日々の雑感
モートン・フェルドマンの音楽はただようかすかな音で構成されており、協和音ではないが不協和音でもない音群が移ろい、色彩を淡く変化させながら、静かに、しかし、留まることも途切れることもなく重なり合っては離れ、陶酔的とも瞑想的とも言いがたいかた…
小林徳三郎の絵には不健康ではない翳りや憂いがある。湿り気を帯びた色彩の基調となるのは緑や茶であり、雰囲気は重い。しかし、線は丸みを帯びた曲線で、どこかユーモラス。大笑いではないし、微笑みでもない。あえて言えば、泣き笑いのよう。そこはかとな…
トゥガン・ソヒエフはきわめて充実した音楽を作り出す指揮者だ。奇をてらったところのない正攻法。解釈的な面白さではなく、音楽の熱量で勝負するタイプであり、オーケストラのポテンシャルを引き出すことに長けている。 アンダンテ・モデラートとスケルツォ…
渋谷の「ヒカリエ」8階のイベントホールで開催中の展覧会に終了前日となる土曜日に行ったけれど、予想どおりの混雑。ネットで事前にチケットを買っておいたけれど、それでも会場に入るまでに15分か20分ぐらいは待つ羽目になった。それだけの価値があるものだ…
岡田暁生と片山杜秀の対談は、クラシックファンの思いこみを切り崩すように進んでいく。だから彼らの話は政治や宗教の問題を中心にして進んでいくし、西欧の帝国主義や日本近代の教養主義が問題化されていく。軍隊音楽が担った役割をクローズアップしていく…
積読状態の New Yorker をめくっていたら、アレックス・ロスの痛烈な音楽批評に行き当たった。 常習的に過密スケジュールのメトの音楽監督ヤニック・ネゼ=セガンは、自身が指揮するオペラに特有な音楽様式の特徴をかたちにするためのリハーサルの時間が足り…
YouTubeのアルゴリズムが表示したショート動画で知って興味を持って見にいったものの、壮大な凡作という印象以上のものは持ち得なかった。たしかに映像の美しさは破格。世界にはこれほどまでに美しい場所が存在するのかと驚きと畏敬の念を覚えるし、それらを…
ヴァイオリン、チェロ、三味線のトリオに、尺八を加えたカルテットでバッハの『ゴルトベルク変奏曲』をやるとどうなるのか、そしてそれをクラシック音楽にはおよそ似つかわしくはない寺でやるとどうなるのかという、純粋というには夾雑物の多い好奇心から足…
「変なおじさんが変な芝居をやって日本を憂いていた、そんなふうに思ってくれればいい」と、当初の予定では40分のアフタートークを大幅に超過するなか、「この芝居のメッセージは何なのでしょうか」という質問にたいする締めくくりとして、自嘲するのでも卑…
名前は知っているけれど、作品(または作風)となると思い浮かばないという画家は、いるようでいない気がする。その意味で、モーリス・ユトリロは例外的なのかもしれない。というよりも、「近代フランスの画家」ということぐらいは当然知識としては頭に入っ…
照明レーンのさらに上から垂れ下がる紗幕には細かく襞が寄っており、滝のようにも、大木のようにも見える。舞台上をも覆いつくした紗幕はうねるようにして凹凸を作り出し、無数に枝分かれした支流のようでもあれば、四方八方に広がる根のようでもある。床の…
ピエタリ・インキネンは音をつなぐタイプの指揮者だ。いや、「つなぐ」というよりも、「継ぐ」といったほうが正確かもしれない。ひとつのパートから別のパートへと旋律や動機が受け渡されるとき、それをひとつの滑らかなラインへと変容させる(その意味では…
平日午後の中途半端な時間だというのに、建物の外で入場まで10分待ちということに驚く。今週末で会期終了だからだろうか。しかし、中に入ってやっと気がついたのだけれど、この「特別展」の会場は本館の一室だけで、展示品は7体の仏像のみ。すべてが国宝指定…
大学、大学院時代と三鷹市に住んでいたけれど、買い物は吉祥寺だったし、図書館もそう。アーケードのある駅前商店街サンロードから少し外れたところにある図書館が、RCAの白黒のジャケットのトスカニーニのCDとの出会いの場だった。ここで『名作オペラブック…
One of Xs という言い回しは、単数複数を区別する西洋語特有のものであり、日本語には上手く移し替えられないものであるように感じていた。 たとえば、I’m one of the witnesses のようなセンテンスを、「わたしは目撃者のひとりです」とするのは、正確では…
個人的な趣味の問題として、テクニックをひけらかす演奏は好きではない。しかし、難曲を圧倒的な技術で駆け抜けていくパフォーマンスに惹かれるところがないといえば嘘になる。 YouTubeのサジェッションで出てきたFazioliのチャンネルにあった、プッチーニの…
冒頭から濃密。合唱全体が響き合うというよりも、ひとつの太い線となった声部が、先行する声部の作り出した響きに押し入り、みずからの響きを密着させ、融合させていくかのようだ。響きは澄んでいるが、古楽演奏にありがちなエーテル的な浮遊感ではなく、実…
フィンセント・ファン・ゴッホといえば、みずから耳を切り落とし、ピストル自殺した狂気の画家というのがステレオタイプ的な理解だと思っていたけれど、もしかすると、そのイメージはもう古いのかもしれない。 この展覧会でクローズアップされるのは、まさに…
ジョージ・ベンジャミンの音楽を知った経緯がいまひとつ思い出せないけれど、たしかブーレーズから始めて、ミュライユやグリゼーといったスペクトル楽派を聞いていくなかで、Nimbus Records からいくつもリリースされていたメシアンの愛弟子という早熟の天才…
アコーディオンひとり、パーカッションふたりのアンサンブルといわれても、まったく想像がつかない。しかし、プレトークに登壇した作曲家マルティン・マタロンによれば、アコーディオンの音域はフルオーケストラの最低音から最高音までカバーしており、その…
ベルクがビュヒナーの残した断章を再構成した『ヴォツェック』はきわめて演劇的なオペラだ。緻密すぎるほどに作り込まれたスコアは、演奏会形式の上演でも、録音でさえも、充分に自律して聞こえるものの、歌い演じる身体がなければ見えてこないものがある。 …
忌憚のない意見を言わせてもらうなら、少々看板に偽りありのコンサートだった。「オーケストラとバレエの饗宴」と謳われているけれど、それはコンサート後半だけのことで、前半は何の変哲もないコンサート(40分ほどの弦楽オケのヴァイオリン協奏曲)。ステ…
円山応挙という名前はもちろん知っているけれど、代表作を挙げろと言われたら困ってしまうところだ。書き散らしたような素描から、素人仕事の蒔絵まで、精密な写生から、ジャンル的なクリシェまで、かわいらしい動物から、凛とした自然まで、応挙の仕事を幅…
民藝はコンテンツとして強い。ということを如実に感じさせられた展覧会だった。この美術館(というか、ギャラリー?)に来るのは2回目でしかないけれど、客層の違いは目に見えてわかるし、ギャラショップの混み方も桁違い。特別展のほうの人出とは裏腹に、常…
もはや現代音楽というよりは、20世紀の古典としての地位を確立したメシアンの『トゥランガリーラ交響曲』だが、個人的にはどこかどらえどころのない曲でもある。主要動機は頭に入っているし、次にどの音が来るかもだいたい覚えている。にもかかわらず、どう…
渋い展覧会だが、布地を見る目が変わる。ヨーロッパ起源の草花模様だと思っていたものが実はインド更紗職人によるデザインに端を発するものであったことが見えてくる。ウィリアム・モリスのデザインにしてもそうだ。まさに更紗は史上初の「グローバル・プロ…
ミニマル・ミュージックはわりと好きで、作業用BGMとしてよく聞いているけれど(と書きながら、それでミニマル・ミュージック好きを名乗ってよいものだろうか)、実演で聞いて面白いのかという疑問はずっとあった。退屈するのではないか、と。しかし、一度は…
無伴奏合唱はクラシック音楽のなかでも独特のジャンルではないだろうか。人間の肉体だけが楽器となる。自分の声を他者の声に重ね、解け合わせたり際立たせたりしなければ、音楽にならない。ほかのどの編成にもまして、アンサンブルが、なくてはならないもの…
20251019 三島由紀夫「弱法師」石神夏希演出@静岡芸術劇場 光り輝く盲目の戦災孤児の俊徳の親権をめぐって、養子夫婦の川島家と実子夫妻の高安家が、家庭裁判所の調整委員の桜田級子を前にして繰り広げる悲喜劇的な心理劇であるかのように見せかけて、実は、…
ベートーヴェンの「田園」が前プロ、ストラヴィンスキーの「春の祭典」がメインという、何か不思議なプログラム。「田園」は「なぜあえてこの曲を?」と首を傾げっぱなしの演奏だったが、しかし、「春祭」は分析と表現が高いレベルで拮抗していて素晴らしか…