日々の雑感
大正から昭和にかけて挿絵画家として活躍し、映画や演劇でも大きな役割を果たした小村雪岱は、「挿絵のモデルー個性なき女性を描いて」という文章のなかで、彼の描く女性が無個性だという批判に応えて、次のように述べている。「私は個性のない表情のなかに…
ラヴェルの《ダフニスとクロエ》(1912)の全曲が演奏されることはそれほど多くない。少なくとも、ディアギレフ率いるバレエ・リュスの同時期の委嘱曲であるストラヴィンスキの《春の祭典》(1913)に比べると、演奏機会は遥かに少ない。ただ、全曲からの抜…
ウェーベルンの《パッサカリア》の冒頭のピアニッシシモのピチカートが柔らかく、ふわりと優しく響く。指揮棒を持たないカンブルランは音を点ではなく線や面で捉えるつもりなのだろう。まずはフルートで、そしてクラリネットへと引き継がれ、次第に盛り上が…
カール・ヴァルザーのことは何も知らずに観にいって、それなりに愉しめた展覧会。ビラのビジュアルに用いられている、本を手に持った淑女の絵は、肩透かしと言いたくなるほどに小さく――大きな肖像画かと思いきや、小さく控え目な習作――、その点では、羊頭狗…
浮世絵とはどのように鑑賞すべきものなのだろうか。どこまでが彫りや刷りの功績になるのだろうか。浮世絵は集団制作と見なすべきなのか個人の創意の産物と捉えてよいのだろうか。そのあたりの機微がわからない。それに、浮世絵は、複製技術によるワン・ノブ…
「エスカレーターは歩かず、両側にお乗りください」というような掲示やアナウンスはどこの駅にもあるけれど、守られているところは見たことがない。「エスカレーターが上につくまでの数十秒のあいだ、空いている側にひとり立ち続けることに耐えられないから…
今年の SHIZUOKA せかい演劇祭の雑感。 演劇関連の公演は6つだったと思うけれど、5つは見た。ストレンジシードは日程が合わず、まったく見ていない。 『マライの虎――ハリマオ』は傑作とまでは言わないけれど、きわめてレベルの高い作品。台本にしても、演…
移住先でこっそり新妻を迎え、一方的に離縁しようとする不実な夫に復讐する妻の話――『王女メデイア』の筋書きは三面記事的であり、いかにもありえそうな話に聞こえる。しかし、復讐のために、新妻を毒殺するばかりか、実子をみずからの手で殺めるとなると、…
ガロ的なナンセンス味。エロではないが、グロさはある。ビニール紐のようなものを長い短冊にして無数に貼り付けた小山のような背景が突如として生命を帯び、壁や崖のようにそびえるかと思えば、風や波のようにうねり出す。短冊のひとつひとつが生命を帯びた…
静かな水面にそっと、ひとつ、またひとつと投げ込まれた小石から広がっていく波紋が互いに触れ合うと、相手を消し合うことなく、かといって、一方が他方を吸収するというのでもなく溶け合ってひとつになったさざ波は遠くまで広がり、次第に輪郭を失い、余韻…
翻訳語考。日本国憲法の前文は「日本国民は」という抽象的で客観的な主語から始まりながら、同文中ですぐさま一人称複数の代名詞「われら our」によって言い換えられる。 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子…
いつも思うけれど、さらっと書けてしまう感想と、なかなか書き切れない感想がある。4月25日に観たもので言うと、『さあ環境に抵抗しよう、死に抵抗しよう。そうさ生に抵抗するのさ、』は前者、『マライの虎』と『うなぎの回遊』は後者。 面白いことに、書…
「最後の来日公演」という煽り文句に誘われて足を運んだものの、クレーメルの大ファンというわけではない。録音からでも聞き取れる彼の鋭利なテクニックや深い音楽性には驚嘆させられてきた。しかし、たとえばアーノンクールがそうであるように、意図的にと…
淡く、正しく、エモく。 「SPAC秋のシーズン2025-2026」からアーティスティック・ディレクターを務める石神夏希による台本・演出の『うなぎの回遊』を端的にまとめるのなら、そのようなフレーズに落ち着くのではないかという気がしている。インクルーシヴで…
「挑発的な啓蒙――集団的な極限的体験を媒介とする普遍性への回路」 ダンスと言うべきか、演劇と言うべきか。7名の俳優たちが、振り付けとも演技とも判別しがたい、奇行的としか言いようのないような奇妙な動作――奇声を発しながら全身を大きく広げたり、ブロ…
「コミカルに、クリティカルに――日本の戦争責任を開く」 大東亜戦争時代に作成されたプロパガンダ映画『マライの虎』(1943)を、シンガポールの小劇団が、日本人俳優ふたりをゲストに迎えて低予算でリメイクする過程をそのまま舞台化した『マライの虎――ハリ…
近代の西洋芸術は、大雑把に言えば、テンプレ遵守の古典主義からの解放=自由だ。「絵画とはこうあるべき」という固定観念からの脱却。それはたとえば、写実(見えるように描く)や写生(戸外での制作)という方向性であり、不変=普遍化された理想に対抗す…
音楽語法はさておくと、ベルクのオペラがポスト・ワーグナー/シュトラウス路線にあることは間違いない。ここで音楽は演劇と完全に融合しており、歌もオーケストラも、ドラマのためのものになっている。言葉は歌われるというよりも語られる。だから、重唱に…
バッハのいわゆる《ゴルトベルク変奏曲》はきわめて奇妙な曲なのだということを実感させられた。30の変奏は最初と最後のアリアに端を発するものではあるし、全曲をとおして直感的な統一感はある。しかし、人口に膾炙している「変奏曲」が想起させるほどに、…
尾形光琳の「燕子花図」では、花と葉はすべて、写実ではなく、〈かたち〉に抽象化されている。そのはずだが、すべてが異なっている。パターンに落とし込まれていながら、そのひとつひとつが、具体的で特異なものになっているようなのだ。 全体が作り出す雰囲…
「マルメロ」は上演芸術をプロデュースする会社で、今回の大収穫祭展は、主宰の斎藤朋さんの還暦記念イベントだという。商業ベースにはのらない表現者たち、表現しなければ息絶えてしまうような、表現できるからこそ生き延びていくような人々のサポートを数…
純音楽的な物語と言おうか、非言語的なドラマと言おうか。鈴木優人とバッハ・コレギウム・ジャパンによるバッハの《マタイ受難曲》はとにかくパワフルで、パッション(情念=受難)というよりも、パトスというかパルスというか、烈しさが前面に出ている。 ba…
正直に言えばクセナキスの音楽は苦手だ。ピエール・ブーレーズの文章や作品を入口にして現代音楽を聴き始めた身からすると、クセナキスの音楽は、音響にしても構造にしても、きわめて異質に感じられてしまう。その一方で、Timpani から出たクセナキスのオー…
20世紀初頭に着手されながら、生活に忙殺されて完成までに10年近くを要したシェーンベルクの《グレの歌》は、後期ロマン派の肥大化傾向の袋小路とも言うべき作品だろう。《千人の交響曲》の異名をとるマーラーの8番を上回るほどの規模であり、超巨大なオーケ…
開館100周年記念の展覧会がなぜスウェーデンの19世紀末の絵画なのかは最後まで腑に落ちなかったけれど、古典主義的な絵画を打ち破る原動力となったのがフランス遊学者たちであったこと—―戸外での写生という方法論、農村の日常の主題化――、そして、そのような…
テレビ放送でノットと東響による武満のセレモニアルとマーラー9番を視聴したけれど、彼らの実演を何度か聴いた身からすると(ただし、このコンサート自体はチケットを買い逃がしたので行っていない)、録画では多くのことがスポイルされていることに気づいた…
大西茂の写真は被写体に依存しない。というよりも、彼は被写体の真実というようなものを目指してシャッターを切ったわけではないのだろう。技術的なことがわからないので、推測するしかない部分もあるけれど、ここには間違いなく、一般の目に映るものではな…
民藝から戦後建築まで、宮沢賢治から竹久夢二まで、さまざまな分野を横断的に並置することで、日本近代における「美しいユートピア」をめぐる試みを浮かび上がらせようという野心的な展覧会。 panasonic.co.jp パナソニック汐留美術館は初めて来たけれど、JR…
客席の不意をつくように、まだ完全には暗くなっていないうちに、舞台中央に鎮座していた、黄銅色の三角柱を横にした机のようなものが人力で回転させられる。不規則に軋む金属音とともに、歌詞のない歌声が発せられる。舞台が次第に暗がりに沈むなか、天井か…
「フランシスコ会(アッシジのフランシスコが一三世紀に創設)の布教活動は、イエズス会の方法とは異なる特徴を持っていた。イエズス会はキリシタン大名を通じた「上からの布教」を重視し、彼らの保護を受けながら布教を展開した。これに対してフランシスコ…