マイリス・ベスリーの『ベケット氏の最期の時間』は、妻シュザンヌを亡くして介護施設に入ったサミュエル・ベケットが、いかにもベケットらしく、ベケットとして亡くなるまでの日々を過ごしていく様子を描き出す。
ベスリーは、医療関係者や介護人が綴る業務報告と、ベケットの内的独白とを交替させながら、淡々とした筆致で物語を進めていく。ドキュメンタリー的な客観性と、意識の流れの手法を使った内面描写の主観性が、並列される。両者は混ざり合うことがない。医者たちとの会話のさいベケットは言葉少なに口をつぐむばかりで、客観的に記述されるベケットと、ベケットが自身の内側から語るところのあいだには、完璧な断絶がある。そこから、乾いた抒情性が生まれてくる。
介護されるベケットは、ベケットの劇や小説のキャラクターのようだ。体は自由に動かず、動作は緩慢になる。同じような動きが繰り返される。与えられた食事を食べるばかり、またはそれに手を着けない。
さまざまな記憶がよみがえってくる。最期の時間は、過去への回帰でもある。ジェイムズ・ジョイスの秘書をしていたときのこと、劇作家としての日々のこと。
しかし、繰り返しベケットの心をよぎるのは、女たちのことだ。母のこと、妻のこと、恋人たちのこと。それはかならずしも悦ばしい想い出ではない。しかし、愉しいことだけが回帰するわけではない。
わたしは、ふたたびジョイスの本をタイプで打ちはじめる。『進行中の作業(ワーク・イン・プログレス)』という題名なのに――なかなか進行しない。言語が、それも複数の言語が織りなす音楽。打ち込んでいるのは、アイルランド満載の英語だ。われわれの母語アイルランドを、すべてのページに次々と、ジョイスは吐き出していく。アイルランドは、メイの国。わたしの指元に、彼はそれを復元する。感染力は恐ろしい。言語を介した感染は。回復には、なかなかの時間を要した。アイルランドから、ジョイスから、メイからの回復。ジョイスから、母親から、自分の言語からの回復。いや、回復できたのだろうか。わからない。(32頁)
ベケットだから、そんなふうになるのだろうか。
そうではないのではないか。
ベケットは、ベケットの創作した特異なキャラクターたちをなぞるかのように、まさにベケットとして、特別な芸術家として、最後の日々を送っているようにも見えるが、介護施設に入居しているほかの老人たちの姿は、ベケットの日々がむしろ一般的なものであることをわたしたちにほのめかしてもいく。介護施設の最高齢の女性、ベケットの隣室の女性は、夜ごとにうわごとを口走る。おそらく彼女もまた、ベケットと同じように、去来する記憶、過去に遭遇した人々の思い出をどうしようもなく思い返しているのだ。
俳人でもある堀切克洋の訳はひじょうに巧みだ。下手な翻訳だと散漫で意味不明になって自壊してしまうこともめずらしくない内的独白のパートを、日本語として自律した強度のある文体として提示することに成功している。
とはいえ、そのような上質な訳文をもってしても、この小説が、ベケットのことを何も知らない読者にとって読んで面白いものかというと、即答しかねるところがある。
伝記ではなく小説を書いた、「事実と想像の両方を出発点として」、「みずからの終末と向き合う人間の姿」を作り出そうとしたという言葉が本書の最後に添えられている(272頁)。それはそのとおりではある。その意味では、この小説はベケット「について」のものではないとさえ言える。ベスリーが試みたのは、ベケットの晩年の心理それ自体を再構成することではない。ここでのベケットはあくまで、「みずからの終末と向き合う人間」の一例にすぎない。だがしかし、この小説を手に取る(日本の)読者の関心は、ベケットにあるのではないだろうか。
そこにこの小説の微妙な立ち位置がある。ベケットに興味がある層を超えてアピールする小説ではあるが、ベケットに興味がある層をコア読者として持つと想定するのが妥当であるような小説。
翻訳のなかには英語やゲール語などがちりばめられている。フランス語原文でも、フランス語とこれらの言語が併記されているのだろう。だから、日本語としてはこれが忠実なやり方ではあるのだが、やはりちょっとした違和感がある。
英語部分をルビで処理している箇所もあり、カタカナだけではなく、アルファベットを使用しているところもあり、その使い分けは一理あると思う。
とはいえ、この手の多言語的なテクストを日本語の文脈でどのように表象するからh、答えのない問いにとどまるだろう。