オペラハウスが暗転して金管が咆哮するかと思いきや、オーケストラピッドまでが闇に沈み、舞台の紗幕の向こうだけが、6枚の黒い格子状の透明な床から発せられる光でおぼろげに浮かび上がる。喪服めいた黒いドレスをまとったエレクトラらしき人物がたどたどしくそのうえを彷徨っている。
彼女の心音らしきものが聞こえてくる。
ドクン、ドクンという鼓動が次第に早まり、高まり、臨界点に達すると、奥の壁の一部が抜けて前に倒れ落ちる。ルネ・マグリットの『王様の美術館』を思わせるような山高帽のシルエットは、亡き父アガメムノンの姿なのだろうか。それと軌を一にしてオーケストラが叫ぶ。
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大野和士と東京フィルハーモニー交響楽団は、後期ロマン派の肥大化するオーケストラの極北にある音楽を、実に丁寧に解きほぐしていく。金管の硬質な音で全体をマスキングすることなく、木管の澄んだ響きや中音域の弦楽器の芯の暖かで芯のある音色を余すところなく浮かび上がらせる。オーケストラが室内楽的に用いられ、音量ではなく音色を変化させるために駆使される箇所で彼らの巧さが際立つ。
瞬間的な音量や音圧、劇が要求する凝縮や爆発という意味でもおおむね不足はない。歌うところは歌い、ささやくところはささやき、叫ぶところは叫ぶ。歌手が歌っているときは献身的なサポート役に回り、間奏曲的な部分では主役となる。
大野は《エレクトラ》の同時代的なモダニズム性を際立たせるよりも、シュトラウスとしての一貫性のほうにフォーカスしていたようだ。彼の繊細なタクトは、不協和音の暴力性よりも、《薔薇の騎士》につうじるコケティッシュなルバートや煌めくような輝きを救い上げる。
場面転換をリヒャルト・シュトラウスの音楽にピタリと同期させるヨハネス・エラートの演出は、ホフマンスタールの戯曲のト書きにはあまり頓着しない。舞台が静止画になることを嫌うかのように、しかし、かといって、音楽を邪魔するほどにやかましい動画になることも厭うかのように、歌手や装置をそれとなく――しかしきわめて巧みに――動かし、舞台上の空白を埋めていく。だから観客の目は、ただそこにいる/あるものにも惹きつけられる。
たとえば、シュトラウス‐ホフマンスタールのプランではほんの端役にすぎない若い下僕(糸賀修平)、年老いた下僕(河野鉄平)、オレストの養育者(斉木健詞)が、ピエロのような出で立ちで登場する(個人的にはプッチーニの《トゥーランドット》のピン、ポン、パンを思い浮かべたが、《ナクソス島のアリアドネ》の道化たちが念頭に置かれていたのかもしれない)。出番ではないときも三人組は舞台後方に腰掛け、音楽に合わせて三人仲良く体を45度に傾けては、振り子のように逆側に体を揺らす。
興味深いことに、このような演出的介入は、プロットの掘り下げや読み替えからは相対的に自律しているらしい。エレクトラとその妹のクリソテミスが共謀するシーンでは、クリテムネストラが舞台上でくつろいでいる。しかし娘たちの会話を聞いたことがクリテムネストラの行動を変化させることはない。舞台前方の中央にはエレクトラが復讐の道具として語る斧が置かれており、何度か振りかざされはするものの、小道具としてそれ以上の象徴性は付与されていない。
意味が過剰な演出であり、照明にしても衣装にしても映像にしても装置にしても思わせぶりなところがある。メインステージとなるのは館の広間だが、その両側では白いレースのカーテンがはためいており――劇の緊張感が高まると吹き込む風も強まり、カーテンはさらに大きくはためく――、円柱がホールと回廊を区切っている。両者の境には4台のブランコ(!)が垂れ下がり、揺れている。舞台中央にはモザイク状のシャンデリアがあり、頭上で輝くかと思えば、床スレスレにまで降りてくる。それが円を描くように揺れるさまは、バイロイト音楽祭創立100年記念に抜擢されたパトリス・シェロー演出のフーコーの振り子を思わせる。
侍女たちを始めとして、ほとんどが黒い衣装なのに、復讐ではなく人並みの幸福を願うクリソテミスだけがライトグリーンのドレス。ウェディングドレスを思わせる白いレースは、ありうるかもしれない結婚と出産をイメージさせるかのように、ときにエレクトラに、ときにクリソテミスの肩にかけられるが、それが彼女たちのものとなることはない。
人型の後ろで縦並びになって活人画のごとく蠢く侍女たち、穴倉から出てくるかのように舞台に姿を見せる侍女たちは、ワーグナーの《ラインの黄金》の乙女たちを思わせる。舞台後方はスクリーンでもあり、クリテムネストラがみずからの死を先取りして演じるかのように赤い口紅を横一文字に塗るシーンや、エレクトラが亡き父アガメムノンの衣装をまとって帽子姿で海岸を歩くシーンが映し出される。物量的な音量ではなく夢幻的な音色が特徴的なクリテムネストラとエレクトラの対話では、鏡台を思わせるような装飾的な木枠を向こうで、クリテムネストラはピンク色のガウン――劇終幕では彼女が流す血のメタファーに転化する――を脱ぎ、装飾品を外し、長髪のウィッグを取る。
リアリズムのように見せかけて、実はリアリズムに無頓着な演出と言うべきだろう。だからこそ、ノイズのように見える小道具(たとえばクマのぬいぐるみ)や、あからさまなギミックが随所で導入されている。寝転んだエギスト(工藤和真)を載せたソファーには動力がついているのか、上手から登場し、ゆっくりと舞台を横切って、下手に消えていき、そして殺害される。殺害されたクリテムネストラもまた、同じような装置にのせられて、物言わぬ死体として、舞台前方を運ばれていく。
あまりにも緊密で凝縮された《エレクトラ》は音楽的な強度だけで持ってしまう作品だからこそ、そして、もともとは戯曲として完結していた作品だからこそ、演出側からすると逆に難しいのかもしれない。ホフマンスタールが本歌取りしたソフォクレスの古代を押し出せば古臭いが、あまりに現代的な翻案は作曲家と文学者を裏切ってしまう。
そのような苦境のなかで、演出家たちは、音楽の展開に寄り添うことを大前提としつつ、観客の想像力をいわば無責任に刺激するという戦略を採ったのかもしれない。多様な解釈を許容する細部を散りばめつつ、それらを統合するマスターナラティヴは提供しないという戦略だ。
数々のノイズ的な品々は、ブレヒト的な異化効果のためなのかもしれない。楽曲の強度を中和し、観客の注意をあえて散漫にし、批判の刃を研ぎ直すための猶予を与えること。ドラマチックな会話が往々にしてブランコによって締めくくられていたのは示唆的だ。
声のみで言えば、クリソテミスのヘドヴィグ・ハウゲルドがもっともパワフルで、クリテムネストラの藤村実穂子は逆にパワー不足。その一方で、ハウゲルドが言葉を旋律のための添え物のように扱っているように感じられたのにたいして、藤村はドイツ語の意味と響きを追求し、歌唱を演劇へと昇華させていた。エレクトラのアイレ・アッソーニは、最高音になると苦しい瞬間もなくはなかったが、声量でオーケストラに拮抗しつつ、言葉と歌を両立させており、タイトルロールにふさわしいはたらきだたった。
それにしても、時間にすれば数分にも満たない「オレスト」という叫び声のためだけに新国立合唱団を用いるのは何とも贅沢だ。いつものことながら圧倒的に上手い合唱。
本演出の最大の読み替えは、エレクトラが踊らないところだ。ホフマンスタールのテクストはエレクトラをある種の狂乱状態に置く。「デュオニュソス/バッカスの信女のように頭を後ろにやる。両膝を上げ、両腕を投げ出す。それは名もなき踊りであり、踊りながら前に進み出る[Sie hat den Kopf zurückgeworfen wie eine Mänade. Sie wirft die Knie, sie reckt die Arme aus, es ist ein namenloser Tanz, in welchem sie nach vorwärts schreitet.]」。そして「黙して踊れ![schweigen und tanzen!]」という最後の言葉とともに、「張り詰めた勝利の歩みでさらに何歩か進むと、崩れ落ちる[Sie tut noch einige Schritte des angespanntesten Triumphes und stürzt zusammen.]」。そして、〈愛の死〉のイゾルデを彷彿とさせるように、「エレクトラは硬直して横たわる[Elektra liegt starr]」。
しかし、復讐を遂げたエレクトラは、それを言祝ぐことはない。オーケストラが勝利を告げる音楽を炸裂させるなか、彼女は舞台後方に開けた煙の奥に消えていく。はたして彼女はアガメムノンのいる死の世界に旅立っていくのだろうか。肉体的には生きながらえたにもかかわらず、心はいっそう死に引き寄せられて。