うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

『ブックセラーズ』のまとまりのなさ

10人ほどのブックセラーの群像劇という感じ。ただ、ブックセラーといっても、基本的に稀覯本を扱う人々であり、一般の本屋を期待していたので、すこし裏切られた気分。

10‐15分ほどの短いシークエンスをつないだ作りで、アテンションスパンが短くなってしまった現代人からすると見やすいが、大きな物語がないような印象。実際、ここには、古書業界が先細りであるとか、芸術品(唯一無二)と古書(内容は複製可能だがブツは唯一無二)との比較であるとか、いくつかのライトモチーフはあるものの、全体をつらぬくテーマが欠けている。

3代続く本屋、親から引き継いだ稼業、偶然飛び込んだ業界、などなど、さまざまなキャラクターが登場するが、誰もが、本に対する愛情をいっぱいにかかえていることだけはよく伝わってきて、そこはとても感動的ではあるのだけれども、観ないと損かといえば、そうとも言えない。

悪くはないが、お勧めするほどでもない。

『ノマドランド』のなかの美的なものと経済的なもの

@20210601 CineCity Zart

いい映画だ。自然の映像が美しい。荒れ狂う波、広大な砂漠、遠景の山脈。それから作業場の機会の崇高さ。アマゾンの配送センター、掘削場のようなところ、バーガーレストランの調理場。

ファーンという女性を軸に物語は進んでいく。工場の閉鎖によって街一つが消し飛び、ホームレス(またはハウスレス)になった女性のロード・ジャーニー。彼女はホームはなくしてはいない。というのも、車が彼女のホームであり、彼女の住んでいるところだから。

彼女はロードのなかでさまざまな人々に出会っていく。余命すくない老齢の女性もいれば、息子夫妻から逃れるように放浪を続ける男性もいる。誰もが悲しみと喪失を抱えているが、その内実は異なっている。だから彼女ら彼らは自らの物語を語るのだけれど、それは似ているようで似ていない。しかし、そのような話を聞かされると、心の深いところにある柔らかく繊細なところが、わずかにかき乱され、狂おしい気持ちにさせられる。わたしたちが感情を持つ生き物であり、記憶を生きる存在であることを痛感させられる。

しかし、そうした情動的な反応に押し流されそうになるそのとき、この映画にただよう階級的な距離感がふと浮かび上がってきて、感動にふけるわけにはいかないことに気がつく。エンジンがかからなくなったヴァンを修理するために大金が必要になったファーンは、娘に断られたあと、姉に無心することになる。姉は頼みに答えてくれるが、姉の住まう世界――不動産業で利益を上げる富裕層――を前にして、ファーンは苛立ちを隠せない。あたかも彼女がみずから好んでノマドな生活を営んでいるように言われると、ファーンは声を荒立てて反論しないわけにはいかなくなる。姉は、アメリカの伝統的なあり方、開拓者のようなもの、となだめるし、一緒に住もうと誘うものの、そのような申し出を受け入れることはファーンにはできない。姉にはホームもハウスもある。

しかし、それは彼女個人の心理的な問題なのか。

旅の途中で知り合った男性家族を尋ねてカリフォルニアまで車を走らせる。彼は快く歓待してくれる。彼の息子夫婦は温かく彼女を迎え入れてくれる。七面鳥だろうか、多数の家禽を飼っているし、孫が出来た彼は、もはやロードに戻るよりは、自分でも驚くほどに、家に安住している。そのような心地よいはずの家庭のなか、ファーンは居心地の悪さを隠せない。彼が息子とアップライトピアノでジャズを即興演奏するのを階段の上から盗み見ながら盗み聞きする彼女は、ここに自分の居場所を見出すことができない。彼女は車を走らせ、逃れるように、海を見に行ってしまう。彼はホームレスでもなければハウスレスでもなかった。

ファーンの放浪生活の引き金を引いたのは、不況にほかならない。しかし、ほかの放浪者たちはかならずしもそうではない。ここでは、資本主義経済の荒波にさらされて仕方なしに否応なしにノマドライフに追い込まれた人々と、資本主義経済の非人間性から逃れるために主意的にノマドな生活に身を投じた主体的世捨て人とが、同じようにスクリーンに登場するために、まるでノマドライフが個人の自由な選択の結果であるかのような印象を強化する結果に終わっているきらいがある。

ノマドライフを余儀なくされている人々が、心ならずもそうしているとは言い切れないのも、事実ではある。ファーンに助けを差し伸べようという人々は少なくない。しかし彼女はそうした安定的な家庭生活に安住できない。そこに彼女の心理的な苦境がある。

ノマドライフのグル的な存在である老人は、ノマドライフを送る者たちの集会を組織し、知識や知恵を共有しようとする。それは資本主義という荒波のなかに救命ボートを投げ入れ、できるだけ多くの命を救おうとする試みだという。しかし、映画の最後で明らかになるように、彼もまた息子の自殺という心の傷をかかえていた。

路上の生活に「さいごのおわかれ Final Goodby」はない、いつだって「道のどこかでまた会おう See you again down the road」なんだ、そして、いつだってどこかでまた出会うんだ、いつのことになるかはわからないけれど。だからこんな生を送っていれば、道のどこかで亡くなった息子ともまた再会できるような気がするんだ。だからきみもきっと亡夫とどこかで出会えるさ、というようなことを彼が抑えきれない感情を顔に浮かべながら語るとき、ファーンもまた心を動かされるし、この深い心の交わりはわたしたちの心をも動かすだろう。

ファーンの砂漠の田舎町での定住は、天涯孤独な亡き夫の記憶を忘れないためのものであったらしい。そして、ノマドライフは、それをべつのかたちで引き継ぐものでもある。だからここには、宗教的とは言わないにせよ、精神的なものがある。物質的なもの、経済的な損得には還元できないものがある(車を買い替えたほうがずっとお得だという修理工場の男たちの勧めを受け入れることはファーンにはできない)。

しかし、心理の問題がこの物語の根底にあるものなのかどうか。

ノマドランド』はとても美しい映画だ。抒情的な映画だ。しかし、この美的なリリシズムは、現代の資本主義社会が作り出した暴力の副作用でもある。そこを直視することなくこの映画を讃えることは、なにかとても罪深い行為のような気がする。

街から旅立つことで始まった映画は、街に舞い戻り、廃墟と化した家やオフィスを再訪し、そして、また旅立っていくファーンの車を映し出して、終わる。最初と最後がきれいなシンメトリーをかたちづくる。しかし、そうした美的な構成の裏には、アマゾンの配送センターの仕事という厳しい現実がちらついている。

死に魅入られた芝居:宮城聰演出、ソポクレス『アンティゴネ』

20210505@駿府城公園

死に魅入られた芝居――そんな言葉を宮城聰演出のソポクレス『アンティゴネ』に投げかけてみたい誘惑に抵抗しなければならない。これは死者のドラマではない。水をたたえた暗い舞台、中央には灯篭のように積み上げられた人の身長よりも高い岩山のうえに人ひとりが横たわれるぐらいの平たい石舞台、両側には水面から顔をのぞかせる岩の小島。そのすべてを威圧するかのように舞台後方にそびえる高い壁。水は、死の領域というよりは、死につうじる媒介であり、ここでの死は、ダンテが描き出す煉獄や仏教の地獄とはちがうものらしい。怖ろしいものや苦しいものではないのだ。死は鎮魂されるものであり、時間にも空間にも属さない静かで安らかな状態である。雨の降りしきるなか、俳優たちは水の中を悠然と歩き、手にしたグラスをこするようにしてかすかな音を響かせている。

すべての死者を分け隔てなく弔おうとする「死んでしまえば全て仏だ」という宮城の戦略的ジャポニズムは、西欧文学の古典中の古典であるソポクレスの『アンティゴネ』に独特なひねりを加えている。ヘーゲルを始めとして、『アンティゴネ』は繰り返し論じられてきたテクストだが、それは、アンティゴネがさまざまな区分――女と男、死と生、敵と味方、血縁関係と都市共同体、弔いと政治――を横断的に攪乱するトラブル・メイカーだからだろう。彼女は社会の常態を維持するために必要な虚構の正統性を根本から揺るがす問いをわたしたちに突きつける。そのような危険なまでに重層的な複雑性が、宮城の演出では削ぎ落されている。死と生という大きなふたつの軸に編成しなおされている。

しかし、それは、安易な単純化ではなく、意図的な先鋭化である。敵方についた兄を弔おうとするアンティゴネ姉妹にしても、女の言葉に反発して都市国家の原理を押し通そうとする統治者クレオンにしても、民衆の声に耳を傾けようとしないかたくなな父クレオンを諫めようとするアンティゴネの婚約者ハイモンにしても、みなが、無国籍でノンジェンダーな同じ衣装を身にまとっている。幾何学模様のボディースーツに、光を透過する薄衣のトーガ。カツラだけが唯一俳優たちの役柄を区別する記号として作用する。

全体の構成は番号オペラに近い。プロローグとなるのは、コミカルな前口上であり、俳優たちがチンドン屋のように楽器を演奏しながら、『アンティゴネ』のお話が始まる前に起こった兄弟間の死闘をライトタッチな語りでフレンドリーに紹介する。その後、劇は、シリアスとコミカルを交代させながら進んでいく。スピーカーの語りにシンクロするムーバーの身体が舞台の空気を息苦しくなるほどに濃密に凝縮させていく言動分離のシーンに、日本の民謡的音階にのっとった節回しの歌に合わせた群舞の盆踊りが続き、場の空気が何とも能天気にほどけるのが、それは束の間のことにすぎない。劇は、アンティゴネとハイモンの死という決して避けられないすでに定まった悲劇の結末めざして、ひたすら突き進んでいく。

アンティゴネとイスメネ姉妹の対話、クレオンの議論、アンティゴネの申し開き、ハイモンの諭し、アンティゴネの嘆き、クレオンの嘆きという6つの語りのシーンのなかには、レチタティーヴォのような語りが、重唱や合唱に変容していくものもある。イスメネやクレオンの声は、コロスのように複数化される。イスメネの声は、高音域のピアニッシモの無調のコーラスと合わさり、彼女の不安や怖れを増幅させる。クレオンの声は、低音域のフォルティッシモな威圧的カノンとなり、有無をいわせぬ野太い迫力を醸し出す。ハイモンは単声で語るが、彼の言葉を後押しするかのように、コロスが同意の声を合わせる。

しかし、劇的緊張感の高まりとともに、複声は単声に移行していく。自らのかたくなさが招き寄せた息子の自死を聞かされたクレオンの最後の嘆きは、ただひとつの声の慟哭である。そのなかで、アンティゴネの声だけは、最初から最後まで、複声化されていなかったのではないか。まるで弔いの普遍性を求める彼女の主張の孤独な真実を際立たせるかのように。

アンティゴネのムーバを担当する美加理の演技が傑出していた。宮城は舞台後景にそびえる壁に役者の影絵を映し出すことで、役者の存在感を、マテリアルな肉体そのものから、ヴァーチャルな投射にまで拡張していたのではあるけれど、そのような演出家の要請に応えつつ、それを上回るほどの余剰を見せつけていたのは、やはり、SPACの看板俳優の美加理だけではなかったかという気もする。彼女の作り出す影絵は、彼女の生の肉体以上に雄弁であった。影が、おそろしく艶めかしかった。しかし、裏を返せば、彼女ほどに影で自らを語らせることに成功していたものは他にいなかったということでもある。

宮城の『アンティゴネ』は情念的でありすぎるような気はするし、この情念性は、ミソジニー的と言えなくもない女性原理――世界を救うために自分が犠牲となるブリュンヒルデ的な自己破滅的な他己救済――と地続きではないのかという疑いもわいてくる。コロスの男声と女声は使用法が異なっている。現状維持を旨とする国家の論理を補強する男声の「理」的な自己正当化的な雄弁さ、クレオンとハイモンのスピーカーの圧倒的な迫力――意図的に不自然な節回しや行またぎを、自然に響かせられるほどに、彼らのセリフは腹に落ちている――と比べると、血縁の分かちがたさを訴える「情」的な女声の響きはどうしても押し出しが弱く、センチメンタルに響く。

ソポクレスのテクストにあるクイアなところ――男たちより男らしいアンティゴネ、女(のように)なることを怖れるクレオン――が、全体的に封じ込められてしまっている。劇自体が、男と女の対決のように見えてしまう。とはいえ、それが宮城の意図したことだったのか、音響の問題だったのかは、にわかには判別しがたいところもある。

とはいえ、俳優がみな群衆のひとりとして鎮魂のための盆踊りを舞うとき、俳優がみな群衆のひとりとして鎮魂のための盆踊りを舞うとき、暗闇と静寂が舞台そのものとなるとき、わたしたちはたしかに、宮城が作り出そうとした演劇空間を共有していた。わたしたちの耳に夜の闇と水のさざめきが聞こえてくるとき、わたしたちは、ともに、死者の救済を願う極致にいた。それはまちがいないはずである。

闇と静寂が舞台そのものとなるとき、わたしたちはたしかに、宮城が作り出そうとした演劇空間を共有していた。わたしたちの耳に夜の闇と水のさざめきが聞こえてくるとき、わたしたちは、ともに、死者の救済を願う極致にいた。

カツラをつけることで現世から演劇的に作り上げられた死者の世界に入っていった俳優たちが、ふたたびそのカツラを外してこの世に戻ってくるとき、その「この世」は、舞台が始まる前に存在してた「この世」とは異なっている。憎しみではなく、愛が頒け与えられる世界へと、わたしたちは連れ去られている。それは舞台の魔法が束の間のあいだ現出させた儚い願いでしかないものかもしれない。しかし、その連れ去られた愛の世界こそ、いまここでわたしたちが住まうべき世界なのである。

俳優たちがクライマックスのなか水のなかで静かに鎮魂の盆踊りを舞うとき、水面を打つ雨の音、水の中を動く俳優たちの身体の音が、たしかに聞こえた気がした。

カイルベルトの職人芸の人間性:ドイツ・ローカルな指揮者

ヨーゼフ・カイルベルトは洗練をあえて退けるようなことをする。音が割れることもいとわず金管に咆哮させる。終結部では、造形が崩れることもいとわずアッチェレランドをかける。まるで綺麗にまとめることを生理的に拒むかのように。

しかし、この熱血な忘我の突進は、計算づくとまではいわないにせよ、確立された型のようなものでもあるらしい。フルトヴェングラーのような抑えがたい有機性でもなければ、クナッパーツブッシュのような確信犯の悠揚さでもなく、カイルベルト質実剛健たる職人芸として音楽を自然に微妙に崩してくる。

粗さや荒さを芸に昇華させている。

雑というのではない。カイルベルトの音楽は全体的にひじょうに丁寧である。声部はきちんと描き分けられているし、旋律の受け渡しはクリアだ。厚めにとった中音域を中心に、低いところから高いところまで、ムラなく音を重ねている。透明度には欠けるが、風通しはよい。気取りがなく、骨太で無骨だが、色気はある。甘い旋律からは甘ったるさを抜き、ほどよい甘さを存分に堪能させてくれる。

わざとらしさがないのに、すみずみまでゆきとどいている。

彼の音楽がきわめて人間臭いのは、機械的な精度が軽蔑されているからだろうか。正確だが、過度に神経質ではない。丁寧だが、過剰なまでの気配りはない。どこか適当なのだ。職人芸的なフリーハンドは、細部をきっちりとはめこみながら、圧倒的におおらかである。細部をケアしながら、あくまで大局的に音楽を作っている。

 

それでいて、カイルベルトの音楽は小ぶりだ。スピードはやや速めで、すこし落ち着きがない。冷めた悠然さに浸るのではなく、熱い衝動的なものに正直であろうとしているかのように。フットワークの軽いカイルベルトの音楽は、クリシェ的なドイツ風の構築的演奏――落ち着いた低弦を基調とするピラミッド型の巨大構造――とはちがう。

たしかに低弦が前面に押し出されているところはあるけれども、機動力が高い。不動であることよりも、動的であることが尊ばれている。

 

カイルベルトの手にかかると、ワーグナーブルックナーシュトラウスも、みんな中規模な作品に聞こえてくるから不思議だ。音楽がせせこましくなっているからではなく、指揮者のつかみかたが大きいからだろう。並みの指揮者の手からは零れ落ちてしまいそうなものが、カイルベルトの大きな手のひらのなかに完全に収まるのである。

もしかすると、カイルベルトの音楽の基点は、ベートーヴェンでもワーグナーでもなく、その中間に来る前期ロマン派にあるのではないかという気がする。彼がベルリン・フィルと録音したウェーバーの『魔弾の射手』は、依然として、範例的なものである。時代がかったところがないわけではないし、歌手の歌唱スタイルはオールディーなところがある。しかし、なぜか過去の遺物には聞こえない。それは、これが、録音された1950年代後半の音楽シーンだけではなく、19世紀初頭にはじまるドイツの音楽の系譜の体現であり、おそらく、その終焉を記念するものだからかもしれない。

1950年代のバイロイト音楽祭の常連であり、ザルツブルク音楽祭に客演し、晩年には来日してNHK交響楽団を振っていたカイルベルトをドイツ・ローカルな指揮者と言い切るのはためらわれるけれど、オペラ・ハウスを主な仕事場とした彼は、地付き音楽家――演奏家だけではなく、聴衆も含めた地域の音楽共同体に所属する存在――だったのではないかという気がする。

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まねること、学ぶこと、考えること(ル=グウィン『オールウェイズ・カミング・ホーム』)

"As a kitten does what all other kittens do, so a child wants to do what other children do, with a wanting that is as powerful as it is mindless. Since we human beings have to learn what we do, we have to start that way, but human mindfulness begins where that wish to be the same leaves off...We have to learn what we can, but remain mindful that our knowledge not close the circle, closing off the void, so that we forget that what we do not know remains boundless, without limit or bottom, and that what we know may have to share the quality of being known with what denies it. What is seen with one eye has no depth." (Le Guin. Always Coming Home.)

 

「子猫はほかの子猫みんながしていることをする。それと同じように、こどもは他のこどもたちがすることをやりたがる。その渇望は強力で、そのうえ、思慮に欠けている。わたしたち人間は、学ばなければできることもできないのだから、そんなふうに始めるしかないけれど、ひととしての思慮が始まるのは、同じでありたいという望みが脱ぎ捨てられるところ . . . わたしたちは、自分たちにできることを学ばなければならないけれど、思慮をおろそかにしてはならない。思いをはせなければならない。わたしたちの知識は、円環を閉じるわけではないけれど、空白は閉め出すので、わたしたちは、自分たちの知らないことが果てしなく拡がっていて、境界もなければ底もないことを忘れてしまう、ということに。わたしたちが知っていることは、知ったことにされることを拒むものと、知られることがどういうことなのかを、共有する必要があるかもしれない、ということに。」(ル=グウィン『オールウェイズ・カミング・ホーム』)

マーラー交響曲5番4楽章アダージェットの映像化の可能性

もはやマーラー交響曲第5番4楽章アダージェットをヴィスコンティの『ヴェニスに死す』と切り離してイメージすることができないこと、ゴンドラと水と甘美な死というイマージュが否応なしに喚起されてしまうことを引き受けた上で、なにかべつの美の可能性を提示しているように感じる。セピア色の映像が音楽と見事にシンクロしている。

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嘆きの歌の慰め(エウリピデス『トロイアの女』)

「幸薄き者の雅びは/調べなさぬ悲運の嘆きのみ。」(エウリピデストロイアの女』120‐21行)

「苦しみになやむときは涙こそこよなき慰め、悩みを歌い、苦しみを語れば、おのずと心は安まるもの。」(エウリピデストロイアの女』608‐9行)