フレデリック・ワイズマン『エクス・リブリスーーニューヨーク公共図書館』(2017)

20190616@静岡シネ・ギャラリー

変奏曲として、または多面性の表象

バッハの『ゴルトベルク変奏曲』の「アリア」がクレジットの入りとともに流れ出すとき、わたしたちは、このドキュメンタリーが変奏曲のようなものであったことに気がつく。同一主題の差異を含んだ繰り返し。時間的に隣接するシークエンスが直接に結びつくというよりは、フラグメントのようなイマージュが間歇的に出現し、単線的な進行を複線化し、奥行きを与える。だからここにはひとつの明確な盛り上がりのようなものはない。それが図書館の日常であり、図書館という空間の生のありかたなのだ。

フレデリック・ワイズマンの『エクス・リブリス』は、ニューヨーク公共図書館The New York Public Library(NYPL)をめぐるドキュメンタリーだが、それが対象とするのはマンハッタン島のど真ん中にあるあの有名な本館というよりは、それを含めたニューヨーク市公共図書館群である。巨大なリサーチ用の図書館から、ローカルなコミュニティーの図書館まで、黒人関連資料アーカイブショーンバーグ・センター)から音楽ホール(ブルーノ・ワルター・オーディトリウム)まで、ニューヨーク全域に張り巡らされた図書館ネットワークが対象となっている。

3時間を超えるこの映像にはさまざまな情景や人々が収められているし、朝から夜までという自然のサイクルをそれとなく踏まえたかたちで進んでいくが、そこにドキュメンタリー作家の強固な統合が作用しているという印象はない。もちろん、膨大なフッテージのなかからこれらのシークエンスを選び出すというその編集行為自体が、作家による介入でなくて何であろうというところではあるけれど、にもかかわらず、作為のようなものがここにはほとんど感じられない。あえて言えば、特定のテーマのもとに多様なものを還元しないという脱‐統合原理が全体の統合原理になっている、ということになるだろう。NYPLの特定の側面を強調するのではなく、その雑多なまでの多面性をこそ捉えようとしているのだ。

 

等価性の原理

それはもしかすると、等価性の原理と呼んでいいものかもしれない。有名な作家や芸術家や学者によるトークイベントとベルトコンベアを前にした配本作業とが、祝典での晩餐会と蔵書のデジタル化とが、聴覚障碍者がリアルタイムで演劇を楽しむための手話ワークショップとローカルなコミュニティでの小学生対象の宿題ワークショップとが、ジョブフェアとWifiルーターの貸し出しとが、社会保障についての視覚障碍者たちのミーティングと貸出傾向についての司書たちのミーティングとが、画像アーカイブへの社会見学と図書館付近の路上とが、インテリアを写真に収める観光客とソファーに寝そべるホームレスとが、分け隔てなく表象される。そこには誇張もなければ矮小化もない。どれかがなにかべつのものよりも特別に重要というわけではないかのように、NYPLのなかで起こることはどれもが図書館の生にとって必要不可欠であるかのように。

とはいえ、シークエンス同士は等価的であるとしても、そのあいだに差し挟まれる再帰的なイマージュもある。本館の廊下である。大理石の床、アーチ状の天井、格子の扉。そこに特別な意味が付与されているわけではない。まさに図書館の日常性の証左としてのイマージュなのだろう。

 

図書館の公共性をめぐる問い

シークエンスは等価的につなぎ合わされていくが、そのなかで、シークエンスをまたいで幾度となく尋ねられる問いがある。図書館の公共性についての問いだ。実際、予算や運営をめぐる会議の模様が数回にわたって映し出されるのだけれど、そこでは、NYPL全体の方向性を決める大きな議題が論じらる。電子書籍と紙の書籍の割合をどうするのか、ホームレスを受け入れるのかどうか、市からの予算の増減、私的投資の呼び込み、公と私の相乗効果といった問題が論じられる。

それは図書館の使命をめぐる議論であり、「公共」の定義をめぐる問いかけだ。

公共であること、それは市民にたいして開かれていることであり、あらゆる市民にたいして同じように開かれていることである。しかしながら、市民の求めるものはそれぞれに異なっているから、リサーチをする人の求めるものを優先すればベストセラーを読みたい人のニーズをかなえられないし、ホームレスを歓待すればそれを喜ばない人を失望させることになる。

完全な解答はない。しかし、だからといって、そのための探求を放棄するわけにはいかない。すべては不完全ではあるけれど――予算は決して十分ではないし、時間や人員とて十全ではない――そのなかでできることをやらなければならない。

 

言葉のドキュメンタリー

『エクス・リブリス』は膨大な言葉を収めている。映像作品であるにもかかわらず、ここのドキュメンタリーの訴求力のかなりの部分はそこで語られる言葉に求められるだろう。

しかしそれは必ずしもそこで語られる言葉の内容のせいだけではないように思う。ここで表象されているのは、図書館に人が集い、そこで言葉が語られ、その言葉が多数の列席者に聞かれているという、言葉のパフォーマンスの共同性である。

わたしたちはその言葉のパフォーマンスを目撃しながら、単なる傍観者ではなく、列席者のひとりになる。というのも、このドキュメンタリーで語られる言葉はすべて、カメラに向かった話されたものではないからだ。図書館運営をめぐる議論にしても、トークイベントの語りにしても、すべて、その場にいる別の人々に向けられた言葉なのだ。

わたしたちはまるで透明人間のように、あらゆる会話や演説に参加し、話し手を見つめ、そして、同じほかの列席者を見つめる。ワインズマンの映像は擬似的な参加意識を作り出す。

 

人が集う社会的空間として図書館を定義しなおす

図書館を社会的な空間として定義すること、それは、図書館がすでに存在する社会問題と深くかかわりあうことを意味する。都市のインターネットインフラ整備は、必ずしも図書館の仕事ではないかもしれないが、万人の情報への自由なアクセスというミッションをかなえるためには、「図書館だから」と言い訳するわけにはいかない。

もちろん図書館が果たすべき義務は存在するだろう。それが公共施設であり、市の予算が入っている以上、行政の要望は無視できないけれど、行政的な義務に以上に重要なのは、図書館の使命である。それを、変わりゆく現実を前にして、つねに問い直し、つねに定義しなおし、つねに実践し続けていくこと、そこにこそ、現代における図書館の存在意義がある。

ドキュメンタリーなかばあたりで、オランダのある建築家が、現代の図書館にとって重要なのは、そこに所蔵された本ではなく、そこに集う人なのだ、と述べていた。図書館は学びのための場所であり、学ぶ人のための空間である。こう言ってみてもいいだろう。本は手段であり、目的そのものではない、と。

もし図書館が資本主義的な経済合理性やナショナリズム的な野蛮性や暴力性に抗する民主主義のための場でありえるとしたら、それは、図書館が教育的なところだからだ。それは図書館がある特定の知や理念を押し付けるからではない。そうではなく、知るということ、学ぶということ、考えるという行為を生み出し、支え、拡げていくための空間として機能するからである。

そしてそのために、人がいるのだ。学ぶ人だけではなく、教える人が。そして、なによりも重要なことに、ともに学ぶ人が。

 

ドキュメンタリーを体験すること、または公民になり続けること

このドキュメンタリーを体験すること――そう、この長大な、まさにわたしたちの日常がそうであるように、あくびの出そうなほど退屈な瞬間もあればワクワクするほどの感興の瞬間もある、図書館という公共の場所に集う公民たちの共同的な生の様態を描いた映像を見ることは、ただ傍観すること以上の経験であり、そこで描き出される思想や問題を自らのものとして引き受け、取り組んでいくという体験にほかならないのである――、それは、わたしたちがともに学ぶ人になるというプロセスである。

もちろん、意図的に控えめに作られている『エクス・リブリス』に華々しい万能薬が登場するわけではない。しかしここには、図書館が民主主義のための条件であること、民主主義のプレイヤーたる公民の育成のためには図書館の提供する情報への自由で無料なフリー・アクセスが必要不可欠であること、公民育成が持続的な終わりなき闘いであることが、力強く映し出されている。

真似るべきは、NYPLというよりも、NYPLがニューヨークの生の現実と対話し、格闘し、共生し、互いに歩んでいこうという、現在進行形的な、ワーク・イン・プログレスの姿勢だろう。そうした姿勢をただ映像として表象するだけでなく、物理的な尺の長さと地味な進行による作劇的なドラマの無さによって、観客であるわたしたちをもそのプロセスの一部に静かに静かに巻きこんでいくところにこそ、ワイズマンのドキュメンタリーの押しつけがましくないユートピア性があるはずである。

 

多和田葉子『地球にちりばめられて』(講談社、2018)

重なり合う糸、閉じない端

無関係にみえた人びとが言葉をめぐる冒険をとおして撚り合わされていく。しかし、言語の冒険物語は、決して大団円にはたどりつかない。糸はほどけ、突如として断ち切られる。

それは、多和田の小説が解決をめざしていないからだろう。もし解決が、結び合わせて閉じることであるとしたら、無数にある可能性のなかから任意の糸だけを選び出して残りを切り捨ててしまうことであるとしたら、多和田の小説は切り捨てないことを、選ばないことを選ぶ。

だから、断ち切られるという言い回しは正しくないだろう。端をほつけたままにしておくことで、そこに、べつの糸と絡み合っていく可能性を開いたままにしておくのだ。可能性はつねにすでに開かれているのだから、問題は、その可能性を殺さないことである。たとえ開きっぱなしにしておくことで、物語がどこか踏ん切りのつかない尻切れトンボのようなものになってしまうとしても、である。

多和田の小説が与えてくれるのは、充足感ではない。われ目もすき間もない容器が上まで一杯になるような感覚ではないし、蓋をこえて溢れ出すような奔流の感覚でもない。多孔質な肌理のあちこちから中身がほのかに滲み出たり、ちょろちょろと流れ出たりするような、そして気がついてみれば容器のなかにない中身がべつのところでべつのかたちをかたちづくっているような、そんな静かで深いふいうちの感覚だ。

 

 

あらすじのようなもの 

『地球にちりばめられて』は万華鏡のような6人の語りで出来ている。そこには6人の声を統合するような作者=語り手による上からのまとめは存在しない。誰もが状況の内側から、自分の視点から語る。けれども、言語をめぐる物語である『地球にちりばめて』を始動させ、出逢いを作り出し、人びとを導いていくのは、「コペンハーゲン大学言語学科の院生」クヌートである。

クヌートは、スカンジナビアの諸言語から手作りした彼女だけの人工言語「パンスカ」を話すHirukoをテレビでみて、彼女に会いたくなる。デンマークの「メルヘン・センター」で移民の子供たちにお手製の紙芝居をやっているHirukoは、トリアーはカール・マルクスの生家で開かれるらしいウマミ・フェスティバルに行くつもりである。というのも、そこに行けば、彼女の失われた母国の母語をシェアする人に会える可能性があるからだ。Hirukoに惹かれるクヌートは彼女に同行することに決める。

ルクセンブルクでアカッシュがふたりに加わる。女性として生きるという「性の引っ越し」を決めてからアカッシュが外出時に着ている赤色系統のサリーではなく、かつてインドと呼ばれていた南アジアの国の出身であるアカッシュの話す「マラーティー語」がクヌートを惹きつけ、アカッシュはクヌートに惹きつけられる。

ウマミ・フェスティバルの講師を務めるはずだったテンゾがカイザーテルメン(皇帝浴場)の遺跡で行き倒れていたのを救ったノラは、真の労働者になりたいと願って大学に行く代わりに病院に勤めてみたものの、結局は大学で政治学と哲学を専攻して、卒業後は地元の博物館に就職していた。恋人と別れたところだったノラはエキゾチックな若者テンゾに惹きつけらえていく。

テンゾはHirukoの同郷人ではないし、テンゾは本当の名前ではない。グリーンランド育ちのクヌートは実はナヌークの過干渉な母が提供する奨学金コペンハーゲンに出てきて、環境生物学を学びたいと漠然と思いながらも医学をやるつもりですと出資者に口走ってしまったものの、語学学校でさまざまな語学をやるかたわら、「サムライ」という名のレストランでバイトを始める。先天的な語学の才があったクヌートは、ドイツ語やフランス語をやってもエスキモーはヨーロッパ人だとは思われないが、鮨の国の言葉を話せるようになればその国の人間と見られるようになるかと思い、その言葉を学び始め、「テンゾ」を名乗るようになる。大学に入るまえに旅に出たテンゾはドイツを放浪してトリアーにたどり着き、ノアに拾われる。無職のテンゾに仕事を作ってあげようとしたノアの企画したウマミ・フェスティバルが具体化するほどに自らの捏造したアイデンティティが発覚するのを恐れるようになったテンゾは、直前になって、オスロに逃亡する。

こうしてナヌークとHirukoとアカッシュとノラが行方をくらましたクヌート/テンゾを追って政治テロが起こったらしいオスローに飛ぶ。テンゾが鮨の国の住人でないことに気づいたHirukoは怒りを覚えないが、テンゾの嘘に怒るべき理由はないはずのアカッシュが怒る。そこにノラが加わり、ナヌークが加わる。

テンゾ/クヌートを探すふたつの旅が交わり合う。同郷人かもしれないテンゾと会おうとするHirukoについていくナヌークという言語の冒険の旅が一方にあり、恋人未満のクヌートをつかまえようとするノラという恋愛の冒険が他方にある。しかし、ふたつの探求が最終的にたどりつくのは、テンゾ/クヌートではなく、アルルにいる本当の鮨の国の住人の鮨職人のSusanooである。

Susanooの店にひとりひとりと合流していく。そしてそこに、ナヌークに干渉しようと後を追ってきたナヌークの母が加わり、ナヌークの母は行方不明になっていた彼女の奨学金受取人のクヌートを発見する。こうして偶然のなかで出会っていっただけだったキャラクターたちのあいだには、もとから、微妙な関係があったことが発見される。それは生物学的に真なる血のつながりではなく、後付けで作り出された偽のつながりでもあれば、言葉によるナヌークとクヌートという疑似兄弟(ナヌークの母はクヌートに奨学金を出す)、すでに滅んでしまった鮨の国の住人であるSusanooとHiruko、鮨の国の住人の失われゆく言葉を学びそのアイデンティティを得ようとしたクヌート/テンゾ。しかし、物語の大団円になるかと思われた全員集合は、沈黙に沈みこんでいく。Susanooが語るのは沈黙である。そんな不思議な集まりのなかで、ナヌークは、自らが当事者というよりは司会者であることを発見する。

それにしても変な会議になった。僕と僕と産んだ人と偽の弟と偽の恋人とその同郷人がテーブルを囲んでいる。Hirukoが久しぶりで母語を共有するSusanooに出逢ってどんな風に会話を交わすのかを観察するつもりだったのに、そのSusanooが何語もしゃべらなくなっている事実が判明してからは、ストックホルム失語症の研究をしている先輩のところで治療を受けるべきかどうかみんなで考えるはずだった。ところがいつの間にか、ナヌークとおふくろの問題に焦点がずれてしまっている。おふくろの登場に動揺し、とりみだして無駄な口論の噴水の栓をあけてしまった自分にも責任がある。本気になってはだめだ。これはゲームなんだと思って肩の力を抜いて、コントロールを取り戻そう。ゲームと言っても、言語をこんなに使うコンピューター・ゲームはない。むしろテレビのトークショーだ。客間の視聴者たちは自分にとってはどうでもいい問題について、番組のゲストたちが顔を赤くしたり、涙を目に溜めたりして語るのを観て楽しむ。そうだ、僕は司会者を演じることにしよう。(296‐977頁)

シリアスなものではあるが、これはあくまでゲームなのだ。失われたものを求める旅、起源に至ろうという探求の旅は、そのシリアスさを失うことなく、いつのまにかファルスのようなものにすり替わってしまっている。

悲劇的なもののお笑い草への変身、そのちょっと不思議な脱臼感こそ、近年の多和田の物語の真骨頂だ。

 

すこしディストピアな暗くない世界

『献灯使』に如実に現れているように、近年の多和田の物語のひとつの基調にあるのは、ポスト日本という世界である。しかし、そこに壮大な悲壮性があるわけではない。日本が滅んでいたり、滅びかけていたりするが、そこに暗さはない。暗い現実から、ほのかに明るい奇想が立ちあがってくる。

よく考えてみると地球人なのだから、地上に違法滞在するということはありえない。それなのになぜ、不法滞在する人間が毎年増えていくのだろう。このまま行くと、そのうちに、人類全体が不法滞在していることになってしまう。(41頁)

多和田が描くのは必ずしも未来予想図ではない。なるほど、それはありえる可能性の未来ではあるけれど、いまの現実の延長線上にあるというよりは、そこからすこしズレたところにあるパラレルワールドのようなものだ。

だからなのか、多和田の小説では、明白な参照項が省かれている。オスロで起こった政治テロはまずまちがいなく白人至上主義者による銃乱射事件だろうし、『献灯使』の世界をもたらしたのはフクシマでの出来事だろう。だが、決してそう言いきられることはない。

それは慎み深さでも臆病さでもなく、わたしたちの想像力を非限定的なものにするための意図的な戦略なのだろう。だから多和田の物語はわたしたちの想像力を刺激し、流動化し、流体化するけれども、決して固定化することはない。ここでは、ありえるかもしれない可能性のひとつが、絶望的というわけではないけれど理想的というはずはない未来の現実が描き出される。

 

失われたものは取り戻すべきものではない

多和田の登場人物たちは、どこか失われており、どこか充たされていないが、欠損によって不幸せになっているわけではない。過去志向でないからだ。失われたものを取り戻そうとはしていないのだ。

多和田の小説はその意味で男性的な主流モダニズム的とはかけ離れている。ギャツビーやマルセルのように取り戻すことのできない過去を狂おしいほどに求めることはないし、クエンティンやスティーヴンのように自らの罪を思い起こさせる過去の虜になることはない。アッシェンバッハのように手に入らないものに憧れて緩慢な自殺を望むような破滅性はない。

多和田の小説に過去がないわけではないが、すべては未来に向かっているかのようだ。

海藻から旨味をとりだせば、魚を食べなくても魚を食べた時に感じるような満足感が得られる。将来、魚が絶滅した時に、海から生える植物からいかに魚の記憶を煮出すかが板前の大切な課題になってくるのではないか。俺はそれを「出汁の研究」と呼んでいた。(144頁)

取り戻そうという思いがないわけではない。しかし、それは、失われたものをそっくりそのまま甦らすことではない。べつのかたちで、べつのやりかたで、そうやるのだ。手段もちがえば、材料もちがう。しかし、最終的に出来上がるものはそれらしいものになっている。

そんなある日、誰に鮨の握り方やおいしい味噌汁の出汁のとり方や完璧な揚げ出し豆腐のつくり方を習ったのかとチョウに訊いてみると、パリのホテルに勤めるフランス人から習ったと言う。俺が驚いていると、「オリジナルが消滅した後は最上のコピーを捜す以外に方法はない」と謎のような言葉を吐いた。なんだか恐ろしくてその意味を問い直すことができなかった。(141頁)

オリジナル「である」ことはもはや重要ではない。というよりも、多和田の関心は、オリジナルであることにもオーセンティックであることにもない。

ナヌークが母語を共有する人間ではないことが判明しても、がっかりしなかった。むしろ母語なんてどうでもよくなってきて、ナヌークという一人の独特の発音生物の存在が、わたしという独特の発音生物と出逢ったという事実の方がずっと重要なのだという気がしてきた。(262頁)

失われたものを取り戻そうという努力、そしてその不可能な努力が生み出していかざるをえないズレ、そしてそのズレから最終的に生まれてくる未知のものへの漠然とした期待、そこにこそ、多和田の文学の勇敢さがある。それはもしかすると、伝言ゲームのなかで、メッセージの一字一句違わぬ正確な伝播に固執するのではなくて、メッセージの遊戯的な変容を楽しむことに似ているかもしれない。

 

起源を掘り崩す

作家には2種類あるのかもしれない。奔放な想像力で一足飛びに作り出してしまう作家と、地道な努力によって一歩一歩作り上げていく作家、何もないところから一挙に作っていく作家と、すでにあるものを丁寧に作り替えていく作家、まるでキャラクターたちに憑依するかのように生まれも育ちも気質も考え方も何もかも正反対のキャラクターたちまで生き生きと描き出すパノラマ的作家と、究極的には作家の分身でしかない少数のキャラクターを乱反射させる万華鏡的作家だ。そして、多和田は後者の系譜に入るだろう。 

それは彼女の想像力がちっぽけだというのではない。表面的にはそう見えるかもしれないが、それは単に入口のことだけだ。ありふれたところから入っていて、深いところをラディカルに揺すぶる。そして、屋台骨を破壊するというよりは、その構成要素を入れ替えたり、物の性質をすり替える。すると、わたしたちが自明だと思っていた世界が突如として不思議な世界に代わってしまう。

多和田がよく知られたモチーフ、神話であるとか民話のようなものを使うのは、そういう理由からかもしれない。ありきたりだと思われるところにこそ、掘り下げてみれば、不可解なものが顔を出すのである。

ある時、アマテラスオオミカミに頼まれて、機織り嬢が神に捧げる服を織っていると、スサノオが皮を剥いだ馬を機織り小屋に放り込んだ。機織り嬢は驚いたはずみで、機織り機のつんつんに尖った部分に膣を刺されて死んでしまった。アマテラスオオミカミはそれを知ると、弟に絶望し、闇に姿を隠してしまった。太陽が隠れて世の中が暗くなる。それが日蝕を意味するということはオレにも納得できる。しかし機織り機の尖った部分が膣に刺さるなんてことがありうるだろうか。これは性犯罪ではないか。もしかしたらスサノオが尖った性器を差し込んだ相手はアマテラスオオミカミ自身で、そのショックで彼女は性格が分裂して、傷ついた自分の一部を機織り嬢にしてしまったのではないか。(235頁)

こうした解釈が正しいか間違っているかは、たいした問題ではない。彼女が求めているのは、過去の真実ではなく、未来に向かうための推進剤だ。嘘でもいいのだ、もしそれが未来から振り返ってみたときに本当のことになっているのなら。

僕はナヌークが嘘をついているなと直感した。それを嘘と呼んでいいのかどうかは分からないが、袋小路に追い込まれた時に、言葉をシャベルにして抜け道を掘っていく、あのやり方だ。でも、その時必死に掘った抜け道が何年か後で研究の土台になるかもしれない。そうなったら、それはもう嘘ではない。つまり、言葉を発した瞬間にはまだ嘘かどうか決定していな(298)いということになる。(299頁)

未来に向けて開かれた嘘はいまだ果たされぬ約束なのだ。というよりも、もし具体的な真実性という基準ですべてを断罪しようというのであれば、未来についての言説のほとんどが現実的には未定の事柄であり、嘘ということになってしまう。

もちろん、国家元首に相当する人間たちが臆面もなく息を吐くように嘘を吐いている現代にあって、嘘を称えるのは危なっかしい。けれども、嘘と直感できるけれども、嘘と呼んでいいのかはわからないような可能性、追い詰められた苦し紛れの出まかせであるけれども、そこからの死に物狂いの逃走がどこかにつながって出まかせが本当になる可能性は、過去や現実をごまかすための嘘ではなく、未来によって現実を自分が望んだはずのものに変える預言的な嘘は、文学が守るべき知恵であるかもしれない。

 

言葉と戯れる

多和田の物語は、失われたものや欠けたものというウェットでエモーショナルなものを主題化するにもかかわらず、どこかカラカラと乾いている。しかし、さわれば割れたり折れたり砕けてしまうような脆い乾きかたではない。手ざわりはひんやりとしていて、すこしのあいだ触っているとわずかな湿り気が心地よく感じら、いつのまにかその微量の水分が自分のなかのヒビワレをうるおわせ、ベトつくことなしにしなやかになっていくような、そんな感覚がある。

もしかすると、多和田にとって言葉とはなによりも音的なもので、だからこそ、感触的なものなのかもしれない。

ハシオキ、ウルシ、ミソシル、ワカメ、コンブ、ネギ。不思議な響きばかりだった。遠い場所から響いてくるのに、どこか懐かしい。発音するとずっと忘れていた子ども時代のある情景を思い出しそうになる。ところがその情景は映像を結ぶ寸前に消えてしまう。(141頁)

サウンドがヴィジュアルと結びつくし、そこにはエモーションがこもっているし、ちょっとオカルト的と言いたくなるほどの憑依性がある。

新しい単語を学んで一晩寝て翌朝目が醒めると、記憶が二つに割れていて、ずっと前にすでにその単語と出逢ったことがあるような気がしてくることがある。

本当に初めて出逢う単語というのは稀で、大抵の場合はどこかで一度見たことがあり、その時かすかな傷が脳についている。その傷が二度目の出逢いで活性化されるのだという珍説を読んだことがある。だから語学を学習する時も全く新しい事を覚えるのだと思ってはいけない。昔自分が話していた言語を思い出そうとしているだけなんだ、と考えた方がいい。(216-17頁)

なるほど、多和田の言語感覚は独特である。そして、その始まりは感性的なものが強いような気もする。にもかかわらず、それを敷衍していくやり方はきわめてロジカルなのだ。シンメトリー的と言ってもいい。

沈黙には、湿った沈黙と乾いた沈黙がある。いつか沈黙の湿度と温度について研究してみたいけれど、果たして沈黙が言語学の研究対象になるのかどうか。おふくろの沈黙がじわじわと僕を追いつめていく。(195頁)

一方には、「湿った」「乾いた」という対立するペアがある。そしてそれが、「沈黙」と、シュルレアリスム的に出逢う。沈黙という具体的ではないものを、湿りや乾きといった水分状態と引き合わせるというのは、かなり直感的なものだろう。もちろん、ここに、沈黙を雰囲気と捉え、雰囲気を空気に置き換え、そこから湿った空気や乾いた空気へとつなぐという論理的な回路を想定することは可能だけれども、ここでは、そうした連続的な中間項をあえてスキップすることで、言葉のイマージュのあいだをジャンプしているのだ。けれども、そうやってジャンプしたあと、「湿った」や「乾いた」という具体的で感性的な形容詞から、「湿度」という抽象的一般名詞へと引き上げられ、「湿度」が「温度」というペアを引き寄せる。こうして、沈黙が学問対象になったかのように思われたまさにその瞬間、沈黙は突如として「おふくろ」の所有物になり、圧倒的な現実感とともに「僕」を追いつめ出す。 

言葉が言葉を呼びこみ、イマージュが拡がっていく。

「それじゃあロボットって言葉も方言か?」「違う。チェコ語だ。」チョコ語というチョコレートのように甘い言語があるのか。もしチョコレートで機械をつくることになったら、削りかすも美味しそうだな。「チェコって京都より遠いところ?」「ずっと遠い。」(224頁)

「ロボット」という言葉を発明したチェコの作家カレル・チャペックから始まった会話は、一瞬のうちに、「チェコ語」という現実の言語から「チョコ語」という仮想の言語に飛躍し、「チョコ語」は「チョコレート」との関係から「甘い言語」として空想される。そして空想はふたたび、ロボットをめぐる会話内容に振り向けられ、そこでチョコレートの削りかすというイマージュが出てくる。言語の美味しさという不思議なアイディアが浮かび上がってくる一方、会話は元の真っ当な道に戻る。この壮大な言葉的空想冒険はほんの数行で完結する。

多和田の言葉遊びは、レパートリーが広いだけではない。瞬間的なものではなく、持続的に広がっていくものなのだ。斜面を転がる雪玉が転がるほどにますます大きくなって速度を上げていくように、彼女の言葉遊びも小さなものが大きなものへと成長していく。ひとつの単語から始まったものが、ふたつ一組のペアになったり、それがまたべつのペアと組み合わされたり、または、単語から慣用句へと発展していったりする。しかし、慣用句的な言い回しの字義どおりの意味をひょいっと表面化させることによって、それまでの流れをいなすことでパラグラフは閉じられる。

彼女の小説世界が現実によく似たパラレル・ワールドであるように、彼女の小説言語も、現実の言語によく似たパラレル・ランゲージであるような気がしてくる。

ツル、吊る、釣る、つるつる、つるつるした食べ物でもよく噛んで食べなさい、噛め、亀。失われた長い年月と妄想に近い故郷を取り戻すにはあまりにも小さ過ぎる二音節の言葉たち。でももしも言葉が一枚の巨大な網ならば、大西洋よりも太平洋よりも大きな一枚の網ならば、一か所をつまみ上げただけで残りが全部ついてくるはずだった。鶴をつまんでもダメならば、亀をつまんでみるという手もある。(268頁)

「ツル」という始まりの言葉が、意味の領域と音の領域を振り子のように行ったり来たりしながら、いつのまにか振り子の振れ幅を越えてほかの方向にも横滑りしていく。動物の「鶴」という名詞が、同音異義語の動詞「吊る」や「釣る」に横滑りし、そこから「つる」をふたつかさねた擬音語「つるつる」に続く。「つるつる」という音はふたたび意味に引き戻されるが、今度は「つる」という単語ではなく、「つるつる」から連想された「食べ物」へと横滑りし、「食べ物」が「噛む」という行為=動詞を想起させる。そして、「噛め」という動詞の活用形が、ふたたび、動物の「亀」という名詞へと帰還するとき、この連想ゲームの背後に、「鶴亀」という慣用句があったことに、わたしたちは気がつく。

とても小さな二音節の言葉は、孤立したものではないから、ひとつをつまみ上げれば、それをフックにして巨大な網を引き上げられるかもしれないし、ツマミはひとつではない。どこからでも、どういうふうにでも、つまみあげることができる。言葉はつながっているし、そのつながり方はひとつだけではない。意味からも、音からも、慣用句からも、ことわざからも、言葉のなかに入っていくことができる。 

救済がありえるとしたら、それはつねに、言葉をとおしてのことである。

 

言葉の翻訳、翻訳の言葉、言葉=翻訳の捏造的創造想像

でも言語は人間を幸せにしてくれるし、死の向こう側を見せてくれる。(77頁)

言葉は幸せをもたらす。しかしそれは、言葉が充足感を与えてくれるとか、天上界に連れていってくれるとか、そういう幸福な理由ではなさそうである。言葉はわたしたちの至らなさ、わたしたちがつねにすでに自分のなかに抱えこんでいるミステリーへの扉を開いてくれるからだ。

言語は不可思議なものでもある。多和田は慣用表現を脱臼させることで、わたしたちの言葉にたいする不感症をくすぐる。

何を話してもそれを拾って投げ返してくれる相手ならば、雪合戦が雪だるまに発展していくように、空白さえどんどん大きくしていけるかもしれないけれど、よりによってこんなに無口な相手にぶつかってしまうなんて。それにしても「無口」って変な言葉。口が無いわけじゃなくて、口はある。歯もあるし、舌もある。(274頁) 

わたしたちはなんと適当に言葉を使っているのだろう。「無口」という単語のポテンシャルをつきつめて考えていないのだ。「無口」は「しゃべらないこと」と片付けてしまうけれど、ビジュアルとして思い浮かべれば、ぎょっとするほどにオカしな光景が迫り出してくる。わたしたちの言葉は最初からおもしろいのだ。わたしたちがそれをつまらなく使っているだけなのだ

言葉は解放をもたらす。言葉は世界であり、世界観だからだ。言葉を増やすほどに、べつの目や耳が、べつの感じ方や考え方が育っていくからだ。なるほど、それはもしかすると、ごちゃごちゃしすぎて面倒くさいものかもしれない。しかし、ひとつでは、ひとつだけでは、あまりに味気なくてつまらないではないか。

語学を勉強することで第二のアイデンティティが獲得できると思うと愉快でならない。実はこの「アイデンティティ」という長ったらしい単語もジョージの置き土産だ。エスキモーであることが恥ずかしいとは少しも思っていないけれど、一つのアイデンティティで終わってしまうのでは人生にあまりに膨らみがない。(140-1頁)

言葉は誰のものだろうか。どこかの国のものだろうか。どこかの時代のものだろうか。勝手に学んで、勝手にその言葉の話者となり、それどころか、その言葉が話されていた国の人のアイデンティティを勝手にもらってはいけないのだろうか。

そんなことはない。非ネイティブのほうがネイティブよりも鈍感だろうか。非ネイティブのほうがネイティブより正確だろうか。ネイティブが絶対であると信じるのにはまったく科学的根拠がない。

ネイティブは魂と言語がぴったり一致していると信じている人たちがいる。母語は生まれた時から脳に埋め込まれていると信じている人もまだいる。そんなのはもちろん、科学の隠れ蓑さえ着ていない迷信だ。それから、ネイティブの話す言葉は、文法的に正しいと思っている人もいるが、それだって「大勢の使っている言い方に忠実だ」というだけのことで、必ずしも正しいわけではない。また、ネイティブは語彙が広いと思っている人もいる。しかし日常の忙しさに追われて、決まり切ったことしか言わなくなったネイティブと、別の言語からの翻訳の苦労を重ねる中で常に新しい言葉を探している非ネイティブと、どちらの語彙が本当に広いだろうか。(210頁)

多和田の文学の根底には、言葉についての思想がある。それは翻訳的な思想であると言ってよいだろう。そこから、移民であるとか、亡命や亡国のようなモチーフが入りこんでくる。

移民は一つの状況でしか使えない言葉を無数に覚えている時間はない。子どもの頃から根源的で多義的な単語を押さえておいた方がいいのではないかと思う。(35頁)

多和田において、翻訳は、自己の愉しみであると同時に、已むに已まれぬ現実でもある。それはまちがいなく、彼女の自伝的なところと深く結びついた感覚なのだろう。若くしてドイツに渡り、母語ではないドイツ語で(も)書くという決断をした作家としての多和田葉子の、誰かに強いられたのではなく彼女自身が選んだ移民的で亡命的な生と、根源的なところで響き合うものなのだろう。

しかし、翻訳にしても、言葉にしても、それは非ネイティブだけに課された重荷などではまったくない。ネイティブがデフォルトで、非ネイティブが異常や異端なのではない。ネイティブが自然な正義で、非ネイティブが不自然な邪魔者なのではない。非ネイティブにとっての必然であるが翻訳こそが、そのプロセスのもつ必然的な遅さやもどかしさ、複数性や多層性ゆえに、平和をもたらす。

 「翻訳」という言葉を聞くと二人の喧嘩の火はすぐに勢いを失ってしまった。翻訳しながら喧嘩するほどしらけることはない。(177頁)

 翻訳はさまざまな領域を旅することである。ひとつの言語からべつの言語を、同じ時代に属するひとつの言語からべつの言語へ、ひとつの時代に属するひとつの言語からべつの時代に属する別の言語へ。だから言語旅行は空間旅行でもあれば時間旅行でもある、翻訳はタイムトラベルを越えるものなのだ。それは、どこにもない場所、どこかにあるはずの理想の場所への旅であり、もしかすると、わたしたちはもうすでにその旅の途上にあるのかもしれない。 

ネイティブは日常、非ネイティブはユートピア。(220頁)

 

グレアム・ハーマン、上野俊哉訳『非唯物論』(河出書房新社、2019)

ポスト・ヒューマン

いまひとつよく理解できないでいるのだが、ハーマンが「非唯物論 Immaterialism」という言葉で名指そうとしている思想は、ポスト・ヒューマン的なものであると言っていいような気はしている。人間というカテゴリーが完全に抜け落ちるわけではないけれど、「人間」に与えられてきた特権的なポジションがシステマティックに解体されていく。重要なのは人間だけではない。人間も非人間も、文化的なものも自然的なものも、ひとしく対象である。特権的な対象というようなものはないし、そうした対象を捉える側についても同様である。わたしたちはもはや人間を特権的な認識主体とすることはできないし、人間を中心に世界を把握するわけにはいかない。

特権的な認識主体から、ワン・オブ・ゼムの対象へ、有象無象のひとつへと、人間を格下げする。しかしそれは、人間を貧しくすることではない。そうではなく、人間を、人間と非人間をすべてひっくるめた豊かな関係性のなかで捉え直していくことである。人間が状況に埋めこまれていること、それは、人間が状況の産物にすぎないという悲観的で運命的な宣告ではなく、他のモノと共にある人間という存在の創造性や意義深さを改めて見出すことである。「人間自身、ある共生における構成要素である」。

人間自身が対象であるということ、また人間は、自分がいる時間と場所の単なる産物であるのではなく、自分が直面するどんな境遇に対しても抗えば抗うほど、対象と同じように人間はより豊かに、また意義ある存在になるということ、われわれはこうした点を忘れてはいけない。(74頁) 

それがグレアム・ハーマンの『非唯物論――オブジェクトと社会理論』の基本路線である。本書は理論編と、応用編ともいうべきオランダ東インド会社についてのケース・スタディーの二本立てになっているが、後者については事実関係がよくわからないので、以下ではもっぱら前者部分に注目することにする。

 

存在論だけれどカント的な措定も

オブジェクト指向実在論Object-Oriented Ontology」(OOO)という別称がよく表しているように、これは実在論存在論である。認識論的な側面がないわけではない。しかし、認識論的な問題系は、存在論的な問題系によって包摂されているようだ。

だから、非唯物論またはOOOは、カント的でもあれば現象学的でもある方向性を持ち合わせている。非唯物論はある程度までカント的な措定をなぞる。対象であるモノがある、認識者は対象=モノにある程度までアクセスできる、しかしながら、十全なアクセスは不可能である、というように。

カントの言う、現象(五感で認知可能なもの)と物自体Ding an sich(五感では認識不可能なもの)の二層性を、ハーマンはとりあえず受け入れている。しかし、カントがここから、認識不可能な物自体の探求を禁じ、認識可能な現象の方へのアプローチを試みるという戦略的選択を捻りだしたのにたいして、ハーマンは、物自体の把握の最終的な不可能性を受け入れながら、それにもかかわらず、物自体のほうに向かっていく。

いや、ハーマンが目指しているのが、物自体であるというのは正しくないかもしれない。しかし、ここで重要なのは、カントがあくまで「可能なところ」に留まろうとしたのにたいして、ハーマンはどうも不可能に思われるところにあえて突き進んでいこうとする点だ。

 

十全ではないアクセス、ATNのほうへ

解説で上野俊哉が指摘しているように、ここでの肝は、ハーマンが物自体のレベルを措定していることではなく、モノへのアクセスが「十全」ではない(しかしある程度まではアクセス可能であり、まったく不可能ではない)、という点だろう(上野164-65頁)。「できる/できない」という明確な二分法ではなく、グラデーション的な不充分性のほうに、ハーマンは着目するのだが、ハーマンの議論の中では、この不充分性というネガティヴな含意を持ちかねない主題が、「余剰」というポジティヴなイマージュへと翻訳される。

オブジェクト指向実在論は、実在は精神の外にあり、われわれはこれを知ることはできないと主張する。こうしてわれわれは、非直接的、暗示的、副次的手段によってのみ対象にアクセスすることになる。まるで人間が外部を擁する唯一の存在者であるかごとく、実在は「精神の外」にのみ存在するのでもない。そうではなく、実在は塵や雨粒の因果的相互関係は越えてはいても、人間の領域でもそうであるように、生命なきものが関係しあう世界においても決して十全に表現されることのない、ある余剰として存在している。(29-30頁) 

ハーマンが狙いを定めるのは、対象=モノの深奥に秘められた本質ではなく、モノからにじみ出る余剰であり、そうした余剰によってモノ同士が作り上げる関係性のほうだ。

ハーマンがブルーノ・ラトゥールのアクター・ネットワーク理論 Actor Network Theory(ANT)に傾倒するのは、その意味で、必然である。重要なのは、アクターひとりひとりではなく、アクター同士が作り上げるネットワークのほうであり、ネットワークのほうからアクターを逆照射することである。孤立したモノでも、モノの内奥でもなく、モノとモノのあいだに生起する関係性を捉えること、それがハーマンの試みであるらしい。

 

モノの関係性の存在論性、自ら以外の担保を必要としない自律的なモノの存在性

ハーマンの試みがトリッキーに感じられるのは、このモノの関係性の次元が、現実を解釈する認識者のほうではなく、モノそれ自体のほうに投げ返されているところにある。

モノがなにか別のモノと関係をもつかどうか、どんなモノとどんな関係を築くかは、モノにあらかじめ書きこまれているようなものではないし、その意味では偶発的ではあるけれども、かといって、そのような関係を可能ならしめた要素がモノ自体に備わっていないわけではない。モノにはある種の本質のようなものがあるし、それがあってこそ、「共生」が可能になるのである。

まさにそうした理由で、ハーマンは、対象は受容的receptiveであるというのだろう(21頁)。モノにはそもそも関係を受け入れる余地がある。それは、観察者が外から見出すものでもなければ、解釈者が対象に投影するだけのものでもない。関係には、関係を作り出している項たるモノのほうに、何かしらの内在がある。

ハーマンは反‐還元主義的である。対象の関係性を記述‐説明しようとするさい、ハーマンは、それを何か超越的なシステムに「堀り上げ=上方還元=過剰還元Overmining」する――神学や哲学でお馴染みの手法――こともなければ、モノをさらに小さな構成要素へと「下方還元=過少還元Undermining」する――社会科学や科学でお馴染みの手法――こともないし、モノの次元と解釈次元というようにモノを何か別の次元に還元はしないけれどもそこに何か別の解釈格子を投影するような「掘り重ね=Duomining」――ハーマンはパルメニデスを例にあげている(22頁)――にも否定的であるようだ。

すべてを同じ平面で捉えるべきであって、そこに複数のルールを持ちこむようなイカサマ的ダブル・スタンダードがあってはならない(57頁)。「前」や「後」に「要素」や「効果」を据えるべきではないのだ。もしオブジェクトがそれ以外の何かで代替できてしまうとしたら、オブジェクトは便宜的かつ暫定的に設定されることによって初めて出現するようなフィクションにすぎなくなってしまう。というより、もしオブジェクトが何か別のものに還元されうるとしたら、そこではつねに、そうした還元操作を行う者の存在を措定しているのである。

ハーマンの立場は、伝統的な哲学の語彙を使えば、反‐独我論と言えるかもしれない。もし誰も聞いている者がいないのであれば森のなかの音は存在しないという極端な独我論を述べたのはバークレーだったと思うが、ハーマンはその対極に位置する。音を聞いている人間がいようがいまいが、音はある。

しかし、ここから、スピノザ的な汎神論には向かわないという意味で、ハーマンの思想は徹頭徹尾、世俗的なものであるようにも思う。汎神論的な立場に立てば、音があるのは、人間が聞いていないとしても、その「上」におわします全知全能の神が聞いているからである。ハーマンにはそのような超越的存在による「存在」の確保は行われない。存在にはそのような保証はないが、それでも、ある。

 

生成主義にたいする逆張り、存在がなければ生成はない

ハーマンが試みているのは、いわゆるポスト構造主義以降の「生成」過激主義とでもいうべきものにたいする反旗である。どうもそれが「新しい唯物論」と呼ばれるハーマンの仮想敵であるようなのだが、要するに、ドゥルーズ的な永遠の生成変化と、バトラー的なパフォーマティヴィティという主題系を、戯画的なまでに押し進めた立場であるようだ。すべては動いている、本質はなく行為のみがある、行為の効果が遡及的に主体を構成する、関係は偶発的であり創発的である、というような感じだ。

ハーマンによれば、そのような「新しい唯物論」の公準を裏返したものが、「非唯物論公準」となる。

〇変化は間欠的であり、安定が標準である。

〇あらゆるものは連続的な傾向に即してではなく、明確な境界と切断点にしたがって分割される。

〇あらゆるものが偶発的というわけではない。

〇実体/名詞が行為/動詞よりも優位を占める。

〇あらゆるものには、どんなにはかないものであっても自律した本質があり、われわれの実践はその本質をわれわれの理論がそうするのと同じに把握する。

〇あるモノが何であるかということが、あるモノが行うことよりも興味ぶかいことになる。

〇思考とその対象は、他のいかなる二つの対象以上に分離しているわけでも、それよりも分離していないのでもないので、両者は「内的に行為する」よりも相互行為しあう。

〇モノは多種多様であるよりも唯一特異である。

〇この世界はただ単に内在的なのではない、これは良いことである。なぜなら、純粋な内在は抑圧的になるからである。(27-28頁)

なるほど、彼の議論はどこか逆張り的な部分があるけれど――上野は解説のなかでハーマンのこの逆張り気質に言及している(164頁)―――それは単なる転倒ではなく、「生成か存在か」、「devenirかSeinか」という極端な二者択一の批判である。

二〇世紀に繰り返し登場した知的修辞の一つには、モノは活動に、性的な状態は動的な過程[プロセス]に、名詞は動詞に換えられなければならないという考えがある。ベルグソンやジェイムズから、ホワイトヘッド、ダイナミックに読まれたさいのハイデッガーを通し、さらには近年のドゥルーズの流行にいたるまでずっと、「生成」becomingは刷新を好む者にはいつでも使える切り札として崇められる一方で、「存在」beingは旧時代の昔ながらの哲学に逆戻りするまぬけな身ぶりと悪し様に言われている。OOOはこれとは反対の原則を強調するのを選ぶ。つまり、生成が間違いにつながるからではなく、移り行く過程[プロセス]は、この過程から外れた何かがなければ生じえないからである。(70頁) 

「存在」なしに「生成」のみを考える潮流にたいする批判である、というほうが正確だろうか。ハーマンが試みるのは、生成と存在の両方をキープしつつ、存在を基底とする、生成と存在をコインの裏表のように扱いつつも、存在のほうに力点を置くというスタンスを分節することである。

ハーマンは流動性を否定しないが、それと同時に、固定したもの、動かないものを、より根源的なものとして扱っているようである。別の言い方をすれば、ハーマンは、モノ=対象がダイナミックな関係にあり、それらの関係がつねに変転していくことを受け入れつつも、それらの具体的な関係には変転しないものもあること、パラメーター初期値に見られるようなある種の偏りのようなものがあること、それゆえ、実際に作り出される関係の底にある種のスタティックな関係性があること――ハーマンが「共生」と呼ぶのは、このあたりの現象をひっくるめたものにたいする呼称であるように思われる――を強調する。

 

ヒエラルキーとアシメトリー

こう言ってみてもいい。一方において、ハーマンは対象がフラットな関係にあることを受け入れる。しかし他方において、彼は、すべてがフラットなのだからフラットに関係が組み変っていくという立場を受け入れない。それではすべてがなし崩しになる、すべてが重要であり、あれもこれも重要であるということになるし、それは要するに、どれもこれも重要でないし、すべてどうでもいい、ということになってしまう。それがどうもハーマンには受け入れがたいらしい、

存在論的な民主主義(特権的な対象はない、どれもがひとしく重要である)は、規範的な相対主義(どれも特別扱いしてはならない、どれも同じくらい重要であると見なさなければならない)に転化しうるし、そこから、悲観的な虚無主義(どれもこれも同じだ、どれもこれも変わりない)に陥ってしまう。この横滑りをハーマンは批判しているように感じられる。

ハーマンがラトゥールやATNと袂を分かつのはこのあたりでのことである。ATNのように、すべてをアクターと捉えることにハーマンは賛成する。というのも、特権的対象を作るべきではないからだ。存在論的な民主主義において、ハーマンはATNに同意する。しかし、そこから、どのアクターも意味があるという価値論的な民主主義を引きだすことに、ハーマンは同意できない。

スタティックな項が織りなすスタティックな模様=構造としての総体ではなく、ダイナミックなアクターから立ち上ってくるダイナミックな総体というモデルを採用する点において、ANTは有益である(121頁)。あらゆるもの(人間も非人間も、自然的なものも文化的なものも、現実的なものも想像的なものも)をひとしくアクターとして扱う節操のなさ、分け隔てのなさ、非ヒエラルキー的でフラットな方向性において、ANTは有益である(121頁)。

等価性の原理を持ち込むことは、新しい思想が始まるための必要条件なのかもしれない。「どんな哲学でも自らの伝統における前提を払いのけるため」、「はじまりの平板化」を必要とする(130頁)ことをハーマンは率直に認める。しかしながら、この戦略的平板化を、方法論化し、さらには価値論化することには、賛成できない。ANTの問題点とは、存在論的な不均衡性を、解釈学的な平等性へとなし崩しにしてしまうことである、と言ってしまっていいのかもしれない。

別の問題もある。すべてを関係性において捉えようとすると、関係性がモデルとして自律し、存在していない相互性や相補性や対称性を、対象のほうに投影してしまう。これはすべてをフラット化しようという意図がある場合、いっそう問題になる。

ハーマンが言っているのは、もしかすると、きわめて単純なことなのかもしれない。すべてはアクターとして機能しているが、すべてのアクターが同じくらいに重要ではない。関係には水平的にも垂直的にも不均衡や不等号がある。関係の重要性にも濃淡がある。水平的な差異があるだけではない。垂直的な差異もある、つまり、序列がある。

反民主主義的で、反平等主義的で、貴族主義的と受け取られかねない主張ではある。ただし、だからといって、ハーマンが政治的に保守的なのかというと、そこはいまひとつわからない。上野が指摘するように、ハーマンのみならず、OOOや思弁的実在論といった潮流自体が、ニック・ランド周辺の新反動主義Neoreactionaryや暗黒啓蒙Dark Enlightenmentとつながっている部分はあるらしい(190頁)。

ハーマンの議論は、もしかすると、価値論レベルにとどまっているのであればそこまで目くじらを立てるほどのものでもない平等主義を、存在論レベルにまで引き下ろしてすべてがフラットで「ある」と強弁する左翼的詐術にたいする攻撃なのかもしれない。哲学の政治化、つまり政治的理想のために唯物的真実を従わせようという現実改変的な文化左翼にたいする哲学的な攻撃でこそあれ、政治における民主主義的価値観にたいする政治的な攻撃ではないのかもしれない。

もちろん、両者がそんなにたやすく切り離せるものであるのかは疑問が残る。不平等とは言わないまでも、不均衡を基盤にして、対象につねにすでに序列的な価値や意義がアプリオリな書きこまれていることを認めておいて――つまり、存在のカースト性を基底において認めておいて、それを<とりけす Undo>ような関係性を重ね合わせることを思考できるのか。ランシエールはNoと言うだろう

ハーマンが政治的に反動的かはともかく、非唯物論ないしはOOOに、反民主主義的で貴族主義的な潜在的傾向があること、序列制や階層性を関係のモデルとして受け入れていることは、まちがいないように思う。なるほど、ハーマンは、「哲学の務めの一つ」とは、「対象間の様々に異なるタイプや系統群[ファミリー]を分類する新しいやり方を見いだすことである」(133頁)と述べているが、その分類法は、すべてにたいしてフラットに開かれてはいるものの、その内実はヒエラルキー的でアシメトリー的であるように思う。

 

触知できないけれど確かにある存在と関係性

上野はハーマンが提供する分類化のツールは有益であるが、それによって分類を自己目的化することはハーマンの思惑かではないだろうと述べている(180頁)。

その通りだ。ハーマンの思想のもっとも生産的なところは、おそらく、唯物的には存在していないとしかいえないもの、解釈学的には観察者の主観的な投影=想像としかいえないものに、存在論的(客観的)なところを見出そうとする部分にあるのではないだろうか。上野によれば、ハーマンの「ゲリラ形而上学」とはそのようなものらしい。

距離を通した接触、あるいは非関係の関係を通して、何とか関係をさらに実質substanceとすること、ハーマンにとってはこれこそが「ゲリラ形而上学」であり、「モノたちの大工仕事」the carpentry of thingsなのだった。求められているのは、リンギスが水準levelと呼び、ハーマン自身が媒質mediumと呼ぶような、対象どうしがはからずも相互作用する次元や空間である。つながらないモノたちをつなぐ媒質、というよりは魔術的な糊glueのようなはたらきをハーマンは考えており、ゆえに「大工工事」という語も呼び出されている。(上野181‐82頁) 

しかし、この非関係の関係が本当に存在論的なものなのか、という疑問はつねにつきまとうだろう。認識論的=解釈学的なものを、ただ存在論的と言いなおしているだけであって、言葉遊びをしているだけではないのか、という批判を向けたくなってしまう。

なるほど、超越論的主体であれ、共同主観性であれ、ともかく、認識者という項を措定することなく、モノ同士の関係性、対象同士の「はからずも」の相互作用を考えるには、モノの共生であるとか、「機会原因論 occasionalism」(マルブランシュ)を持ってくるのかもないかもしれないし、そうでもしないと、認識者のかわりに神が密輸入されてしまう。ハーマンが持ち出す「副次的=代替因果性 vicarious causation」は、それらの隘路を避けるための苦肉の策なのかもしれない(上野184‐85頁)。

ハーマンすらよくわかっていないのかもしれない。彼が最近傾斜しているという「汎心理主義 panpsychism」や「多心理主義 multipsychism」は、ハーマンが試みている別の脱出口なのかもしれないが、どちらにせよ、「ないけれどある」「感知はできないけれどある(はずだ)」というような日常感覚によりそうようなやり方は、ややもすれば、悪い意味でのベルクソン主義的な直感主義へと転落しかねない。だから、上野は次のように問うている。解釈学的な方向性(言語論的転回や記号論)にたいする批判だったはずの非唯物論OOOが、対象のあいだには「魅惑 allusion」のようなものがあるという措定に走っているのではないか、と(上野194頁)。

唯物論は、反合理主義や反理性主義、オカルティズムに滑り落ちていきかねない。排除したはずの神や超越性のかわりに、アニミズム的なものやスピリチュアルなもの、ナチュラリズム的なものやスーパーナチュラリズム的なものが回帰してしまいかねない。

 

オルテガ・イ・ガセットと隠喩的なもの

しかし、上野によれば、ハーマンの思想の根底にある「主体はすでにして対象であるという視角」は、オルテガ・イ・ガセットの「序文のかたちでの美学エッセイ An Essay in Esthetics by Way of a Preface」から引き出されたものらしい(上野183頁)。

オルテガ‐ハーマンが言うのは、主客がぴったりと合一というような禅的なものではなく、「ほとんど同じになる」ということだという。そして、それは、主体の意識的な努力によって達成しうるものではなく、わたしたちに、モノたちに、あらかじめそなわっている、汲み尽くされえない「何か something」のためなのだという(184頁)。

存在と思考がつながりうるのは、思考のおかげではなく、存在の賜物だからだろうか?

少なくとも、論理的・因果論的な思考でないことだけは間違いない。それはむしろ、言語的なもの、隠喩的なものであり、美学的なものなのである。

かなりラディカルな方向性だ。これを敷衍すれば、わたしたちが通常因果的と考えるものすら、隠喩的であるということになるのかもしれない(上野186頁)。それは、ソーカルたちが批判した、ポストモダンの科学との戯れとは、かなり違ったものであるように思う。科学的なものは否定されていない。科学的な論理よりも包括的な原理――隠喩的なつながり――が措定されているのである。

美学(感性論)を第一哲学とすること、そして隠喩的なもの――そしてそれは言語的なものでなくてもよいだろう―ーを第一原理とすること、それが、非唯物論のもっとも創造的で、創作的で、創世的な可能性かもしれない。

キャシー・ジェイ『The Red Pill』(2016)

20190512@常葉大学静岡草薙キャンパス

向こう側がどう感じているか

コンセプトは決して悪くない。「向こう側」がどのように感じているか、真摯に知ろうとすること、それは重要なことだ。フェミニズムによって女性の社会的権利は拡大し、男女のあいだの不平等はある程度は是正されてきた。このシナリオを、女の物語としてではなく、男の物語として語り直すこと、それがキャシー・ジェイのパーソナルなドキュメンタリー『The Red Pill』の基本的なコンセプトである。

theredpillmovie.com

ここでジェイが対象とするのは、男性権利活動家Men's Rights Activists(MRA)だ。MRAにたいするインタビューや取材をつうじて、フェミニストを自称するジェイは、フェミニズムにとっての向こう側である男がどのように感じているのかを、真摯に探っていこうとする。たとえ向こう側が感じていることが、こちら側からすると受け入れがたいことであるとしても、である。

無知にもとづく中傷合戦は不毛である。喧嘩腰でのぞめば、向こう側はますます態度を硬化させるだけだ。無理解は偏見を助長させるし、事実ではなく偏見にもとづく攻撃は、えてして、実在の敵ではなく、自らが作り上げた仮想のモンスターに向けられがちである。それに、こちら側が向こう側の感じ方を否定してみたところで、向こう側がそのように感じているという事実は消えてなくなることはない。もしここに何らかの融和の可能性があるとしたら、向こう側の感じ方がいかに受け入れがたいものであるとしても、まずはその実態を把握し、理解することが先決である。判断を下すのはそのあとでも遅くない。

 

 

「どの」フェミニズム

ジェイはできるだけフラットな視線から、男側と女側の主張を観察しようとするが、それはどうしようもなくパーソナルな試みになるだろう。ドキュメンタリー仕立てにはなっているが、同時に、これは彼女の映像日記でもあるし、その点は彼女もかなり自覚的である。事実、何度か1人称的な語りが入るし、それは彼女自身のフェミニズム的な信念の揺らぎの告白シーンでもある。

ジェイはもともと女優志望だったが、ホラー映画で早々に殺される「頭の悪いブロンドの女の子」役ばかり与えられることに嫌気がさし、フェミニズム的な方向に向かい、自主製作的なドキュメンタリー作家のほうへキャリアの舵を切ったのだという。

MRAにたいする彼女の当初の関心は、直感的な反感と、反感からくる興味本位の好奇心だったように見受けられるが、取材を通じて、彼女はMRAの主張にますます惹きつけられていく。そして最後には、「わたしはフェミニストではなくなった」と述べることになる。

フェミニストフェミニズムから卒業する、そういう筋書きだ。

 

それはキャシー・ジェイ本人の物語としては、おそらく真実の物語なのだろう。しかし、それはあくまで彼女個人のパーソナルの物語でしかない。

彼女自身がフェミニズムを代表しているかのように見えるところがあるが、彼女の言うフェミニズムが「どの」フェミニズムなのかは最後までまったく明らかでない。端的に言えば、彼女のフェミニズムはあまりに「白い White」――60年代の第二波フェミニズムがその後の世代から批判された理由であり、そこから、さまざまなフェミニズムが派生し、Women’s StudiesやGender StudiesやQueer Studiesやのような、隣接的でありながら力点の置き所の異なる学問領域が誕生していくことになる――のだが、このドキュメンタリーを見るかぎり、ジェイはそのあたりの複数的なフェミニズムFeminismsの存在にほとんど気がついていないように見える。

 

パーソナルなドキュメンタリー

これはもしかすると、MRAのほうについても同様かもしれない。彼女のMRAのプレゼンテーションがあまりにMRAに好意的すぎるとか、MRAに充分に批判的ではないというのではない。もちろんそういう側面もあるし、ドキュメンタリー冒頭で言及された女性嫌悪から女叩き的なスペクトラムが、映像が進むにつれてほとんど取り上げられなくなるという問題もある。積極的な嘘ではないが、消極的な取り上げなさによるバイアスである。

しかし、おそらくもっとも問題なのは――そしてそこをきちんと掘り下げていないように見えるのは――MRAの多面性のようなものが置き去りにされている面に加えて、このドキュメンタリーで取り上げられているMRAの代表的な論者であるらしい人々が、どういう意味で、どのくらい代表的なのかが、最後まで明らかにならない点だろう。

ドキュメンタリー自体が意図的に歪められているというのではない。有限の尺のなかでやる以上、対象が限定的になるのは仕方のないことである。しかし、そうした対象を、もっと大きな見取り図のなかに位置づけるという映像作家の仕事が、ここではなおざりになっているように感じられるのだ。だから、結局のところ、これはMRAについての(客観的な)ドキュメンタリーというよりは、キャシー・ジェイという一個人が体験したMRAというパーソナルな記録になってしまっているきらいがある。

 

「どっちもどっち」論の落とし穴

そうした映像構成的な問題に加えて、ジェイの基本的な考え方がどうも問題含みであるように思われる。MRAの議論を敷衍しながら進められる彼女のドキュメンタリーは、つまるところ、どっちもどっち論の落とし穴にはまってしまっているように思うのだ。

女と同じように、男も苦しんでいる。苦しんでいるのは女だけでなく、男も苦しんでいる。

それは一見したところ、客観的な立場に見えなくもないのだが、苦しみが数量化不可能である以上、男と女の苦しみの比較は、結局のところ、ひとりひとりが抱く主観的なものにすぎない。なるほど、女は男「よりも」苦しんでいる、だとか、男は女「よりも」苦しんでいる、よりは、男も女と「同じくらい」苦しんでいる、のほうが、健全な見方かもしれないが、そうした疑似客観性は、これまでの社会が男性優位に築かれてきたという圧倒的な歴史的堆積を、現在という時点から抽象化することにほかならないだろう。

ジェイは、客観的であろうとするあまり、逆に主観的になってしまっているように思われる。 「どっちもどっち」と言う人は、おそらく、ニュートラルな調停者として振る舞おうとしているのだろうが、それは対立するふたつのサイドにたいして公平であろうという気持ち以上に、自分は公平であるという自己満悦的な正しさに陶酔することでもある。ジェイはまさにそうした状況に陥っているように思われる。

 

男対女なのか、男と女対家父長的社会なのか

ジェイが見そこなっているのは、問題の核心にあるのは、男と女の対立ではないという点ではないか。この意味で、ジェイが取り上げた題材がそもそも上手くなかったのだと言えるかもしれない。『The Red Pill』の特権的な題材であるDVや離婚やリプロダクティヴ・ライツの問題は、つまるところ夫婦の問題、カップルの問題、既婚者の問題である。これらの問題に焦点をあてることで、ジェイは独身者のMRAの問題――それから、鬱屈したモテない男たちが抱えているのかもしれないミソジニー、女にたいする蔑視や見下しの問題――をスルーしてしまっている。

しかし、『男性権力の神話 The Myth of Male Power)』の著者ワレン・ファレルがこの映像のなかで語っていることを敷衍するなら、問題の核心は、性のあいだの戦争ではなく、男を使い捨ての労働力 disposable laborと見なす社会システムにあると言うべきではないのか。なるほど、戦場や仕事場で死亡する大多数は男であるが、それは女によって男が虐げられているからではなく、現代の資本主義社会においては、男が金を稼いで家計を支えるという家計モデルが依然としてまかりとおっているからであり、そこから稼ぎ手としての男に大きなプレッシャーがかかっているからである。

なるほど、もしかすると、こうした性的分業 sexual division of laborは、人類史的/生物学的な必然という面があったのかもしれない。解剖学的に言えば、男のほうが大きく強い体を持ち、女だけが子どもを宿す体を持っている。しかし、こうした生物的与件を、恒常的な社会制度‐システムへと固定化させた元凶は、人類社会に求められるべきだし、おそらくその傾向は、近代資本主義によって加速するばかりであっただろう。

それは、男性優位の家父長制を強化するものであったわけだが、ここで注意すべきは、家父長的な構造のなかで「あらゆる」男が「つねに」その構造的な特権の恩恵にあずかってきたわけではない、ということだろう。なるほど、男性優位の世界観にあっては、女いびりは、社会階級の上から下まで、貴族から労働者まで、あらゆるところで見られる現象だったかもしれないし、それを是正しようとしたフェミニズムはまったく正しい。しかし、それは世界を一般的なところから抽象的に眺めることであって、具体的に個別的に世界に寄り添うことではない。もし近くによってみれば、男に虐げられる女たちだけではなく、虐げられる男の存在もまた見えてくるはずである。

そして、そうした虐げられている男たちが連帯できるのは、決して、彼らを虐げている男たちではないはずだ。家父長的な制度のなかで特権を享受している男や、そうした男に従属することで特権のおこぼれに浴している女たちではないはずだ。虐げられている男たちの連帯相手、それは、家父長制度のべつの犠牲者である虐げられている女たちにほかならない。

もしMRAが、男を使い捨てられる労働力に還元する非人間的な社会にたいして反旗を翻すことであるとすれば、それは、女一般にたいする全面戦争となってはいけないはずなのだ。なるほど、女にたいする闘いという側面は確かにあるかもしれないが、それは、既存の社会制度を味方につけて男を食い物にする女たちへの闘いであって、元凶はあくまで歴史的な社会構造のほうである。女そのもののほうではない。

しかし、ジェイのドキュメンタリーでは、その部分がどうもぼやかされてしまっている。

 

女対男

それは彼女が選んだ題材から必然的に導かれてしまった帰結である。DVや離婚や親権の問題は、どうしても、男と女という当事者ふたりの対決としてしか表象することができないし、そこでは明確な勝ち負けが現れてしまう。とくに親権争いについて言えば、父が取るか母が取るかは、痛ましいまでに二元論的闘いである。

そして、現行制度のなかでは、母が優位にある。その制度をどうにか公平にしていこうというのは、係争の只中にある男にとってみれば、正当な要求に思われるだろうし、実際、ジェイはそのような提示をする。

しかし、そこから少し距離をとれば、雑誌『Ms.』の編集長が述べるように、「いまの状況は、これまで男一般が享受した特権が解除されていっているだけだ、女がこれまで置かれてきた「マイナス」の状況がどうにか「ゼロ」になってきただけで、「プラス」になったとは到底言えない、女が優遇されているということはありえない」というまったく正当な一般論が成立する。

ジェイは(というか、わたしたちは、と言うべきだろうか)、こうした一般論と個別論とを、混同しがちであるように思われる。一般論は一般論としてはまったく真実であるが、一般論では個別的状況は救われない。しかし個別的状況から、社会全体に敷衍されるような結論を引き出すことは、拙速であるし、そのようにして引き出されたものは、決して万能の解決策たりえないだろう。

親権裁判に敗れ、失意のうちに自殺した夫の話を聞かされるのは、痛ましい経験であるし、そこでわたしたちは、ほとんど否応なく、自殺した夫に感情移入することを強いられる。その感情移入は間違っていない。しかし、個人に共感することと、そうした個人を作り出したシステムに賛成/反対することは、必ずしも連続的なものではない。個別論と一般論は区別されるべきであるし、制度運用論と制度設計論は分けて考えるべき案件であるはずだ。

 

ジェイのドキュメンタリーは、個別事例のなかで苦しむ男たちをクローズアップした結果、虐げられる男たちへの共感が前面に出すぎたきらいがある。虐げられている男たちは自業自得であり、憐れまれるに値しないと言いたいわけではない。彼らは共感されてしかるべきだと思う。しかし、彼らをそのような状況に突き落とした具体的な妻たちに怒りを募らせることと、妻たちにそのような権利を付与したフェミニズム的な是正法を糾弾することは、果たして同じことだろうか。

 

平等とはどういうことか

おそらくジェイのドキュメンタリーが捉えそこなっているのは、平等とは何のことなのか、という根源的な問いではないだろうか。

 

現行のリプロダクティヴ・ライツをチャート化しつつ、ジェイは驚くをこめて、いかにパートナーの男に決定権がないかを力説する。彼女によれば、子どもを産むか産まないかの最終的な決定権はほとんどつねに女の側にあり、それは不平等だと言う。

しかし、本当にそうだろうか。本当に、あらゆるステージにおいて、男と女のあいだに全く同量の権利が与えられるべきなのか。『Ms.』の編集長は、男女の権利が不平等なのではなく、リプロダクティヴ・ライツにおいては、権利の行使のステージが男女で異なるのだ、と示唆する。つまり男は性交の時点において、避妊するかしないかという決定権を持つのであり、女は妊娠後において子をどうするのかについての決定権を持つのだ、という。それは、自らの体にたいする権利がほとんど否定され、男によって翻弄されてきた歴史的経緯を持つ女たちにしてみれば、まったく正当な要求であったし、だからこそ第2波フェミニズムにおいてリプロダクティヴ・ヘルスが主要な争点のひとつであったのではなかったか。

 

歴史健忘症、または、わたしたちはなぜいまいるところにいるのかという意識の不在

このドキュメンタリーにただよっているのは、ある種の歴史健忘症であるように思われる。なるほど、現行制度を、過去の経緯をまったく考えることなく、ある特定の視点から眺めれば、それは男にたいして不正なシステムに見えるかもしれない。しかし、それした非歴史的な見方は、現在のシステムのなかで苦しんでいる「特定の男」を「男一般」とすり替えることであるし、そうした男たちを苦しめている「特定の女」を「女一般」とすり替えることであるし、そうした苦痛や搾取の構造を可能ならしめている権力関係や経済関係を、所与のパラメーターとして受け入れることになってしまう。

平等であるということは、一方において、過去からの歪みを是正することである。過去の歪みを正そうという試みが、現在のなかで別の歪みを生み出すこともあるだろう。その典型例が、親権争いにおける女の優遇であったり、DV問題における女から男への暴力の軽視であったりするわけだ。しかし、歪みを正そうとすることで別の歪みが生まれるからといって、今まで存在してきた歪みを放置していいということにはならない。そのように言い放つ人間は、今まで苦しんできた者たちに「これから先も苦しみ続けろ」と言っているに等しいし、その発言の根底にあるのは、正義を求める心ではなく、「自分が苦しみたくない、自分が虐げられる立場に置かれたくない」という身勝手な怯えである。

そうした怯えは糾弾されるべきものでもないだろう。身勝手であること、わが身がかわいいことを批判する者には、「おまえはマゾヒスティックな殉教者だ」と言い返してやっていいのかもしれない。しかし、「自分が犠牲者になりたくないから、誰かに犠牲者役をやらせておこう」というのは、椅子取りゲーム的な発想である。そして、そうした発想で社会生活を営むかぎり、つまり、自分の問題にならないかぎりは無視を決め込むという態度を貫いておいて、自分に火の粉がかかってきた瞬間に手のひら返しをして、「これは不当だ」と騒ぎ立てるのであれば、二枚舌の自己中心主義者という罵倒を免れえないだろう。

 

MRAの革命的な潜在性

しかし、MRAがそのように倫理的にいかがわしいものであるのかどうか。

正直に言えば、このドキュメンタリーからではそこがよくわからない。ワレンの議論を字義通りに受け取るなら、そしてそこにマルクス主義的な解釈を加えるなら、彼が主張しているのは、男を使い捨ての労働力する一方で、稼ぎ手としての地位を与えることで男に権力を付与するという経済的権力構造そのものを変革する必要があるということではないだろうか。それはかなりベタな意味での経済主義かもしれないけれど、方向性としてはきわめてオーソドックスな左翼的主張であるようにも思う。

経済的な自由を獲得するのだ、そうすれば、個人は社会的要請から解放され、自由な個人として生きることができる。自活できる経済力という主題はフェミニズムにとって中心的な主題であり続けている。たとえばヴァージニア・ウルフは『私だけの部屋』のなかで、作家が自由に書くためには「自分だけの部屋」と生活に窮しないだけの金銭的余裕がいるのだと力説しているし、20世紀初頭にアメリカで活躍したロシア系移民アナキストであるエマ・ゴールドマンは、「金銭的安心のために結婚するのは、自らの肉体も精神も売り渡すことである」と結婚制度を痛烈に批判している。

しかし、歴史に皮肉と言えそうなのは、20世紀後半において経済的自立がある程度の階級の男女にまで拡大された結果、中流以上においては金銭的自由によって社会的な自由も事実上確立されてきたのかもしれない一方で、経済成長の恩恵にあずかるどころか、不況のあおりを受けてますます貧困層に転落していくばかりの層からしてみれば、経済的不自由という現実にたいして留飲を下げさせてくれる社会的不平等が、唯一の拠り所となってしまったのかもしれない。金がなくても、女を叩くことはできる。仕事のなさを、移民のせいにすることはできる。

いや、こうした揺り戻しを、貧困層にのみ帰するのは、経済的は中流であるが、女の状況がマイナスからゼロになって男と並ぶようになってきたことを苦々しく思っているある種の男たち、女たちがマイナスの立場に置かれていないがゆえにかつての特権が行使できなくなったことを憂うある種の男たちの存在を免罪することにしかならないし、もしかすると、元凶は後者にあるのかもしれないとすら思う。

ここに男たちのリアルな喪失感があることは認めなければならない。なるほど、それは然るべくして廃絶された「特権」である。女をレイプする権利を男が持つことのどこに正義があるというか。だが、どれほど不当なものであれ、これまで自明だと思ってきたものを奪われたという感覚を抱くことを否定することはできないのではないか。その感覚を正当化すべきではないが、その感覚の存在までをも否定することは、男の尊厳を崩壊させることにつながってしまうかもしれない。

男の尊厳などどうでもいい、女の尊厳というのもちがう、「人間」の尊厳だ、というのは、おそらく倫理的に進むべき道だとは思うのだが、現代という過渡期的な時代――男のプラスがゼロに向かい、女のマイナスがゼロに向かうという緩やかなプロセスのなかで、ときに急激なブレが起こり、ある特定分野において女にプラスになったりマイナスに舞い戻ったり、また別の箇所において男がマイナスになったりプラスに転じたりするようなことがある時代――においては、まだ時期尚早というべきところかもしれない。

 

そのようなことを考えさせてくれる映像ではあったが、ジェイの結論自体――「わたしはもうフェミニストではない」――はまったく解決策ではありえない。彼女を、「男を擁護する女の敵」とレッテル貼りするのは、あきらかに間違っている。彼女は少なくとも「向こう側」を理解しようという真摯な試みを成し遂げたし、たとえそのなかで間違ったウサギの穴に入り込み、奇妙な世界に嵌まり込んでしまったとしても、彼女が映像をとおして描き出したパースペクティヴは、ひとつの事例としては、きわめて有益なものである。

わたしたちは、それを、あくまでひとつの考える素材として受け取らなければならない。必ずしも彼女と別のポジションをとるべきだと言いたいわけではないけれど、彼女の言うことを無批判に真に受けるのは、自らの批判力の無さをさらけ出す行為に等しいだろう。

 

MRAの潜在的に革命的な可能性、それは、女優位になりかかっているのだという社会を再び男優位に引き戻そうという後ろ向きの方向性ではありえない。理想は過去にはない。理想がありえるとしたら、それは、これから来るべき世界にしかないだろう。そしてそこでは、男と女が万人の万人にたいする闘争を繰り広げるのでもなければ、男か女がどちらの性を支配するという性的闘争が繰り返されるのでもない。そこでは、人の人にたいする支配が、人の人にたいする支配を正当化し固定化する制度や法律が解きほぐされ、そして、負わされたくもない責任を強いられることもなければ、使いたくもない暴力を行使することも強いられることもなく、強制や強要ではなく、協働や協力を主要な動因とする社会構造が機能するだろう。暴力や支配がなくなるわけではないが、それらは副次的なものに格下げされるだろう。

不幸合戦は止むだろう。男のほうが女より苦しんでいるか、女のほうが男より苦しんでいるかというような、不毛な一般論は無意味になるはずだ。男一般は存在しないし、女一般も存在しない。それはあらゆるジェンダー・カテゴリーについても同様である。セックス/ジェンダーは再生産のために依然として重要なファクターであり続けるかもしれないが――しかし、もし人工的に生命を誕生させる技術が確立されたとしたら、それすら必要でなくなるかもしれないではないか――、普遍的苦痛を基盤にすえたショーペンハウアー的は東洋風の厭世観ではなく、小さくありきたりかもしれないけれども深いところまで染みわたるような長い歓びを基調にした、多元的で複数的な混沌でありながら豊饒でもある、生成変化するものたちの世界がもしかしたら出現するのではないだろうか。

宮城聰作・演出『イナバとナバホの白兎』

20190609@静岡芸術劇場

spac.or.jp

純粋な高揚感、または内容と強度

宮城の演劇が観客に与えるのは、感動というよりも高揚だ。身体的でもあれば精神的でもある高揚。もしかすると魂の高揚と言ってしまっていいのかもしれない。高揚であって感動でないのは、宮城の演劇は、観客にたいして、舞台上の人物への感情移入はおろか、シチュエーションにたいする共感や理解すら要求することなく、舞台の出来事の純粋な強度――音量、速度、人口密度、物体密集度――の高まりによって、絶対的な物量によって、こちらの感性の質的なリミットを振り切るからである。暴力的なまでに有無を言わせない力がここにある。それはかなりの力業だ。心理的な腑に落ちる感じだとか、理性的な納得とは別のところから、観客を別の次元にさらっていく。

『イナバとナバホの白兎』の幕切れはまさにそのような圧倒的な体験であった。打楽器が一斉にフォルティッシモで連打され、ビートが上がる。すべての登場人物が舞台上で一堂に介する。そして声を揃えて、武器であるはずの弓の弦が奏でる妙なる音を称え、それを授けた太陽神を讃える。物語構造からすると、ここでの全員集合を正当化する理由はないように思う。ジャンル的な慣習としか言いようがない気がする。いや、『フィガロの結婚』や『セヴィリアの理髪師』にしても、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』にしても『ファルスタッフ』にしても、取って付けたようなものでしかないせよ、トゥッティになる劇的必然性は一応は担保されている。しかしここには、言い訳めいた口実をひねりだそうという往生際の悪さを、あっけらかんと断念している。何の理由もなく、イナバの神々と、ナバホの神々と、両者の神話の大元にあったのかもしれない捏造=創造された原-神話の神々が、同じ舞台の上で、同じ言葉を唱和する。なぜそうなるのか、そうだからそうなるのだ、というトートロジーが、不思議なまでの説得力をもって演じられる。これに匹敵する臆面のなさは『放蕩者の成り行き』ぐらいだろう。

この境界融解的な、下手をすればファシズム的な指導者崇拝になりかねないシーン――ナチズムという歴史の後で『マイスタージンガー』の幕切れの「Heil Sachs!」に無批判に感動することは倫理的に愚鈍であるし、おそらく『魔笛』の最後の合唱についても同じことが言えるだろう――でさえ、暗い残響はない。それは宮城がナイーブなまでにイノセントだからではなく、言葉の内容(太陽神への讃歌)がその対象(太陽神)に向けられていないからである。太陽神(たち)は舞台にいるし、原-太陽神は大多数のキャラクターたちより少し高いところにいるにもかかわらず、言葉の音もエネルギーもそちらに集中することはない。声=音は全方向に拡散し、舞台空間を充溢させる。意味やメッセージは後退し、無色透明でありながら絶対的なプレゼンスを発散するエネルギーの奔流が、客席に向かって突進していく。それはもしかすると、冷たい陶酔とでも言うべき精神/心理状態かもしれない。身体は揺さぶられ、精神が持っていかれるが、正気を奪われるわけではない。情動的であるが、忘我的ではない。

 

3部構成:イナバ、ナバホ、創作/捏造された神話

『イナバとナバホの白兎』はレヴィ・ストロースの仮説――日本に伝わるイナバの白兎の神話に似たものが北米先住民のナバホ族のあいだにも存在するが、それは日本からナバホへと伝播したものではないかという仮説、日本の神話のほうがナバホよりも断片的で拡散的なのは、時間を経るうちに、本来ならまとまっていたはずの要素がいくつかのエピソードに分裂してしまったからであり、それゆえ、日本のほうが古くナバホの方が新しいバージョンであるという仮説、そして、日本のものですらこの神話の原型ではなく、いまだ見つかってはいないオリジナル・バージョンはアジアの大陸どこかに存在したのではないかという仮説――にたいする、演劇的な返答である。演劇的に、存在しないオリジナルバージョンを創作/捏造しようという試みである。

あまりにトリッキーなやり方で要素を分解していくレヴィ・ストロース構造主義的神話分析はいまだにきちんと理解できていないし、イナバとナバホの神話がどこまで相似的なのかについても、あまり納得て出来ていない部分もあるのだけれど――なるほど、川を渡る、試練をくぐり抜ける、結婚を許される、意地悪な義父=神、助力者である求婚相手、協力相手である双子的存在などは共通しているけれど、この程度の類似がそこまで決定的なのかどうかは、どうもよくわからないのだけれど――最後に置かれた創作パートが、この2つの神話の雛型になるように構成されているというのは、よくわかるところではある。

強権的だが識者でもある農耕を教える老婆、出自のしれない双子の出生秘話(太陽と人間の女が交わって生まれた半神半人の双子)、父親探しの旅、川渡りのときの性悪な振る舞いとその報い(双子の片割れが失われる)、父=神との邂逅と試練(父の子であることを父=神に証明する)、試練を助ける父の娘、父の娘との婚姻――いま書き出してみてやっと気づいたが、これは神話にはよくある近親相姦的な関係だ――、父からの褒美、褒美として授けられる弓矢。

人類学を専門としない身にはよくわからないのだが、ここでは、農耕神話(老婆の指導のもと土を耕す)と狩猟神話(父から武器を授かる)が混ざり合い、そこに、起源物語(父を探しに行く)と原-神崇拝が絡み合っているように感じられる。つまり、時間的にも空間的にもかなり大きなスパンの生活様態を総合的に含みこむ神話のように思われたのだが、そのような神話は実在するのだろうか。実証的な真偽はともかく、ここにあるのは、後のバージョンに登場するあらゆる要素があらかじめオリジナルに含まれているという前提ではないかと思うのだけれど、それは正しくないような気がする。

ニーチェフーコー的な視点に立てば、起源とは、説明原理ではない。起源と、そこから派生したもののあいだに、論理的必然性はない。歴史のなかに出現する系譜とは、つねに、後代における恣意的な書き換えであり、そこに反映されているのは、起源の時点で種子的‐萌芽的に含まれていたものではなく――これはロマン主義的な考え方であり、ゲーテヘーゲル的なモデルであり、ビリヤード的な単線的な玉突きの因果モデルとともに、構造主義マルクス主義者のアルチュセールが批判したものである――、それぞれの時代に特有の、それぞれの時代の社会的要請や政治的要求と連動した、利害関係にほかならない。神話の変形がそこまで世俗的‐現世的な事柄であったのかは大いに疑問の残るところではある――神話もまた、科学と同じように、世界を理解し説明しようとする体系的な試みにほかならないという考えは、19世紀後半の比較神話学においてすでに提出されていたし、フレーザーの大著『金枝篇』はそのような思考に依拠していた――けれど、3部の神話が、はたして真理Truthとして提出されていたのか、それともあくまで創作Fictionとして提出されていたのかは、いまひとつよくわからない気がした。

これは演劇的な再創造であって学問的な証明ではない、といえばそのとおりですあるし、仮説の真偽によってこの演目の良し悪しを言うのは的外れなだろう。しかし、3部は1部や2部とは時間的にも地理的にもべつ位相にあったというほうが正しい気はする。時間的に言えば、1部のほうが古く、2部のほうが新しいわけで、それなら3部が一番新しい(1から3へと時代を下っていく)と考えるほうが筋が通っているかもしれないのだけれど、演出ノートを額面通りに受け取るなら、3部の創作神話はイナバよりもナバホよりも古いものとして想定されているようだし、もしあれをイナバとナバホの原‐神話とするなら、「武器を楽器にする」という発想がなぜ失われたのかという疑問がわいてくる。

暴力的なものを芸術的なものに転化すること、それは、具体的なものを象徴的なものに転化することで物理的な暴力を局所化したり極小化したりする儀礼とパラレルな運動である。そしてそれこそ、宮城とSPACが試みていることであるように思うのだけれど、もし3部もそのような試みの一環と捉えることができるとすれば、これは虚構的なものであると言ったほうがいいだろう。それはニーチェが『反時代的考察』で述べたような、「自分が生起したかった起源を、遡及的に創り出す」行為にほかならないだろう。力よりもさらに深いところに芸を書きこむこと、それはきわめてパフォーマティヴナ行為だろう。遠い遠い過去を修正することによって、これから来る未来のための可能性を生み出すのだ。

 

演出の様式感、マンネリズム、マネリズム

そうであるからこそますます、内容の真実性は究極的には二次的なことであると言ってしまっていいのかもしれない。この舞台で重要なのは、「何がWhat」というよりも、「どういうふうにHow」という演出的側面のほうだからだ。 

空間:1部と2部は一風変わったシンメトリーをなしている。舞台中央に、半透明の御簾――紐状のカーテンのようなもの――が、曲線を描くように吊るされている。1部では、語り部と音楽隊がカーテンのなかにおり、物語はその外部で演じられる。2部では、語り部と音楽隊がカーテンの外を取り巻くように配置され、物語はその内部で演じられる。3部ではカーテンが上空に引き上げられ、雨のような星空のような、不思議な効果を作り出す。

舞台空間の利用ということになると、暗がりのなかで演じられた2部がもっとも幻想的であり、もっとも成功していた。半透明のカーテンと照明の相乗効果で、キャラクターの輪郭だけが浮かび上がったり、頭部だけが強調されたり、妖しさと神々しさが同居していた。1部は、演技可能な空間をかなり制限してしまう中央のカーテンのせいで、つねに、狭い空きスペースを見つけてどうにかやっているという雰囲気になってしまっていたように思う。なるほど、カーテン部分を中心にしたループ構造を作り、そこを周回することで時間の経過や場面の転換をするというやり方は、なかなか面白いものではあったけれど、この時空間操作の上手さと舞台運用の窮屈さを比べると、不利益のほうが大きかったように感じた。

3部は舞台を妨げるものが取っ払われ、舞台後方におかれた階段や、太陽神が上り下りする移動式階段を別にすると、舞台装置めいたものはなく、楽器も語り部も、舞台の見えるところに置かれていた。空間を広くとることは、フィナーレのために重要な措置であったことはわかるが、1部2部にくらべると、空きスペースが多く、やや空間が寂しい気もした。

仮面:宮城の神話的物語によくあるように、神々は仮面的存在である。そして仮面の造形は、ある特定文化にインスパイアされながらも、その忠実なコピーというわけでもなさそうである。イナバの神々の仮面の鼻は何となく大きすぎる感じがしたし、ウサギの仮面も少々ポップすぎるような感じがした。ナバホの仮面はひじょうにそれらしいものではあったが、だからこそ、シミュラークル的なもの――コピーのコピーのそのまたコピーの……――ではないかという疑いを抱いてしまう。オーセンティック「らしい」けれど、オーセンティック「そのもの」ではないかのように。

とはいえ、これは意図的なものだろう。たとえば、あきらかにオーバーサイズなナバホの仮面は、自らの創作的なオーセンティックさを故意に明かしていたように思う。いや、もしかするとナバホではあのサイズが普通なのかもしれないけれど、『顕れ』と同じサイズ感であったことを思うと、あれは考証的に正しいものというよりは、宮城演出が要求したものであるという側面のほうが強いのではないかと思う。

イナバとナバホがともに仮面劇であったのにたいして、原‐神話が無面劇であったのはどういうことなのだろう。装いにしても、イナバでは見るからに和装的であり、ナバホは見るからにナバホ的であったのに、3部の登場人物たちは形も色もプレーンな衣装をまとっていた。これはもちろんイナバとナバホの源流にあたるものに、ある特定の文化的なカラーを与えることを拒否したからなのだろうが、それでも、完全に無色透明な無参照的なものでもなかったように思う。Vネックのような白い服はどこか日本の弥生時代的(?)な貫頭衣を思わせたし、太陽神のリーゼント的な髪型やあごひげはどこか日本神話の男性神を、太陽神のもつ矛は中国的なものを連想させた。

コーラス:今回もっとも野心的なことをやっていたのはコーラス部分だ。ボイパのような楽器的な声の使い方があれば、舌打ちや息を吐く音のような声とはいえない音の使い方があった。非自然主義的にセリフの自然な流れを意図的に切断するようなアーティキュレーション、特定の単語を強調するかのようなフーガ的でカノン的な発声はいつもどおりだが、それらがかなり複雑に組み合わされており、ほとんど独立した音楽のように機能していた。実際、歌に近い旋律もあれば、中世教会音楽のようなアカペラもあった。合唱的な効果についていえば、とくに女声は見事な出来だった。20世紀無調音楽とまではいかないが、後期ロマン派から20世紀の調性的モダニズムの系譜に連なるような、かなり危うい和声でのハモリが多用されており、しかもそれがきわめて美しく響いていた。コーラスは今回の公演でもっとも精緻に練り上げられていた要素だったと思う。

音楽:宮城が確信犯的にオリエンタリズムを持ちこむことはもう重々承知しているけれど、それでも、1部のイナバの白兎パートにおける和太鼓の使用はさすがにやりすぎではないかと思った。和を意識した1部、静謐な2部、鉄琴やベルのような硬質に煌めく楽器を多用した3部、打楽器を総動員した締めくくり、どれもうまくはまっていたことは間違いないけれど、いつもどおりと悪口を叩くこともできなくはない。

ムーバーとスピーカー:いまだに宮城のムーバーとスピーカーという二人一役の演出的意義がつかめないでいる。身体と言葉のズレを可視化すること、演技と意味のつながりを異化すること、理論的にいえば、そのようなところになるのだとは思うが、宮城はこれをあまりシステマティックには使っていないようにも思う。たとえば、男の体に女の声を、女の体に男の声を「つねに」かぶせるというような使い方はしない。今日の公演で気がついたのは、ムーバーとスピーカーが驚異的なレベルでシンクロすると、発声と身体が別々の人間によって演じられていることを忘れてしまうという点だ。それぐらい言葉と演技がハマっている瞬間があった。それは宮城の演出プランからすると、成功なのか不成功なのか。

宮城の演出はきわめて様式感の強いものではある。身体と言葉の分離、それはつまり、自然主義的な演技が尊ぶ自然で自発的な表出を意図的に宙づりにすることである。有機的な融合のほうがフェイクである、言葉と身体がナチュラルにつながっているほうが例外である、宮城はそう言いたいのかもしれないし、だからこそ、宮城の舞台の俳優たちの身体所作はつねにどこか振付的である。ダンスほど踊りめいてはいないが、日常生活のなかで普通に使われるような動きではない。そしてそこに、意味の流れを意図的に分断するような語りやコーラスが加わる。わたしたちが自然だと思っているもの―――言葉と意味の表裏一体性、言葉と身体のシンクロ性――すべてが異化される。

しかし、コーラスのほうはテクニックが向上するほどに異化が進む――そうなってくれば、言葉の意味ではなく、声の存在感や旋律の美しさやリズムの心地よさが前面に出てくるだろう―――が、二人一役のほうは、むしろ異化作用が弱まるようにも思う――ムーバーとスピーカーのシンクロが高まれば、声と体のつながりは担保されてしまう、たとえそれが、別人の声と体のつながりであるとしても。

 

興味深いと思うのは、宮城の演出方法論は、戯曲のテクスト構造の内的な要求と、かならずしもリンクしていないのではないか、という点だ。もちろん、テクストと演出が融合しているべきであるという想定は美的イデオロギーであり、ある特定の時代の特定の美学にもとづく特殊なものにほかならないわけで、それを普遍化するのはあきらかに間違っていることは完全に承知したうえで、それでも、なぜ宮城は演出とテクストをいわば意図的に遊離させておくのかと問うことは無意味ではないと思う。

つまるところ、宮城の演出は、きわめて深いと同時に、きわめて表層的である。人類にとって普遍的な問題に真正面から取り組もうという強い意志がある一方で、その目的のために手段――二人一役、コーラス、音楽――を完全に従属させたがらない。すべてはゆるやかにつながっている。アナロジー的な、自由連想的な結合であり、どこかがどうしようもないほどに開きっぱなしなのだ。

それはよいことだと思う。全体の完全なコントロールをあえて放棄することは、勇気のいる行為である。開いたままにしながら、全体のクオリティを維持することはきわめて困難なことである。にもかかわらず、宮城はその両方において成功している。だからこれを咎めるのはあまりに的外れだとは思うのだけれど、宮城の演出作を8つほど見たあとで思うのは、これ以上宮城の演出を見ても何か似たような印象を受けるのではないかという困惑の気持ちである。

宮城の完成された様式美を楽しめばいいというのはひとつの見識であるし、宮城がここからさらに進化していくさまを気長に見守ればいいというのも正しいファン心理だろう。しかし、どうもそう思えないかもしれないと、今日の公演を見ながら少し感じてし戸惑ってしまった。

 

アフタートークのなかで、宮城は、自身が演出した『マハーバーラタ』を見ながら、困惑を覚えたと正直に告白していた。『マハーバーラタ』のように、匿名的で集合的なテクスト、様々な文化が長い時間をかけて混淆していくさまをそのうちに体現しているテクストをやってしまったあとでは、近代演劇はたったひとりの作者のちっぽけな窓から垣間見られた世界でしかないような気がしてしまう、という感覚はよくわかるし、近年の宮城の祝祭劇的転回の根底にあるのは、その困惑の感覚との格闘なのだろう。

しかし、この宮城の真摯な態度が、ある種のマンネリズムとマネリズム――同じものの別様の繰り返しと、繰り返しによる自己目的的な精緻化――を招いてきてしまっている側面はあるようにも思う。とはいえ、そこから抜ける方策が、アフタートークのゲストであった青木保――人類学者にして、元文化庁長官――の言うような、アジア圏をターゲットにした文化政策的なものであるとは思えない。

21世紀はアジアにおける文化の時代である、しかも、過去の文化遺産ではなく現代文化のことだ、経済にしか投資してこなかった東アジアの国がいまや文化へ積極的に投資するようになってきている、シンガポールや中国は国家主導で文化政策や教育政策(大学教育)に金を投入しているし、それによってアジアにおける大学レベルが急速に高まり、すでに日本を追い抜いている、日本が(そして静岡が)考えるべきは、SPACをもっとアジア圏でPRしていくことではないか、観光資源としての文化をもっとうまくプレゼンテーションできるようにすべきだし、演劇をテコにしてアジア各国から観光客を呼べるようになれば、それに付随してホテルやレストランの需要も高まる――そういう趣旨の青木の発現にはいちいち頷かされるし、いろいろ蒙を拓かれた思いがするのではあるけれど、はたしてそれでいいのかという疑問は依然として払拭しきれない。

というか、宮城が一貫して取り組んできたのは、静岡のような「地方」において「公共芸術」として演劇をやるというプロジェクトではなかったか。そのためにこそ、普遍的な主題が追求され、宮城的と名づけられるような様式性が確立されてきた部分があったように思う。アジア圏にアピールすることと、県民にアピールすることがまったく相反するものだとは思えないし、「現代文化」をターゲットにする以上、グローバル化による均質化や平準化が進んでいる現在、必ず何かしらのオーバーラップするゾーンは見出されるだろう。しかし、かりに宮城の演劇においてモダニズム的な非自然主義的演出=手段と、祝祭的内容=目的とが有機的には完全に融合していないとしても、ここでは、後者の美的目的、疑似宗教的とさえ呼びたいほどの目的性がすべての根底にすえられている。はたしてそれが、アジア圏において「売れる」ものだろうか。 

SPACは公共物Res publicであって、宮城の私物ではない。SPACの公共的使命というのは、県の文書のようなものできちんと定義されているのだとは思うが、そうした官僚的なものと、宮城の美学的クレドのようなものと、観光資源という文化政策/経済戦略とを、うまく融和させて相乗効果を起こさせるための共通の地平のようなが、いままさに必要とされているのかもしれない。

池上英子『自閉症という知性』(NHK出版、2019)

自閉圏の人びとのユニークな感性と知性

もし自閉症的なもの――「自閉圏のautistic」と著者が呼ぶもの――がスペクトラム的なものであり、欠損や欠如ではなく、差異でありグラデーションのように連続的なものであるとしたら、それはたしかに「認知特性」と考えるべきだろう。「正常」に矯正しようとか「正常」に適応させようと考えるよりは、そうした特性にもっともフィットする在り方を模索するほうがいい。自閉症を個性として、ある知性のかたちとして捉えなおすというのが、『自閉症という知性』を貫く著者のスタンスである。

自閉圏の人たちはかなり違った感覚感性をもっており、そうしたインプットにもとづいて、かなり異なった内面世界を築いている。時間感覚も空間感覚もそうだ。神経過敏、感覚過敏というのは、もしかすると、適切な言い方ではないのではないかという気すらしてくる。それは「健常者」の感覚インプット量を「ノーマル」と見なし、それをを上回るものを「過剰」とすることであるし、そうした「過剰」は「無駄」と同一視されてしまいかねない。

しかし、その過剰なまでに豊饒な感覚与件のなかに、自閉圏の人びとは独特の美や歓びを感じているし、それとうまく折り合いをつけたり、それをうまく表現するための独自のメディアを発展させたりする。というのも、感覚データの奔流――細部からべつの細部へと移ろっていったり、目の前にあるものから想像や記憶の世界のなかに飛び出していったり、ウチとソトがつながって自分がモノそのものに(それどころが自分が悦ばしく感じている美そのものに)なってしまったり――は、単線的な時間経過や因果律的な論理関係には収まりきらないものだからだ。

お茶をたてると泡が立ちますね。茶碗のなかの泡の一つ一つに景色が映る。それが本当に美しいのです。お茶の泡は、ただ透明な泡に景色が映っているのではなく、一つ一つの小さな泡は私には虹色に輝いて見えます。虹色の泡に景色が映っています(虹色というのは、泡がピンクや青に光っている)。泡の大きさによってもそれぞれに違う美しさを持っていて、少し大きめの泡は映っている景色と虹色が美しく、景色が映らないほど小さな泡は星のようにキラキラ屋らしく光っています……お茶の緑色からは、私には淡い色の綺麗なお茶畑が見えて、優しい緩やかな音楽が聞こえます。お茶の緑色には感触もあって、「柔らかいわた」の感触です。お茶の泡の世界からは、星空が見えてきます。時には、自然の草木の音や優しい虫の声などの音も感じることもあります。/お点前に集中すると、こんなことを次々に体験することもあり、感覚的にはとても忙しい「強烈」な体験ですが、この強烈な体験は私には良い体験です。(231-32頁)

 

 

近代社会が要求する標準化、資本主義が要求する交換可能な労働力

しかし、現在の社会のなかでは、自閉圏の人びとがさまざまなかたちで、さまざまな濃度や密度で持ち合わせているこうした「異質な」感覚受容や内面世界は、うまく使えない。それは、近代社会が標準化を前提に組みたてられているからだろう。

その最たるものは教育である。言語や論理的思考を優先する教育法、集団行動、時間割、標準化されたテストによる成績付け、それらは、視覚優位だったり、流動的な時間感覚の持ち主だったりする自閉圏の人びとからすると、うまく馴染めないどころか、まったく敵対的なものですらあるのかもしれない。

突き詰めていけば、こうした標準化の根底には、近代的な資本主義の要求があるのだろう。交換可能で効率的な労働力という要求である。そのために、独自の感覚世界の持ち主のようなイレギュラーは、単に排除されるか、強制的に矯正されなければならないことになる。自閉圏の人びとにしてみれば、資本主義的な社会の求めるような「歯車」になることほど難しく苦痛なこともないだろう。それは、複雑で豊饒な自分の世界をあえて否定することである。インタビュー対象のひとりが語る言葉を使えば、「アスペルガーのわたし独自の認知世界を離脱」(157頁)することである。

現代社会において生き延びるには、働かいて金を稼がなければならない。それは、自らを、賃金に換算可能な労働力に転じることである。これは自閉圏内にいる人にも、圏外にいる人にも、等しく当てはまることだろう。もちろん、そのために払わなければならないものは、圏内の人びとのほうが圧倒的に大きい。しかし、どちらの人びとも、自らを労働力に転化するために、自らの感性や知性の独自性を犠牲にしている点では同じだろう。これを程度の違いと言い切ってしまうのは、自閉圏の人びとが払わなければならいものの大きさを過小に見積もることになりかねないのかもしれないが、ここを見逃すわけにはいかない。

ここで考えるべきは、ニューロダイバーシティーという<生物学的真実>と、標準化を規範とする<社会学的現実>の衝突だろう。効率性のためにある程度の標準化が必要だというのは、現代社会のような大規模な共同体においては、必然的なことではあるのだが、その必然性のために、どこまで個々の独自性や特異性を矯正することが許容されうるのか。この点を根底から考え直すのでなければ、自閉圏の人びとの「受け入れ」は、最良の場合でも、寛容で辛抱強い心ある人びとの「善意の行為」に終わってしまうだろう。

標準化と効率化を、生産と消費を前提とする社会を根本から考え直し、個性や瞑想、美的なモノづくりやマインドフルネスを基盤とする共同的な生き方を模索するのでなければ、自閉圏の人びとは依然として例外的に受け入れらるだけの存在になってしまいかねない。ニューロダイバーシティーを考えること、それは標準化を旨とする学校教育や社会制度を考え直すことである。

 

自閉圏の感性や知性のユニークさと凡庸さ

ニューロダイバーシティーがあるということと、独自の感覚世界が築かれることと、独自の表現様式が編み出されることのあいだには、微妙なギャップがあるのではないかという気もする。ニューロダイバーシティーがあることは否定しがたい生物学的与件だが、それが独自の感覚世界へとうまく統合されるかは個人差があるようだし、内面世界を表現できるかどうかどうかとなると、それは自閉症に限らないまったく別の問題が入ってくるように思うのだ。

本書でインタビュー対象となっている4人は、ヴァーチャルリアリティにおけるアバターだったり、漫画だったり、音楽だったり、非言語的な表現メディアを活用することで、自らの内面体験を外在化する方法を作り上げることに成功している。しかし、ここで思うのは、この4人は幸福な成功例でああって、この4人の背後には、そこまでたどり着かなかった多くの自閉圏の人びとがいるのではないか、そしてそうした人びとのほうが多数派ではないのか、という疑問だ。

自分にもっともフィットする表現メディアを探り当て、そのメディアの文法や語彙を注意深く丹念に学び取り、独自の表現方法を試し、オリジナルなものに昇華させていくというのは、時間のかかるプロセスである。なるほど、天才と言われる人々はそれを一足飛びに越えていくことができるのかもしれないが、自閉圏の人がみなそのような存在なのだろうか。自閉圏外のケースを考えると、どうもそうは思われない。というのも、これらは実験と実践によって少しずつ培われていくものであって、直感的に一挙に獲得されるようなものではないからだ。

著者が述べるように、過去の科学者や芸術家には、自閉圏の人びとの感性や知性の事例に相当するものが多数ある。優れた視覚的な記憶を持っていたチャールズ・ダーウィン、自閉圏的な世界と自閉圏外の世界のあいだのギャップを描き出したルイス・キャロルやエミリー・ディキンソン、共感覚的な認知を文学へと昇華させた宮沢賢治アンディ・ウォーホルフランツ・リストアルチュール・ランボーなど、共感覚的な持ち主がたどりついた芸術的達成は素晴らしいものである。

しかし、自閉圏の人びとがみなデフォルトで創造的であるというわけではないだろう。なるほど、自閉圏の人びとの使うイマージュは独特で、ハッとさせられるものかもしれないが、それは世慣れない子どもの言葉が、世間ずれしてない子どもの言葉が詩的なのと同じような理由ではないかという気もする。「深い知識や沢山の読書で鍛えられた知性とは違うが、その代わりにどこかから借りてきた思考や表現はない」、「自分の感覚を深く見つめて出てきた言葉」(228頁)というのは、そのとおりだろう。しかし、だとすればますます、自閉圏にいるある人の語る言葉の強度は、その人だけのものであって、自閉圏の人一般に当てはまるものではないだろう。

 

自閉圏「だから」でも、自閉圏「にもかかわらず」でもなく

もし自閉圏の人「だから」素晴らしいと言うのであれば、それは拙速な一般化ではないか。しかし、もし自閉圏の人「にもかかわらず」素晴らしいと言うのであれば、それはそういう物言いをする人の偏見(「自閉圏の人は一般に素晴らしくないはずなのにもかかわらず、ある特定の自閉圏の人は素晴らしい」)を曝け出すにすぎないし、結局のところ一般化を免れていないし、個人崇拝という過ちも犯している。

直感的なもの、直接的なもの、反省的でないものは、面白いかもしれないし、面白くないかもしれない。要するに、偶然的なものにすぎないのだ。この本を読むと、自閉圏の人びとが自らの世界を大事に大事に作り上げてきたこに心を動かされるが、その絶え間ない地道な努力、歓びもあれば苦しみもあった長く困難なプロセスを思うと、「ある」こと以上に重要な「なる」ことの意義は、どれだけ強調しても強調したりないように思われる。

偶然の産物を称えることが悪いわけではないが、それを過剰に称賛することは、ユニークに「なる」ことよりも、ユニークで「ある」のほうを強調しすぎることだ。ありのままを抱きしめることが重要なのは言うまでもない。しかし、それだけで充分なのか。「ある」を前面に出しすぎると、グラデーション的な連続性が少しずつ意味を失い、本質主義が回帰し、自閉症が「特殊」なものとして再び隔離されてしまいかねない。ナイーブさが天使化されてしまいかねない。 

もし障碍がスペクトラム的なものであり、「健常」と地続きであるなら、障碍者も健常者も同様に凡庸な存在でありうる。どちらにとっても、独自の存在になることは、直感やインスピレーションによって一息に成し遂げられるものではなく、プロセスとして持続的に取り組むことで初めて可能になる息の長いものではないだろうか。

自閉圏的知性や感性を認めるということ、それはおそらく、自閉圏的凡庸さをも認めることになるのだと思う。自閉圏的な感じ方や表し方の「あたりまえさ」や「ありきたりさ」が、物珍しさとか風変りさというようなものから完全に解放されたかたちで広く受け入れるようになるとき、自閉症が知性の普通のかたちの一種として受け入れられるようになるだろう。

ダグラス・マレー『西洋の自死――移民・アイデンティティ・イスラム』(東洋経済、2018)

人種差別的と思われたくないから人種差別主義者をも受け入れるという倒錯

ミシェル・ウエルベックが『服従』で描き出した問題は、ダグラス・マレーにしてみれば、ヨーロッパの自死の核心にあるものらしい。「左右両方のエリート政治家たちが「人種差別主義者」だと見られまいとするあまり、最悪にして最も急速に膨張する人種差別主義者にへつらい、ついには自分たちの国を手渡してしまう」(432頁)という構図は、ヨーロッパが、近代啓蒙主義的な理念によって自らを切り崩すありさまにほかならない。

これをもうすこし左寄りの視点から言い直せば、次のようになるだろう。寛容であることを旨とするリベラリズムは、自己一貫性を保つために、リベラリズムそれ自体を否定する理念をすら歓待しなければならない。そして、自ら引き入れられた身中の毒によって、リベラリズム自死を遂げるのだ、というシナリオである。 

近代の世俗性と相対性、イスラムの宗教性と絶対性

ここでイスラムという宗教が槍玉にあげられているのは偶然ではない。ヨーロッパの近代啓蒙主義には宗教批判の側面があったし、それが追求してきたのは世俗的な価値観であった。つまりそれは、批判を受け入れない絶対的一者の権威や権力――教会であれ国家であれ――の否定であったし、そのためにこそ、多様な価値観が称揚されたのだった。それはもしかすると、絶対的な権威に依存しないという絶対的な宗教的信念であったのかもしれなかったのだが、それは希薄化され、口当たりのいい文化相対主義に転じてきた。そしてそこから、多信仰主義への距離はほんのわずかであり、多信仰主義を認めれば、旧ヨーロッパ世界にあったのとはべつの絶対的一者が回帰してくることになる。

絶対的な存在を認めず、世俗的な世界を作るはずだった。そのなかに絶対的な存在が密輸入され、密輸入された絶対的な存在が、絶対者のいないはずの世界を下から攪乱するだろう。世俗的な近代ヨーロッパ的理念は、宗教的なイスラム的理念にたいして、あまりに無力である。ヨーロッパは、原理的に言って、自らの価値観をイスラムに強制できない。ヨーロッパはイスラムを自らに「服従」させるというカードを使えないが、イスラムはそのカードを使うことができる。強制できない者と強制できる者が対峙すれば、強制できない者が強制できる者に服従することになるだろう。遠くない未来、ヨーロッパがイスラム服従する、それがウエルベックの小説の筋だったが、ダグラス・マレーが『西洋の自死――移民・アイデンティティ・イスラム』描き出す未来もそれと遠くないものである。

 

文化多元主義を法的なアジェンダとして受け入れることは、ヨーロッパ近代が前提としてきた、法の下での平等という強力な普遍主義の放棄にほかならない。というのも、文化を多様化するということは、宗教と密接に絡んでいる文化をも許容することだからだ。とくに、宗教が政治に優越するというイスラムの文化を、文化多元主義の名のもとに受け入れることは、もはや文化的寛容ではなく、政治的譲歩である。

それは、普遍主義の希薄化にほかならない。いや、希薄化されて例外を認めるようになった普遍主義は、普遍主義の名に値するだろうか。多文化主義から多信仰主義を受け入れてしまえば、近代西欧の左翼的な根源的価値観が崩壊してしまう。マレーはそう言っているように聞こえる。

 

美学的保守主義

では、どうすべきなのか。マレーの立ち位置がよくわからないのだが、保守本流的な価値観を復権させようというわけではなさそうだ。彼がこだわるのは、もうすこしファジーな文化的‐宗教的価値観であるらしい。

欧州の「未来」のために、欧州の「過去」をポジティヴに奪還したがっている。かつての帝国主義植民地主義の暴虐さだけに欧州の過去を還元したがらない。そうした罪悪感や良心の呵責から、欧州を解放したいのだ。

我々の危機への解決策はまた、未来に対する前向きな態度だけではなく、過去に対するバランスの取れた態度を伴うものになるだろう。ある社会が自らのルーツを日常的に抑圧したり、それと戦っていたりしたのでは、生き残ることは不可能だ。自らの過去を批判することを一切許さない国家が繁栄できないのと同様、自らの過去を肯定することをことごとく抑止する国家も生き残ってはいけない。欧州が自らの過去に疲労感や消耗感を覚えるのは理由のないことではないが、過去と向き合う際には自らを責める気持ちと同じだけ、自らを許す気持ちを持っていい。少なくとも欧州は過去の痛みだけではなく、過去の栄光ともつながりを維持する必要がある。(463‐64頁) 

マレーは欧州の罪深さを全否定する修正主義者ではないが、そうした負の側面をとりあえず脇に置いて、別の側面を見たがっている。他者になした罪を、他者を差し置いて、自ら許すことが、はたして可能なのかという疑問はあるし、そこで立ち止まろうとしないマレーに、被害者意識を振りかざす加害者の傲慢さを感じてしまうところでもあるが、ここで焦点化したいのは、彼が「過去の栄光」というフレーズで何を言おうとしているかだ。

引用を続けよう。

欧州の未来はおおむね、この地に受け継がれてきた教会の建物や、偉大な文化的建造物に対する我々の態度で決まるだろう……楽しさだけを売り物にする社会は、急速に魅力を喪失しかねない。ナイトクラブを出たあとに宗旨替えをした人々は、楽しいことを体験したうえで、それでは不十分だと悟ったのだ。我が社会を特徴づけるのはもっぱらバーとナイトクラブ、放縦と権利者意識だと語るような社会は、深い根を持つとは言えず、生き残る可能性は低い。一方、我が社会は大聖堂や劇場、スタジアムやショッピングモール、そしてシェークスピアからなると考える社会には、一定の可能性がある。(464、465頁)

マレーのビジョンは微妙に混乱している(もし翻訳が間違っていないのであれば、だが)。一方において、偉大な宗教的遺産(大聖堂)や文化的遺産(シェイクスピア)が称揚され、他方において、近代消費主義の権化であるようなショッピングモールがリストに含まれる。それでいて、マレーはバーやナイトクラブのような享楽の場をこきおろす。

彼のスタンスは、政治的保守というよりも、文化的保守ないしは美学的宗教と呼んだほうが妥当かも知れない。20世前半のイギリスにおいてまさにそのような存在であったT・S・エリオットのパジェント劇『岩』のコーラス「だれも良くある必要がないくらいに完璧なシステムを夢みる dreaming of systems so perfect that no one will need to be good」をマレーが唐突に引用しているのも、そう考えれば腑に落ちる。20世紀初頭の後期ロマン音楽に示すアンビバレンスや、20世紀のアヴァンギャルドモダニズムポストモダニズムに向ける否定的評価も、筋が通っている。

第一次世界大戦よりも以前から、欧州の――特にドイツのーー美術と音楽には、円熟から爛熟へ、さらには何か別のものへと変わっていく系譜が存在した。グスタフ・マーラーリヒャルト・シュトラウスグスタフ・クリムトらに代表されるオーストリアとドイツのロマン派の最後の系譜は、そこからは完全な瓦解以外は何も生まれない円熟の極みに到達したことによって、自壊したように思える。それは単に彼らが死という主題に固執していたということではない。彼らの芸術は、それ以上引き伸ばしたり、より一層の革新を加えたりすれば、折れてしまったように感じられるのだ。そしてモダニズムポストモダニズムの中で、実際に折れた。それ以来、欧州の――特にドイツの――芸術は、その爆発から生まれた残骸の中に存在することによってのみ、成功が可能だった気がする。それ以外の出口は誰も見つけることができなかったのだ。(418‐19頁)

 

マレーが試みようとしているのは、近代以前から続くヨーロッパとつながることなのだ。そしてそれは、ヨーロッパにとっての宗教の問題である。ヨーロッパにとっても、宗教は本質的な物語であり、それはキリスト教のことであるらしい。マレーによれば、ヨーロッパは小さな村や町の集積であり、そこでは、教会がコミュニティの中心であり続けてきたという。

もちろん、ヨーロッパにおいてキリスト教の価値は、19世紀以来、漸進的に低下してきた。デヴィッド・シュトラウスやエルネスト・ルナンのような実証的聖書学は、キリスト教が歴史にすぎず、超越的でもなければ超自然的でもないことを暴露してきたとはいえ、宗教に後光があったことは否定しがたいようであるし、そうした超越性にたいする希求は決して息絶えることはなかったようでもある。実際、宗教が衰えつつあった19世紀後半、芸術が宗教にとって代わろうという野心を抱いた。『パルジファル』を書いたワーグナーのように。

マレーが思い浮かべているのは、そうした宗教的文化の再興によるヨーロッパ的価値観=文化=生活形態の生存なのだろう。

 

反エリートな大衆の声

興味深いのは、マレーが、ヨーロッパの自死を招いたエリート主義から距離を置き、自らを、大衆のほうに近づけていることだ。というのも、20世紀初頭において文化的保守主義を掲げたエリートたちは、ほぼ例外なく大衆侮蔑的であったからだ。その始祖ともいうべきはフリードリヒ・ニーチェであろうし、もしかするとエドマンド・バークにまでさかのぼることができるのかもしれないが、20世紀の文脈なら、オスヴァルド・シュペングラーやオルテガ・イ・ガセットに言及しないわけにはいかない。

マレーが大衆を代弁しているかのような語り方をするとき、それをある程度までは疑ってみるべきだ。彼は実際の事例をふんだんに提示するが、同時に、まるで「大衆」の心情とチャネリングしているかのように、大衆の直感や本能を語り出す。それはマレーが本当に大衆の側から語っているからなのか、それとも大衆の声を詐称するデマゴーグだからなのか、そこを疑ってかかる必要があると思うのだ。

エリートはきれいごとを言うが、一般大衆はそんなものを望んでなどいない、というのが、この手の本で繰り返される「ホンネ」だからだ。腹の底では、内臓から考えれば、だれもが異質なものを直感的に拒むのだ、という論法は、もっともらしいものでもあるし、それを裏付けるような具体例をマレーはあれもこれもと数え上げる。もし脊髄反射的憎悪があるとしたら、それは具体的な出来事によって強化され、文化的‐宗教的他者に向けられるだろう。そうならないと思うほうが、ナイーブなのかもしれない。

たとえば、大衆が拒んでいたのは、「移民たちImmigrants」ではなく、「移民現象Immigration」である、と述べるときである(458頁)。大衆は個人としての移民とはうまく付き合おうとしたけれど、移民という現象が、自分たちの社会や文化を根底から覆してしまうことに警戒心を抱いてきたにもかかわらず、エリートたちはその不安を真剣に取り合おうとはしなかった、とマレーは大衆を代弁し、エリートに抵抗し、ヒロイックに真実の警鐘を鳴らしているかのようである。

大衆の直感なのか、マレーの独断なのかはともかく、多様性が失敗したという意見には否定しがたい真実が含まれている。社会はそこまで急速に変わりえるものではない。共同体は根源的なところで保守的であり、もしかすると、それは、生物的な要請なのかもしれない。それを文化的に上書きしてみようとしても、どこかで限界に達してしまう。

多様になることが不可能なのではない。多様になるには、遅さ(スピード)と長さ(タイム)がいる。多様性そのものが無茶だったというよりも、急速に短期間で多様になろうとしたところに、無理があったのだ、と言うべきかもしれないし、その意味では、マレーが難民認定プロセスにおけるずさんなファクトチェック(またはその事実上の不在)を問題視しているのは、当然だろう。

 

どうすればよかったのか、どうすればいいのか

マレーは移民を締め出すことが答えであると言っているわけではないようだ。むしろ彼がほのめかしているのは、ヨーロッパ的価値観を譲り渡すことなく、吸収可能な数の移民をヨーロッパに統合することであるようにも聞こえる。実際、彼がメルケルの失敗と呼ぶのは、彼女の下した移民歓待という方向性そのものではなく、そのやり方のほうである。「困っている人々に慈悲を示しながら、一方で欧州の大衆に対する正義を通すこともできた」(451頁)というのが、マレーの論点なのだ。

とはいえ、そうした正義を通すための拠り所をどこに求めるのか。 

 

こうした本で、脱構築をはじめとするポストモダンポスト構造主義思想が槍玉にあがるのは、もはや様式美といって差し支えないと思うのだが、知的洗練化――批判者はそれを遊戯化と呼ぶだろう――が、価値判断を高度に複雑なものにしてしまったのは事実だろう。脱構築は、肯定するやいなや否定が作動するような、オンとオフを同時に入れるような、矛盾したゲームである。

ただし、ここで強調しておくべきは、矛盾しているのは脱構築のほうではなく現実そのものであるという点だ。脱構築はその意味では錯綜的な現実にもっとも忠実な思考であるのだけれど、ジャック・ラカンの「現実なるものThe Real」がそうであるように、現実そのものはアクセス不可能であるからこそ、わたしたちはそれをどうにかコントロール可能にするための嘘――ルイ・アルチュセールが「イデオロギー」と呼んだもの――を必要とするのだ。脱構築はそうした嘘を許容しない厳しさに充ちている。その厳しさに耐えられるのは、おそらく、そのための特別の訓練を積んだ知的マゾヒストだけだろうという気がする。

もし脱構築に既存の道徳を切り崩す効果があるとしたら、それは、自らの信念の拠り所を精査することなく盲目的に信じることを疑問視することによって、信じることの根元を揺るがしてしまうところにある。脱構築はまっすぐな信念の基盤を切り崩す。その結果、単純なまでに強固な宗教的情熱を胸に秘めた人々と対峙すると、知的洗練者は無能な存在になってしまう。 

 

しかし、何があっても、そこを譲るわけにはいかないのだ、というのがマレーの論点である。寛容でありながら、絶対的なラインは譲らない。受け入れつつ、相手をこちらの大原則に服従させる。なぜなら、大原則レベルでの共存はありえないからだ。そのレベルでは、「あれか、これか」の相互に排他的な二択になるからだ。そこを譲れると思ったところに、リベラルな政治家/エリートの思い違いがあった。それがマレーの議論の核心にある。

これを左派的に言い換えると、どうなるか。リベラリズム啓蒙主義という「宗教」が必要なのか? 世界を脱‐魔術化する、それがマックス・ウェーバーの啓蒙の定義だったし、世界を再‐魔術化しようとするファシズムの神話にたいしてフランクフルト学派たちは再度の脱‐魔術化批判の刃を向けた。しかし、いまわたしたちが掲げるべきは、ベネディクト16世の「神が存在するかのように」行動せよという欧州人にたいする懇願(465頁)に近いものなのかもしれない。

脱‐魔術化の批判性をキープしたまま、そこに世俗的なもの以上の何かを付与するために、「世界を再‐魔術化する」(シルヴィア・フェデリーチ)という、自意識的に反実仮想的な「かのように as if/comme si/ als ob」のプロジェクトである。