うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20260719 「シンチャオ!ふなばしVietnamFes 2026」に行く。

そこそこ近所の船橋競馬場で「シンチャオ!ふなばしVietnamFes 2026」というイベントをやっており、入場無料だったので、ざっとひとめぐりしてきた。カリフォルニアでは「ジャパンフェス」的なものが開かれていたけれど、この手の催し物が企画・運営できるかは、在外コミュニティの人口規模や組織力、財政力に左右されるものだろう。このベトナムフェスは去年が初開催で、今年は2年目になるという。

xinchaovf.com

 

軽く見た感じでは、食べ物のブースがもっとも多く、物品販売はあまりない感じ。店頭のメニューの写真には日本語も入っているけれど、客層の大半はベトナム系であるようにも見えた。メインステージでの司会は日本語で喋っていた。

 

オフィシャルページによれば、筆頭に上がっている「特別協賛」はDCOMという海外送金サービス業を営む会社で、その次の「協賛」はT-connectという在日ベトナム人向けの通信サービス会社。

sendmoney.co.jp

tconnect.co.jp

 

「スペシャルサポート」には在日ベトナム人によるいくつかの協会が名を連ねている。VUAJ(在日ベトナム人協会連合、2023年発足)、VJBA( 一般社団法人在日ベトナム経営者協会、2013年発足)、FAVIJA(一般社団法人日本ベトナム国際交流機構――ホームページを見ると医療サービスとサッカーチームが軸にあるように見える)。

www.viet-jo.com

www.vjba.jp

favija.com

 

それにしても、入口のところで「中国での臓器収奪を停止せよ」というパンフ――中には法輪功の紹介——を配っていたのは、どういうことだったのだろう。ベトナムは法輪功の活動を承認していないようだし、このフェストは無関係なのだろう。とすれば、いったいどのような層をターゲットにしていたのだろう。

en.wikipedia.org

20260717「東京都交響楽団 第1047回定期演奏会」@サントリーホールを聴く。

スザンナ・マルッキは音を押し込み、対決させるかのようにぶつかり合わせる。倍音の響きを溶け合わせるというよりも、実音の存在感を前面に押し出したような強い音だ。全身は外に向かって拡張され、指揮棒は縦に横に大きく振り切られる。

それでいて、マルッキのタクトは叩きではなく先入的。叩きつけるように振り下ろされる瞬間ではなく、虚空に向かって掬い上げられる過程の最中でアンサンブルがシンクロしていく。リズムは弾むように正確だけれど、デジタル的な精度とは違うところを目指しているようでもある。

我ながらちょっと奇妙なことを言っていると思うけれど、マルッキの指揮姿はどこかショルティを思い出させる。キネティックというか、器械体操的。流線形ではなく(もちろん円的な部分もあるけれど)、鋭角的で線的。アナログ的に几帳面なリズム。物量作戦的なところがあり、インパクトと音量が強い。

www.tmso.or.jp

 

デュカスの《アリアーヌと青ひげ》の第3幕への前奏曲と、ドビュッシーの《夜想曲》の「雲」と「祭」をあたかもひとつの組曲であるかのように続けて演奏するという演出は、19世紀末/20世紀初頭におけるフランス音楽のワーグナーにたいする愛憎半ばする距離感を浮かび上がらせる。デュカスは、ワーグナーが試みなかったような中低音の弦楽器と金管楽器をブレンドさせてみたかと思うと、《パルジファル》を彷彿とさせるような響きをクライマックスに持ってくる。ワーグナーの逃れ難さが逆説的にも浮き彫りになる。

マルッキの手にかかると、往々にしてくぐもって聞こえる、印象派の絵画的に演奏されがちなドビュッシーの管弦楽が、驚くほどによく鳴る。鳴りすぎなほどに。繊細な音の上下運動と物量的な爆発が、矛盾しないどころか、必然的な相乗効果であるかのように聴こえてくる。

 

バルトークの《青ひげ公の城》は、いまひとつ掴みどころのない曲であるように感じる。オペラというよりはオラトリオ的な感じがするし、オラトリオというよりも声楽付きの交響詩と言ったほうが的を射ているような気もするところ。

前口上の朗読は録音なのだろうか。PAで増幅されたハンガリー語がホールに響き渡る。リバーブを始めとして何かしらの編集も施されているようだ。それに合わせて低弦が加わり、音楽が動き出していく。

 

《青ひげ公の城》はバルトークの初期作と言っていいのだろう。映画理論家として名を馳せることになるバラージュ・ベーラの台本は、心理劇的な側面が色濃く出ており、演劇的というよりも映像的だ。新妻として迎えられたユディットは、気の進まない青ひげ公を追い立てるようにして、みずからの好奇心の命じるままに、青ひげ公の秘密を明るみにだしていく。そして彼女は、彼の3人の妻たち――朝、昼、晩を象徴する女たち――に次ぐ第4の夜の女として、彼の城にからめとられていく。

実演に接して初めてこのオペラが金管のバンダのみならず、パイプオルガンが加わっていることに気づいた。音楽的な頂点ともいえる第五の扉でオーケストラとバンダの金管が咆哮し、パぴプオルガンが鳴動する。それはバルトークが大いに感銘を受けたというシュトラウスの《ツァラトゥストラかく語りき》に似た盛り上がりだ。

 

ハンガリー語はまったくわからないけれど、それでも、ハンガリー語がネイティヴのメゾ・ソプラノのシルヴィア・ヴェレシュからは、バルトークの声楽パートが言語のリズムに寄りそうものなのだということが聞こえてくる。民謡を採取するという民俗学/人類学的な仕事をした作曲家の面目躍如というところだろうか。

その一方で、バルトークの管弦楽法は声に寄りそうものではないような気もするところ。オーケストラが声を旋律的にサポートすることはないし、ソリストは往々にして最強音の合奏を突き抜けるような声を求められている。声に優しくない楽譜ではないか。

声の存在感という意味ではバスのジョン・レリエは大したものだったけれど、ハンガリー語のディクションには曖昧な部分があったように思う。すくなくとも、ヴェレシュのような闊達さはなかった。

 

《青ひげ公の城》からは後年のバルトークの音楽が垣間見える。低弦で始まるのは、《弦チェレ》や《管弦楽のための協奏曲》を彷彿とさせる。暴力的なまでの音の対決は《中国の不思議な役人》を、近代フランス音楽的な響きは《かかし王子》に連なるところ。その一方で、まだ十分に消化/昇華されていない影響も色濃くある。

 

マルッキはそのような両義性をどちらかに解消することなく、音楽そのものを強く鳴らし切る。素直だとも言えるし、解釈的に物足りないとも言える。

20260715「タリス・スコラーズ」@東京オペラシティ コンサートホールを聴く。

タリス・スコラーズのアカペラは清らかで、濁りがない。女声のみであろうと混声になろうと、響きはつねに澄み切っている。驚くべきことに、ユニゾンでも、ポリフォニーでも、アンサンブルがまったくブレない。編成や音楽の形式が変わってもコーラスは不動であり、技術的にきわめて高度なことを、さもあたりまえのように、余力をもって披露していく。

tempoprimo.co.jp

 

聖歌を軸としたプログラミングで、モノフォニーの中世音楽(ヒルデガルト・フォン・ビンゲン)がメインに置かれているけれど、聖歌の伝統が決して過去の遺物ではないことを明示するかのように、現代のペルトが差し挟まれている。

面白いのは、中世の聖歌と続けて聴くと、ポリフォニーを開拓したパレストリーナのほうがペルトよりも遥かにモダンに感じられるところ。西洋音楽史上、ポリフォニーの出現を上回る出来事は存在しないのではないかと思わされる。

 

聖歌はキリスト教に連なるものだが、たとえばバッハの《ロ短調ミサ曲》や《受難曲》と比べると、そこで歌われる言葉の射程は広い。宗教的な生の表出ではあるものの、受難曲のようにイエス・キリストの言動が全体を支配しているわけではない。

しかし、にもかかわらず、徹頭徹尾、宗教曲ではある。世俗的な感受性や世界観は、彼岸の神なしには生まれ得ないものだろう。

そのような開かれた宗教性、開かれているとはいえ宗教以外の何物でもない感性を、タリス・スコラーズはきわめて世俗的に、学術的と言いたくなるほどの冷静さで描き出していたように思う。器楽的とまでは言わないものの、ここで声は一種の楽器に昇華されている。〈ことば〉を伝えるというよりも、旋律や音響のための器官になっているかのようだ。

技術的に卓越した高純度のアカペラは、ラテン語の歌詞の意味内容に拘泥しないことによって成立しているのかもしれない。各々が自身のパートを完璧に歌い上げると同時に、アンサンブルの一部という意識を浸透させるには、音楽そのものによる意思疎通こそを軸に据えるべきなのだろうか。

 

タリス・スコラーズは解釈をしない演奏団体であるような気がするけれど、それはひょっとすると、中世からルネサンス期の音楽の録音がそもそも稀少で、比較対象があまり存在しないせいで、実際は多分にある解釈的な厚みに気づけていないだけなのかもしれない。事実、アンコールで歌われた、タリス・スコラーズのために作曲された現代曲《Prosperitie》(ニコ・マリー Nico Muhly)は、かなり表情のある歌い回しになっていたし、もうひとつのアンコール曲《Crucifixus》(バッハやヘンデルより少し前の世代のヴェネツィアの作曲家アントニオ・ロッティ)にしても、出だしの crucifixus から、濃密な歌があった。

 

とはいえ、やはり全体としては、タリス・スコラーズの演奏が主観的な表出より客観的な提示に傾いているのは否定できないように思う。タリス・スコラーズの創始者にして指揮者のピーター・フィリップス(1953‐)より少し前の世代になる、夭折した古楽演奏家のデヴィッド・マンロウ(1942‐76)は、リコーダー奏者だからということもあるのか、音楽は遥かに生き生きとしている。

タリス・スコラーズの歌はたしかに美しい。その瑕疵のなさは、極上のヒーリングミュージックと言えるほどであり、ライブですらその水準を保っているのは並大抵のことではない。女声4人だけのアカペラでは指揮者なしで歌ったり、グレゴリオ・アレグリの《ミゼレーレ》ではソロを二階席から歌わせたりと、メンバーの自主性を大切にしながら、空間的な演出にも長けている。

しかしこのあまりの洗練が、皮肉なことに、時代や様式の異なる作品の均質化を招いているような気もするところ。演奏家は透明な媒体であるべきか、解釈する主体であるべきか。

 

付記1。合唱の演奏会ではいつものことだけれど、歌詞はプログラムノートに印刷されてはいるけれど、字幕としては出ない。合唱の歌詞は聞き取れなくてよい/歌詞の内容を理解するには及ばないというメッセージであるように感じるのだけれど、そういうことなのだろうか。合唱は声を愉しむものであって、〈ことば〉を聞くものではないのだろうか。

付記21。タリス・スコラーズにかぎらないけれど、中世からルネサンス期の合唱を歌う団体はどこのもノンビブラートの澄んだ響きで、ある意味これはタリス・スコラーズが作った流れなのだろう。モノフォニックな曲が多いせいもあるだろうけれど、声音は寒色系になりがちで、かつ、色調の変化は大きくない。クリスタルのように硬質で、ひんやりとした質感。一聴した感じはひじょうに心地よい。ただ、ずっと聞いていると、単調にも思えてくる。

付記3。中世・ルネサンス期の合唱は、実のところ、どのぐらい技術的に卓越していたのだろう。タリス・スコラーズはうますぎるような気もする。いや、中世期のコーラスがタリス・スコラーズほどうまかった可能性は否定しないけれど、かりにそうだとしても、そのうまさの質は違うような気もする。

付記4。この時代の音楽はどこまで場所依存的なのだろう。たしかにタリス・スコラーズが歌うと、オペラシティが教会であるかのように響くけれど、残響という意味ではやはり限りがある。ある特定の場とそこで育まれてきた伝統から生まれたのかもしれないような音楽を現代のコンサートホールに持ってくるのは、何か違うような気もする。それは考古学的な遺物(当時であれば生活用品)をガラスケースに入れてミュージアムで鑑賞するような態度とパラレルではないだろうか。

20260705「大野和士指揮、ヨハネス・エラート演出、リヒャルト・シュトラウス『エレクトラ』」@新国立歌劇場を聴く。

オペラハウスが暗転して金管が咆哮するかと思いきや、オーケストラピッドまでが闇に沈み、舞台の紗幕の向こうだけが、6枚の黒い格子状の透明な床から発せられる光でおぼろげに浮かび上がる。喪服めいた黒いドレスをまとったエレクトラらしき人物がたどたどしくそのうえを彷徨っている。

彼女の心音らしきものが聞こえてくる。

ドクン、ドクンという鼓動が次第に早まり、高まり、臨界点に達すると、奥の壁の一部が抜けて前に倒れ落ちる。ルネ・マグリットの『王様の美術館』を思わせるような山高帽のシルエットは、亡き父アガメムノンの姿なのだろうか。それと軌を一にしてオーケストラが叫ぶ。

www.nntt.jac.go.jp

 

大野和士と東京フィルハーモニー交響楽団は、後期ロマン派の肥大化するオーケストラの極北にある音楽を、実に丁寧に解きほぐしていく。金管の硬質な音で全体をマスキングすることなく、木管の澄んだ響きや中音域の弦楽器の芯の暖かで芯のある音色を余すところなく浮かび上がらせる。オーケストラが室内楽的に用いられ、音量ではなく音色を変化させるために駆使される箇所で彼らの巧さが際立つ。

瞬間的な音量や音圧、劇が要求する凝縮や爆発という意味でもおおむね不足はない。歌うところは歌い、ささやくところはささやき、叫ぶところは叫ぶ。歌手が歌っているときは献身的なサポート役に回り、間奏曲的な部分では主役となる。

大野は《エレクトラ》の同時代的なモダニズム性を際立たせるよりも、シュトラウスとしての一貫性のほうにフォーカスしていたようだ。彼の繊細なタクトは、不協和音の暴力性よりも、《薔薇の騎士》につうじるコケティッシュなルバートや煌めくような輝きを救い上げる。

 

場面転換をリヒャルト・シュトラウスの音楽にピタリと同期させるヨハネス・エラートの演出は、ホフマンスタールの戯曲のト書きにはあまり頓着しない。舞台が静止画になることを嫌うかのように、しかし、かといって、音楽を邪魔するほどにやかましい動画になることも厭うかのように、歌手や装置をそれとなく――しかしきわめて巧みに――動かし、舞台上の空白を埋めていく。だから観客の目は、ただそこにいる/あるものにも惹きつけられる。

たとえば、シュトラウス‐ホフマンスタールのプランではほんの端役にすぎない若い下僕(糸賀修平)、年老いた下僕(河野鉄平)、オレストの養育者(斉木健詞)が、ピエロのような出で立ちで登場する(個人的にはプッチーニの《トゥーランドット》のピン、ポン、パンを思い浮かべたが、《ナクソス島のアリアドネ》の道化たちが念頭に置かれていたのかもしれない)。出番ではないときも三人組は舞台後方に腰掛け、音楽に合わせて三人仲良く体を45度に傾けては、振り子のように逆側に体を揺らす。

興味深いことに、このような演出的介入は、プロットの掘り下げや読み替えからは相対的に自律しているらしい。エレクトラとその妹のクリソテミスが共謀するシーンでは、クリテムネストラが舞台上でくつろいでいる。しかし娘たちの会話を聞いたことがクリテムネストラの行動を変化させることはない。舞台前方の中央にはエレクトラが復讐の道具として語る斧が置かれており、何度か振りかざされはするものの、小道具としてそれ以上の象徴性は付与されていない。

 

意味が過剰な演出であり、照明にしても衣装にしても映像にしても装置にしても思わせぶりなところがある。メインステージとなるのは館の広間だが、その両側では白いレースのカーテンがはためいており――劇の緊張感が高まると吹き込む風も強まり、カーテンはさらに大きくはためく――、円柱がホールと回廊を区切っている。両者の境には4台のブランコ(!)が垂れ下がり、揺れている。舞台中央にはモザイク状のシャンデリアがあり、頭上で輝くかと思えば、床スレスレにまで降りてくる。それが円を描くように揺れるさまは、バイロイト音楽祭創立100年記念に抜擢されたパトリス・シェロー演出のフーコーの振り子を思わせる。

侍女たちを始めとして、ほとんどが黒い衣装なのに、復讐ではなく人並みの幸福を願うクリソテミスだけがライトグリーンのドレス。ウェディングドレスを思わせる白いレースは、ありうるかもしれない結婚と出産をイメージさせるかのように、ときにエレクトラに、ときにクリソテミスの肩にかけられるが、それが彼女たちのものとなることはない。

人型の後ろで縦並びになって活人画のごとく蠢く侍女たち、穴倉から出てくるかのように舞台に姿を見せる侍女たちは、ワーグナーの《ラインの黄金》の乙女たちを思わせる。舞台後方はスクリーンでもあり、クリテムネストラがみずからの死を先取りして演じるかのように赤い口紅を横一文字に塗るシーンや、エレクトラが亡き父アガメムノンの衣装をまとって帽子姿で海岸を歩くシーンが映し出される。物量的な音量ではなく夢幻的な音色が特徴的なクリテムネストラとエレクトラの対話では、鏡台を思わせるような装飾的な木枠を向こうで、クリテムネストラはピンク色のガウン――劇終幕では彼女が流す血のメタファーに転化する――を脱ぎ、装飾品を外し、長髪のウィッグを取る。

 

リアリズムのように見せかけて、実はリアリズムに無頓着な演出と言うべきだろう。だからこそ、ノイズのように見える小道具(たとえばクマのぬいぐるみ)や、あからさまなギミックが随所で導入されている。寝転んだエギスト(工藤和真)を載せたソファーには動力がついているのか、上手から登場し、ゆっくりと舞台を横切って、下手に消えていき、そして殺害される。殺害されたクリテムネストラもまた、同じような装置にのせられて、物言わぬ死体として、舞台前方を運ばれていく。

あまりにも緊密で凝縮された《エレクトラ》は音楽的な強度だけで持ってしまう作品だからこそ、そして、もともとは戯曲として完結していた作品だからこそ、演出側からすると逆に難しいのかもしれない。ホフマンスタールが本歌取りしたソフォクレスの古代を押し出せば古臭いが、あまりに現代的な翻案は作曲家と文学者を裏切ってしまう。

そのような苦境のなかで、演出家たちは、音楽の展開に寄り添うことを大前提としつつ、観客の想像力をいわば無責任に刺激するという戦略を採ったのかもしれない。多様な解釈を許容する細部を散りばめつつ、それらを統合するマスターナラティヴは提供しないという戦略だ。

数々のノイズ的な品々は、ブレヒト的な異化効果のためなのかもしれない。楽曲の強度を中和し、観客の注意をあえて散漫にし、批判の刃を研ぎ直すための猶予を与えること。ドラマチックな会話が往々にしてブランコによって締めくくられていたのは示唆的だ。

 

声のみで言えば、クリソテミスのヘドヴィグ・ハウゲルドがもっともパワフルで、クリテムネストラの藤村実穂子は逆にパワー不足。その一方で、ハウゲルドが言葉を旋律のための添え物のように扱っているように感じられたのにたいして、藤村はドイツ語の意味と響きを追求し、歌唱を演劇へと昇華させていた。エレクトラのアイレ・アッソーニは、最高音になると苦しい瞬間もなくはなかったが、声量でオーケストラに拮抗しつつ、言葉と歌を両立させており、タイトルロールにふさわしいはたらきだたった。

それにしても、時間にすれば数分にも満たない「オレスト」という叫び声のためだけに新国立合唱団を用いるのは何とも贅沢だ。いつものことながら圧倒的に上手い合唱。

 

本演出の最大の読み替えは、エレクトラが踊らないところだ。ホフマンスタールのテクストはエレクトラをある種の狂乱状態に置く。「デュオニュソス/バッカスの信女のように頭を後ろにやる。両膝を上げ、両腕を投げ出す。それは名もなき踊りであり、踊りながら前に進み出る[Sie hat den Kopf zurückgeworfen wie eine Mänade. Sie wirft die Knie, sie reckt die Arme aus, es ist ein namenloser Tanz, in welchem sie nach vorwärts schreitet.]」。そして「黙して踊れ![schweigen und tanzen!]」という最後の言葉とともに、「張り詰めた勝利の歩みでさらに何歩か進むと、崩れ落ちる[Sie tut noch einige Schritte des angespanntesten Triumphes und stürzt zusammen.]」。そして、〈愛の死〉のイゾルデを彷彿とさせるように、「エレクトラは硬直して横たわる[Elektra liegt starr]」。

しかし、復讐を遂げたエレクトラは、それを言祝ぐことはない。オーケストラが勝利を告げる音楽を炸裂させるなか、彼女は舞台後方に開けた煙の奥に消えていく。はたして彼女はアガメムノンのいる死の世界に旅立っていくのだろうか。肉体的には生きながらえたにもかかわらず、心はいっそう死に引き寄せられて。

晩年のほころび、または別次元での統合――ベームの最後の録音『エレクトラ』

最晩年の指揮者の演奏はときに不思議な印象を残す。それまで追求してきたはずのものとは異なる音楽が聞こえるてくることがあるから、そしてそれが意図的な方向転換なのか、それとも心身の衰えによる不作為なほころびなのかがわからないから、にもかかわらず、その不可思議で予想外の音楽が大いに興味深く聞こえてしまうから。カール・ベームの最晩年の演奏はそのような特異な様相を呈している。

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個人的な好みでいえば壮年期のベームの録音は好きになれない。彼の美質だといわれる古典的な造形や引きしまった響きは、杓子定規な硬直さと紙一重であり、あまりにも遊びがないように感じられる。バイロイトでの《トリスタン》にしても《指環》にしても、アポロ的なる均整のために犠牲になっているものが多い。ベームの指揮下では、音つねに軋むような対立関係におかれる。音と音のあいだの空気は圧縮され、響き合うための余白が強度へと転化する。

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それを好意的に解釈する聞き手もいるだろう。決壊する寸前まで駆りたてられて猛り狂う音の饗宴にはたしかに否応なく興奮させられる部分もある。

その一方で、ベームの音楽は究極的には力業であり、細かく分解して丁寧に再構成するのではなく、細部を全体に無理やりに吸収させるような無理強いがあるような印象を受ける。すくなくとも、1894年生まれのベームの演奏には、一世代上のクナッパーツブッシュ(1888年生まれ)の細部をおおらかに全体に位置付けていく鷹揚さや、一世代下のカラヤン(1908年生まれ)の磨き上げた細部を分厚い響きに融解させる手練手管はない。ベームはアルバン・ベルクこそ熱心に取り上げたものの、フランス近代音楽には冷淡であったようだし、ヨーロッパの外部からやってきたモダニズムの音楽——ストラヴィンスキー、バルトーク――にもさして興味を示さなかったのは、何かとても示唆的だ。

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ベーム最後の録音となったシュトラウスの『エレクトラ』の映像の音楽はベームらしくない。映像のための録音ということもあり、マイクの配置が違うというような技術的な理由もあるのか、オーケストラの響きがバラけて聞こえる瞬間が多々ある。音は凝縮すると同時に拡散し、楽器の生音が裸になっているようでもある。普通なら聞こえない伴奏音型が突出気味で、あえての解釈というよりは、コントロール不足でそうなってしまったような印象も受ける(同時期のリハーサル映像があるけれど、痩せ細った姿)。テンポも遅め。追い立てるようなところでも前につんのめりになることはなく、全体の構えは緩やか。それはあきらかに、ベームが追求してきたであろう凝縮した強度の音楽の理想形ではない*1

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にもかかわらず、音楽としては破綻していない。個々のほころびはあるのに、全体としては統合されている。ただし、円満なかたちではなく。大枠では筋がとおっているのに、細部はまとまりきっていない。細部が勝手に蠢いてしまっていると言ってもいいだろう。それでいて、そのような蠢きが、音響よりも高いレベルで、音楽の流れや演奏する身体の呼吸といったレベルで、指揮者が作ろうとしている音楽にしかるべく収まっている。

60年代の引き締まったベームが好きな聞き手は、70年代の拡散しつつあるベームを好まないかもしれないし、拡散しているからこそ素朴な歌心がある70年代のベームを好む聞き手は、最晩年のさらにバラけたベームに、成熟ではなく老いを感じるかもしれない。しかし、老いてすべてがコントロールできないことがあらわになったとき、断念しつつそれを別の次元に昇華させようとするとき、そのような音楽家の奏でる音楽は特別な面白味を帯びるようでもある。

だから晩年のベームは面白いのだ。 

*1:60年代のスタジオ録音はもっと攻めた演奏になっている。

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シュトラウス『エレクトラ』の諸々の音源についての雑感

新国立の新制作のリヒャルト・シュトラウス『エレクトラ』を聴きにいくので、手持ちの音源やYouTubeの映像をいろいろと見ているけれど、これはつくづく難曲なのだろう。

 

オーケストラ編成は後期ロマン派の拡大路線の極北であり、いわゆる「録音に入りきらない」音楽の典型だ。1幕物で100分ほどとはいえ、金管が咆哮する大音量をバックに対抗して歌うタイトルロールのソプラノは、最初から最後まで出番があるから、体力勝負になる。ホフマンスタールの手になる戯曲/台本は生で演じられてこそのものかもしれないけれど、音楽的・音響的にはライブでは厳しい部分がある。その意味では、大レーベルがリリースしている演奏会形式のライブ録音も、オペラ上演の映像も、繰り返し聴くには物足りないところがあるし、ましてやヒストリカル録音はなおさらのことだ。

では、スタジオ録音がよいのかというと、意外と理想的なものがない。言葉と歌唱のバランス、歌手とオケのバランスのすべてが整っているものが、どうも見つからない。金管>木管のオーケストラは迫力重視になり、その結果、歌手は歌唱>言葉になってしまっているように感じる。

その典型が、古典的名盤とされている1960年代のショルティ/ニルソン/ウィーンフィル/デッカだろう。録音はクリアで、音響の迫力は依然として十分すぎるほどだけれど、ニルソンの歌い方は、言葉のディクションを犠牲にしているように聞こえる。そして、ニルソンの声の強度で勝負する方向性が、その後のエレクトラのあり方を規定してきた可能性すらあるのではないかという気がする。

 

とはいえ、大規模なオーケストラと対決するために、歌手は常に声にヴィブラートをかけ、純粋に音量と旋律で勝負せざるをえない状況に追い込まれてしまうのかもしれない。『エレクトラ』で言葉が聞き取れることを求めるのが、そもそも過度な要求なのかもしれない。

ただ、シュトラウス自身は、『エレクトラ』がメンデルスゾーンのように響くことを望んでいたとどこかで読んだ記憶がある。いや、もしかすると、『サロメ』についての発言だったかもしれないけれど、両者のあいだには数年の違いしかないことを思うと、どちらのついてのコメントであれ、あながち的外れではないだろう。ところが、メンデルスゾーン的に響く音源——金管による力押しではなく、木管と弦楽によるイマジネーション豊かな響き――は皆無に近い。

 

言葉のディクションがクリアに響くかどうかは、指揮者の問題なのか、歌手の問題なのか、どちらなのだろう。録音はあまりよくないけれど、個人的には、フルトウェングラーとRAIのワーグナーの『指環』は言葉と音楽が上手くハマっているように聞こえる。クレメンス・クラウスとバイロイト音楽祭管弦楽団による『指環』からも同じような印象を受ける。指揮者の言語感覚による部分が大きいというのが、個人的な意見ではある。

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というわけで、いろいろ聞いてみているけれど、ヒストリカル録音では、リヒャルト・クラウス/ヴァルナイ/ケルン放送響の演奏が面白いと思う。クラウスの指揮は、音楽的には決して傑出した出来とはいえないけれど、言葉と音楽のシンクロという意味では、きわめて巧みだ。ホッターによるオレストが見事。

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木管の響きが活きているという点では、アルバニア系アメリカ人のステファン・ラーノと、メキシコのベジャス・アルテス宮殿オペラハウスの演奏が魅力的。

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演出面では、オープンスペースでの演奏で、音響装置を大々的に使っていそうな――歌手がマイクを付けている――スウェーデンのウメアでの公演が傑出している(https://www.youtube.com/watch?v=8UYXwWGrlFk)。ただ、数メートルの高さになるであろう人形に乗り込んで、宙に浮かびながら歌うというのは、なかなか怖い体験ではないだろうかと思うけれど。

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付記。そういえば、ドビュッシーやラヴェル、ストラヴィンスキーはピリオド楽器での演奏が出始めているけれど、シュトラウスでは聞いたことがない気がする。

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20260619「東京都交響楽団 第1046回定期演奏会Bシリーズ」@サントリーホールを聴く。

ヴァイオリン奏者で指揮者のペッカ・クーシストは飄々としている。貴族的とすら言っていい。品が良く、些事にはとらわれない鷹揚さがある。しかし、繊細さに欠けているわけではない。というよりも、デフォルトのレベルがすでに充分すぎるほどに繊細なのだ。クーシストが作り出す音楽は軽やかに自由に飛翔するが、それがつねにすでに自然なまでに優雅。

シベリウスでスウェーデンの現代音楽をサンドイッチするというプログラミングは、前半は弾き振りの弦楽合奏曲、後半は指揮に専念するオーケストラ曲となっており、「アーティスト・イン・レジデンス」に就任したフィンランド出身のクーシストの態度表明でもあるのだろう。北欧の音楽家としてのアイデンティティの表明。

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合唱曲を弦楽合奏に編曲したシベリウスの組曲《恋人》は初聴だけれど、いまひとつ正体がわからない。わざわざ別編成に書き直すぐらいに気に入っていたのは何となくわかる。ただ、ドヴォルザークの《スラヴ舞曲》のように、または、フィールドワークで採取したハンガリーやルーマニアの民謡をベースにしたバルトークのピアノ曲がそうであるように、そこまで作曲家が偏愛した理由が腑に落ちない。ローカルな愛着が弾き振りのクーシストはオーディエンスに背を向けたまま、奏者のひとりとしてオーケストラを率いる。

日本初演となるアンデシュ・ヒルボリの《バッハ・マテリア》は、バッハの《ブランデンブルク協奏曲》の三番を本歌取りしたような楽曲で、スウェーデン室内オケとトーマス・ダウスゴーが委嘱した「ブランデンブルク・プロジェクト」の一曲だという。こちらは、室内オケを率いるソロ奏者として、オーディエンスのほうを向いての演奏。

いかにもなゲンダイオンガクな側面がある一方で、バッハのモチーフを直接引用する部分もある。ブリッジの際を弾いたり、その向こう側(だろうか?)を弾いたりと、古典的な美学からすればノイズ的な音を、何とも美しく響かせる。不思議な音が聞こえてくると思えば、クーシストが口笛で旋律を歌いながら、ヴァイオリンでアルペッジョを弾いている。

決して人好きのする曲ではないけれど、よく考えられた曲であることも伝わってくるし、演奏者たちの理解と共感も伝わってくる。このような熱意があって初めて初演は成功を収めるのだろう。

 

ヒルボリの攻めた音楽に比べると、アンドレア・タッローディの《きりん座》は何とも緩い。自然のざわめき、ささやきを音にした美しい曲ではある。ポスト・ラヴェル的。具象的で、各楽器に見せ場がある。あまりにも無理なく美しいので、ブラインド聞かされたら、2011年初演とは到底思わなかったことだろう。終演後、列席していた作曲者がステージに呼び出され、喝采を浴びるという一幕があった。

 

メインのシベリウスの5番は驚くべき演奏だった。まさかシベリウスのスコアからこのような音楽が聞こえてくるとは思いもよらなかった。それほどまでにクーシストのシベリウスは異質だった。

とはいえ、何か特殊なことをやっているわけではない。というよりも、クーシストの棒はその場の感興に依拠したものではないはずだ。彼の音楽はリハーサルのなかで、ヴァイオリン奏者としての体験知を基点として作り上げられたものであるように思われるから。

シベリウスは弦楽器の刻みを際立たせる。正直な話、弦楽器奏者からすれば、ブルックナーのそれと同じように、シベリウスの原パートには不毛に感じられるところがある。主旋律の伴奏のような場合が多いからなおさら。しかしこれをクーシストは、単なる伴奏音型ではなく旋律の一部として、他の楽器が奏でた主題動機にたいする応答として、きわめてメロディックに歌わせる。

というよりも、クーシストの譜読みでは、シベリウスのスコアの音はすべて、他のパートの音から派生しており、すべてはつながっているのだろう。だからここには、主旋律と伴奏というようなヒエラルキーは存在しない。パートが移ることで、伴奏は主旋律へと躍り出るし、主旋律は伴奏に退く。

安定した上下関係ではなく、主従が柔軟に入れ替わる。しかし、それは、こう言ってよければ、誰もが等しく大切であることを理解しているがゆえの協同的な役割交換である。クーシストの指揮のものでは、オーケストラの誰もが誰かに支配されることに甘んじることなく、自らのかけがえのない職務をまっとうしているかのようでもある。

圧巻だったのは3楽章のラスト。すべてのパートが刻みから旋律へと移行し、すべてが層状に重なり、波のように揺蕩いながらクライマックスを築いていく。音楽の密度が高まり、音がふくらんでいく。にもかかわらず、そこには〈余白〉のようなものが依然として残っている。空間を切り裂くというよりも、そのなかを泳ぐように、優雅に大きく振られる指揮棒が、全体を引き合わせ、引き上げていく。

 

マニアックな曲目のわりには――4曲のうち半分は日本初演――、客入りはよかったようだ。満席とまではいかないにせよ、2階席から見下ろした感じでは、ホールの大半の席はおおむね埋まっていた模様。