うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳語考。「間」と「pause」のズレ、または訳語が原語よりも多義的な場合。

翻訳語考。戯曲を読んでいると、「(間)」というト書きと遭遇する。いま読んでいるベケットの『ゴドーを待ちながら』の場合、どちらもベケット自身の手になるフランス語版と英語版があるけれど、邦訳における「間」に相当するフランス語は「un temps」であり、英語なら「pause」になる。ちなみに、『ゴドー』には似たト書きとして「silence」があるけれど(フランス語も英語も同じつづり)、こちらは「沈黙」の訳語が当てられている。引っかかるのは「間」のほう。

日本語の「間」は、ある意味、翻訳不可能な出来事であるようにも思う。「間」はたんなる「停止(ポース)」ではない。「間」はたしかに、それまで続いていた流れが一時的に停止することによって出現するものではあるものの、それは、時間的なものであるとともに空間的なものであり——と書きながら、漢字では、「間」という字が、時「間」と空「間」の両方に含まれていることにはじめて意識的に気がついた——、その意味では、un temps や pause よりも重層的なワードだ。「間合い」というような表現からもわかるとおり、「間」は、それ自体として自律した存在であるとも言える。なるほど、たしかに、「間合い」は、相対する二人がいなければそもそも発生しないものかもしれないけれど、にもかかわらず、「間合い」を相対する二人に還元することもできないだろう。こう言ってみてもいいだろう。「間」とは、「何かがない」——たとえば会話がない――状態ではなく、「無がある」状態なのだ、と。

そう考えてみると、「間」は思わせぶりすぎるのではないかという気もするところ。端的に言えば、「pause」は、「中断」であり、「宙吊り」であり、それによって生まれるのはある種の「居心地の悪さ」や「気まずさ」だろう。「失敗」とまでは言わないにせよ、「不発」のようなものではあり、「期待外れ」とまでは言わないにせよ、「予定調和から外れるもの」ではあるだろう。しかし、それを「間」と言ってしまった途端、そのような「逸脱」が高次の秩序に正しく位置付けられてしまうのではないだろうか。空白や余白の美学の名の下に。