うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

信じることを信じない:J・M・クッツェー、鴻巣友希子訳『エリザベス・コステロ』(早川書房、2005)

現代小説は長くなる一方ではないか。もちろん短編や中編は依然として書かれているが、長編となると、やたらと長大になりがちである。だから、J・M・クッツェーは例外的存在と言っていいかもしれない。クッツェーの小説はつねにコンパクトで、長すぎるということがない。

『エリザベス・コステロ』は、かなり入り組んだメタ・フィクション的な作品だが、邦訳にして200頁余り。テクストを肥大させないことがクッツェーの意図的な試みなのかはわからないし、ましてやそれが読者にたいする配慮の産物だとは到底思われない。けれど、彼の物語に強いられた省略のようなものは感じないし、構成は考え抜かれている。

この小説の主人公は、架空の女性作家エリザベス・コステロであり、彼女が文学賞を受賞してアメリカで講演する話や、豪華クルーズ船でトークをする話などが、テクスト前半に置かれている。これらはリアリズム的な物語で、現代文学の生産をめぐる裏話のようなところがあり、アカデミズムや商業主義が批判にさらされる一方で、過去の話題作をネタにして自らを商品化するポストコロニアル作家の態度――彼女自身も、不本意ながら、そのような回路に組み込まれ、その恩恵をこうむっていることに気がつかざるをえない――が問い質されていく。

その一方で、『エリザベス・コステロ』は家族の物語でもある。コステロは2回離婚し、2人子どもがいる。作家業に没頭して母親らしいことをしてくれなかったことを恨む息子は、ずっと母の小説を読まずに生きてきたが、あるときふとしたことから彼女の作品を手に取り、そして、小説家としてのコステロに感服させられてしまう。そしていまや、彼女のマネージャーやエージェントとして、講演旅行に付き添う。しかし、母子の和解が描かれるというわけではない。息子の語りと母の語りは並置されるだけで、それらを統合する第3の上位の視点は存在しない。

同じことが、コステロの姉との関係にも当てはまる。シスターを務める姉が名誉学位を授かることになり、その式典に出席するが、やはりこことでもふたりの言葉はすれちがうばかりである。姉の言葉は式典のスピーチとしてテクストに書き込まれ、コステロの反応は、差し出されることのなかった手紙として小説にはめ込まれるだけだ。

小説の主人公はまちがいなくエリザベス・コステロではあるのだけれど、かといって、彼女の内面を掘り下げていくことが、彼女を真正なるキャラクターとして描き出していくことが、このテクストの目指すところだとも思えない。クッツェー自身が投影されている部分は少なからずあるはずだが、かといって、彼女がクッツェーの代弁者というわけでもないだろう。コステロはいわば問い質す媒介者であり、何かしらの意見や思想を体現する主体ではないからだ。

それがもっとも顕著に現れるのは、本小説のクライマックスをなす「門前に」と題された章だ。リアリズム的に進んできたテクストは、ここで突如として、寓話的世界に変転する。コステロは、カフカエスク Kafkaesque な世界に迷い込む。門を開いてもらうために、みずからの信念を裁判官たちのまえで宣言することを求められ、彼女は困惑する。なぜなら、彼女にしてみれば、小説家は、「見えないものの秘書 secretary of the invisible」であって、何かを積極的に信じるものではないからだ。信じない unbelieve のではなく、信じることを信じない disbelieve のが、小説家の成すべきこと calling であると考えるからだ。

しかし、それで納得する裁判官たちではない。カフカのKのふんぎりのつかない無力感に苛立つコステロではあるが、彼女もまた、絶対的な拒否というよりも終わることのない延期と永遠の宙吊りのなか、幼年時代を過ごしたダルガノン河の干潟の蛙たちを信じると述べる。なぜなら、蛙たちは彼女の存在を信じないからである。彼女が信じることができるのは、彼女にたいして無関心なものでしかない。

関係のないもの、相互性のないもの、繋がりのないものを、それにもかかわらず、聞き取ろうとすること、書き取ろうとすること。責任がないところで、身勝手に責任を引き受けること。それはどこか狂っている営為なのかもしれない。

『エリザベス・コステロ』は、カフカ的な幻想世界――そこでは、誰もが自国語で話しているらしいにもかかわらず、コミュニケーションが成立してしまう世界、紋切型で織りなされた特異な無色透明な世界――にさまよい、そこで切断されたように終わるのかと思いきや、さらに先がある。ホフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』からの一節が挿入され、小さな蛙という生命あるものを信じると宣言したコステロに応答するかのように、生命なき被造物をも愛するという態度が提出される。

小説の最後を飾るのは、『チャンドス卿の手紙』が描くことなかった裏面である。ホフマンスタールの『チャンドス卿の手紙』は、チャンドス卿という架空の人物が、フランシス・ベーコンという実在の人物に宛てた手紙という体裁のテクストだが、『エリザベス・コステロ』の最終章「追伸」は、チャンドス卿夫人――彼女は、なんとも示唆的なことに、エリザベスという名を持っているが、はたして彼女がコステロとどのような関係を持つのかという問いにたいする答えは最後まで与えられない――がベーコンに宛てた手紙になる。

エリザベス・コステロは、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の最終章のメインキャラクターであるモリー・ブルームを題材とした小説『エクルズ通りの家』で称賛を浴びた作家であるという設定になっているわけだけれど、それが、ここでも繰り返されているといっていい。男性作家が創作した男性主人公たちの傍らにたたずむ女性キャラクターたちに声を与えること。

しかし、そうした作業を、男性作家であるクッツェーが、コステロという架空の女性作家をとおして行っていることこに、『エリザベス・コステロ』のひねりがある。そこに、クッツェーという作家の一筋縄ではいかないところがある。

 

とはいえ、小説としてこれが面白いのかと問われると、返答に窮するところでもある。『恥辱』にそなわっているような力強い揺さぶりは、たしかにここにもあるが、知的なベールに何重にもくるまれているせいで、直接的に訴えかけてくるところは弱いともいえる。繊細すぎるとか、衒学的すぎるというわけではないが――とはいえ、そういうところがないとは言わない――やや構えすぎたきらいがないわけではない。

鴻巣の翻訳は、正直、微妙。誤訳とまではいわないが、ことごとく勘所を外しているような感触がある。全体のトーンの設定がズレているように感じる。