然性はない。しかし、ブレヒト的な方向性を採用するのであれば、ブレヒトの核心は裏切るべきではないのではないか。そこを裏切ってしまったら、演出手法は単なるサンプリングの技法に引きずり降ろされてしまうのではないか。


アフォリズム的にまとめてみようと思ったのに、うまくいかなかった。