翻訳語考。英単語の音をカタカナで転写するのは翻訳の放棄ではあるものの、カタカナ語が十分に日本語になっていれば、翻訳者の怠慢とまでは言えない。それに、下手に古臭い日本語にするよりも、カタカナにしたほうがフレッシュで、現代的なニュアンスを強く打ち出すこともできる。
その意味で、activist は過渡期にある語かもしれない。「活動家」とすると、日本語の文脈では古臭い感じもするし、政治臭が強く出すぎるようにも思うけれど、「アクティヴィスト」は字数が多くで見た目が騒々しく、ビジネス誌にありがちな無駄にカタカナを多用する紙面を想起させる部分もあるように思う。
これとはまた違った意味で難しいのは community だ。「共同体」としても、「コミュニティ」としても、訳語としては間違っていない。語源的には common(共通の)に由来する語であり、community は、common なものを持つ人々の集まりを指す。
あくまで個人的な語感になるけれど、「共同体」と「コミュニティ」では、前者のほうが「人」のイメージが強く出て、後者のほうが「場」のイメージが強く出るような気がする。それから、前者のほうが同質性が高く、後者のほうが多様性に目配せしているような感じもするし、「共同体」がどこか抽象的な、超越的な、全体を結び付ける「精神」のようなものを思い浮かべてしまうのにたいして、「コミュニティ」はずっと世俗的なものに思われる。「共同体」のほうが良くも悪くも濃密である。
(「コミュニティ」にも特有の親密さはあると思うけれど、「共同体」のそれとは質的に異なるものであるように感じる。「共同体」の親密さが、生物学的な意味であれ、比喩的な意味であれ、「血縁」的なものだとしたら、「コミュニティ」のそれはそうではないだろう。)
これは個人的な語感ではないと思うけれど、適応可能なサイズについても、「共同体」と「コミュニティ」では微妙に違いがあるのではないか。「共同体」は、たとえば「運命共同体」のように使えば、わりと小規模な集まりを指すことができる一方で、かなり大規模な集団を指すこともできるだろう。その一方で、「コミュニティ」は中規模な集団に使うほうが一般的であり、「地域のコミュニティ」のような使い方のほうが馴染みがよいだろう。そう考えてみると、いかにして近代メディアが国民国家という幻想を広域にまたがって共有可能なものにしたかを論じたベネディクト・アンダーソンの古典的名著 Imagined Communities の邦題が、『想像のコミュニティ』ではなく『想像の共同体』になっているのは、非常に腑に落ちるところである。
というわけで、文脈によって「共同体」と「コミュニティ」を使い分けるのが妥当かと思うけれど、果たしてこの使い分けは、日本語読者に伝わるものだろうかとも思う。かといって「共同体」に「コミュニティ」というルビを振るのも変な感じがするし、凡例やあとがきで言い訳するのも違う気がする。
どちらの訳語をどのように使っても誤訳ということはない。しかし、使い方によっては読者をミスリードしかねない。