翻訳語考
翻訳語考。戯曲を読んでいると、「(間)」というト書きと遭遇する。いま読んでいるベケットの『ゴドーを待ちながら』の場合、どちらもベケット自身の手になるフランス語版と英語版があるけれど、邦訳における「間」に相当するフランス語は「un temps」であ…
翻訳語考。practical は practice の形容詞系なのだろうか。そのとおりではあると思う。しかし、では、practice を「実践」と訳せるからといって、practical を「実践的」と訳していいものだろうか。 フランス語の pratique ならそれもありかなと思い、仏和…
マルクスの『ゴータ綱領批判』で使われていること有名な「Jeder nach seinen Fähigkeiten, jedem nach seinen Bedürfnissen!」というフレーズがある。スタンダードな英訳は「From each according to his ability, to each according to his needs」だろうか…
翻訳語考。All を、量的な「すべて」ではなく、時間‐頻度的な「つねに」や、条件的な「例外なく」にすり替えることは、どこまで許容されるだろうか。 All redistributive reforms face this challengeは、素直に訳せば、当然ながら、「あらゆる再分配的な改…
翻訳語考。equal は等号記号の「=」であり、数字的な意味での「同量」——twice 3 is equal to 6——を表すが、同時に、ひとつずつ足し合わせてピッタリ同じというよりも、トータルな意味での「同等」——we are equal——の両方をカバーしているように思う。つまり…
「生きづらさ」というワードに、英語を教える者として、引っかかるものがある。どのような英訳が妥当かが、いまひとつわからないのだ。「hard to live」は違うような気がするし、そもそもこれだと名詞化できない。かといって「difficult」を使って、「diffic…
翻訳語考。一人称複数。日本語の一人称単数はバリエーション豊かであり、表記もいろいろと選べる。しかし、一人称複数のほうはどうだろう。ひょっとして、日本語には、一人称単数の複数形——わたし+たち、われ+われ、ぼく+ら、などなど――ではない、固有の…
人名は本当に困る。George Romanes(1848‐94)という進化生物学者がいる。ダーウィン(1809‐82)より40歳近く若い Romanes は、晩年期のダーウィンのリサーチ・アシスタントを務めたばかりか、未出版の原稿を託されるほど、ダーウィンから信頼されていた。ハ…
日本政府の「意図的な誤訳」とまで言い切っていいのだろうか。「意図的」というのには同意する。しかし「誤訳」とまで言えるのかどうか。 原文は「We support the IAEA’s independent review to ensure that the discharge of Advanced Liquid Processing Sy…
翻訳語考。地名の問題。1914年に書かれた英語の文献に出てくる「Kieff」をどのように日本語の音に転写するべきだろうか。 キリル文字をラテン文字(英語などでおなじみのいわゆる「アルファベット」)に転写する明確なシステムが導入された最初の例は、1899…
翻訳語考。字面を黒く詰める(漢字に変換するか)、白く伸ばす(ひらがなカタカナをつかうか)かは、結局のところ、翻訳者の恣意的な判断にゆだねられるものだろう。 たしかに、英語史的には借用語と言えるロマンス語系列の言葉には漢語を、古層にして中核を…
翻訳語考。なぜ state は国家なのだろう。なぜ「家」が入るのだろう。明治近代の造語なのかと思ってコトバンクで検索してみたところ、実は古来からある単語だった。「精選版 日本国語大辞典」が引く一番古い例は十七箇条憲法(604)。「百姓有レ礼。国家自治…
翻訳語考。語順の問題は悩ましい。英語と日本語の文法構造が根本から違う以上——英語は主語-述語-目的語が、日本語は主語-目的語-述語が基本である——西欧語間の翻訳のような逐語訳はそもそも不可能だ。 そのような不可能性を踏まえたうえで、個人的には、でき…
翻訳語考。強調になる否定の接頭辞を持つ語は、ストレートに訳すべきか、字面どおりひねるべきか。たとえばinvaluableは、valueが「ない」ではなく、valueという尺度に収まらない、つまり、ひじょうにvalueがあるという意味になる。pricelessもこれと同じ系…
翻訳語考。Municipalをどうしたものか。この関連語であるmunicipalityを最近はカタカナで「ミュニシパリティ」とする風潮もあるようだけれど、正直、いかがなものかと思う。かといって、Wikipediaが採用している「基礎自治体」(「国の行政区画の中で最小の…
翻訳語考。Remark を「コメント」と訳すのはいろいろとためらわれる。 しかし、辞書的には決して間違っていない。OEDは定義1に「Observation, notice; (now esp.) comment 」(初出1614)を挙げているし、それと関連のある定義4は「A verbal or written obse…
翻訳語考。英語では何かを列挙するとき、最後の項目のまえに and や or を置くのが慣習化している。A, B, and C のように。むかし、たしかマーク・ピーターセンの『日本人の英語』で、and を入れないと、「それ以外にもまだ候補はある(もうここまでにするけ…
翻訳語考。「人」なのか「族」なのか。リーダーズ/リーダーズプラスを引くと、Aryan は「アーリア人」だが、Semite は「セム族」になる。20世紀前半のイギリスにおける人類学の重要な業績のひとつであるエドワード・エヴァン・エヴァンズ=プリチャードの T…
翻訳語考。Union を「連帯」と訳すのは踏み込みすぎだろうか。Labor union や trade union のような組み合わせなら「組合」とするのが妥当だけれど、a union of all men のような<集合>としての union はそれだとあまりにも色が付きすぎる感じもするし、そ…
図書館の新刊本の棚にあった小菅陽子『ウィーン菓子図鑑』(誠文堂新光社、2022)をパラパラめくっていたら、リンツァートルテというお菓子は「生地とジャムが混ざらないように間にオブラートを挟んで焼きます」(17頁)とあった。「そんな変わったことをす…
A man of science というフレーズがある。現在ではあまり使われない言い回しだが、19世紀の英語の文章でよく目にする。Google Ngram Viewer で見ると、1740年代後半から使用が始まり、1760年から70年にかけて急増した後、1872年まで増加傾向にあった。しかし…
翻訳語考。集合的な名称をどう訳すか。英語は -er や -ian のような接尾辞を土地の名前につけることで、「~人」のような意味の単語を作ることができる。たとえば、New Yorker であるとか、Californian というように。けれど、これを「ニューヨーク人」とか…
翻訳語考。a secular notion of freedomという英語の言い回しに文法的な難所はない。secularという形容詞はnotionという名詞を修飾しており、不定冠詞 a は notion と呼応している。of 以下は notion の修飾である。 しかしこれを正確に日本語にするのは案外…
ホッブズのあの有名なフレーズ「万人の万人にたいする闘争」だけれど、この訳語でいいのだろうか。ラテン語だと bellum omnium contra omnes。ラテン語は格変化するので、所有格 omnium と 対格 omnes で語尾が異なっているが*1、元の単語は omnis。ここでは…
commitmentが厄介な言葉であることは常々思っていることではあるけれど、いまだに適切な日本語を見つけられないでいる。思想史的な文脈を踏まえるなら、思い切って、「アンガージュマン」としてしまうのもひとつの手ではあるけれど、2022年のいま、このカタ…
「陽は昇った。黄と緑の筋が岸辺に落ち、朽ちたボートの肋材を黄金に染め、エリンギウムを、鎧をまとうその葉を、鋼鉄のような青に輝かせた。光は、扇のかたちを描いて浜辺を疾走する薄く速い波を、貫きとおさんばかりである。頭を振った少女がいた。宝石を…
「陽は高く昇っている。青い波、緑の波はさっと扇で払うように浜辺を洗い流し、穂のように長く伸びた軸に多くの花をつけるエリンギウムの周りを旋回し、浅い光の水たまりをあちこちの砂の上に残す。波が引いた後に薄黒の輪郭が残る。霧に覆われていた柔らか…
「夜明けはまだ来ていない。海と空は見分けられない。けれど、海のほうにはわずかに折り目がついている。皴のよった布地のように。次第に空が白み始め、水平線が暗い線となり、空が海と分かたれる。グレーの布地を押しとどめる厚く重いウネリが、ひとつまた…
翻訳語考。publicとsocialの違いが、どうもしっくりこない。どちらもラテン語を語源とする言葉だ。publicはpeopleに、socialはsocietyやassociationに通じるわけだから、当然、publicのほうが指示範囲は広い。publicがとある共同体の人々全員をカバーすると…
翻訳語考。inequalityは「格差」でいいのだろうか。そこそこ妥当な訳語ではある。「不平等」より耳なじみもいいだろう。しかし、「格差」は、彼我の相対的な差を記述するための言葉にすぎないようにも思う。目指すべき方向性やあるべき状態についての理念は…