うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

2020-03-01から1ヶ月間の記事一覧

クラフツマンシップを突き詰める:反スペクタクル的なライナーの指揮

指揮者はかつて、転職してなるものだった。オペラのような劇場付きの指揮者は別として、すくなくとも純粋器楽の指揮者は、キャリアの最初から目指すものではなかった。指揮者は兼業的なものだった。 だからなのか、20世紀の初頭から中頃にかけての指揮者は、…

シリアスはコメディに、コメディはシリアスに:非凡に中庸なフリッチャイの無時代的『ドン・ジョバンニ』

無国籍な演奏。フリッチャイのモーツァルトのオペラ録音を聞いていると、そんな言葉が頭に浮かぶ。とくに『ドン・ジョバンニ』。ハンガリーの指揮者が、ドイツの放送オケと、ドイツ系のキャストとともに、イタリア人台本作家がイタリア語やフランス語の種本…

神と「かのように」をともに信じる:遠藤周作『メナム河の日本人』遠藤周作全集9巻

あのお声が忘れられませぬ。今一度、そのお顔を微笑まれて……お声をかけてくださいまし。山田長政、と。 だが秩序を司る者、政をする者は、かのように生きねばならぬ。なぜなら、この秩序とは、かのようにであるからだ。 わからぬものゆえ、人が信じるのでは…

繰り返しに耐える一回性:フルトヴェングラーのスタジオ録音

複製技術時代の到来とともに、演奏家はそれまで不可能だった自己意識を獲得することになるが、それはもしかすると、強いられたものでしかなかったと言うべきかもしれない。 オスカー・ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』に添えた有名な序文のなかで、「リ…

翻訳語考。Social distancingは「人ごみを避ける」か?

翻訳語考。Social distancingの適切な日本語訳は何だろうかとふと考えてしまう。「人ごみを避ける」という訳がおそらくもっとも自然だろうし、この表現が広く使われているように思う(social distancingの訳語として使われているのかどうかはわからないが)…

複製技術時代の音楽の美しい弾み方:トスカニーニのワーグナー

リズムの弾力性は肉体的な衰えと密接に絡んでいるのかもしれない。トスカニーニの戦前と戦後の録音を聞きながら、そんなことを考えてしまう。一般に流布している戦後の録音はリズムが硬い。叩きつけるようなアタックと、息苦しくなるほど突進していくテンポ…

贈与を信じたいという欲望(レヴィ=ストロース「火あぶりにされたサンタクロール」)

"Les explications par survivance sont toujours incomplètes; car les coutumes ne disparaissent ni ne survivent sans raison. Quand elles subsistent, la cause s’en trouve moins dans la viscosité historique que dans la permanence d’une fonctio…

普通にやることの不自然さ:クリップスの自然体

音を合わせることはアンサンブルの基本中の基本ではあるけれども、どのようなバランスで、どのようなニュアンスで合わさせるかは、千差万別だ。それに、縦の線を合わせることをあえて意識させないというやり方さえありえる。 その究極的な形態は、合わせなけ…

感傷なきロマンティシズム:ブーレーズの身体なき純粋な響き

ある特定の楽器群を響かせるのが異様に上手い指揮者がたまにいる。奏者からの転向組の場合、それはよくわかる。ヴァイオリン弾きのマリナーやヴェーグが弦楽器をリッチに響かせるのが上手かったり、オーボエ吹きのホリガーが管楽器の息遣いを生かすのが上手…

別の音程で、別の声で:エネスクのバッハの特異性

エネスクのバッハの無伴奏の初出レコードは本当に異常に高価なコレクターズ・アイテムだと言うが、幸いなことに今はいくつも優れた復刻CDがあって安価で手に入るのだけれど、現代の聴者からするとまずなにより面食らうのは、外していると感じられるほど独特…

唯一者(グリッサン『ラマンタンの入江』)

「唯一であるということは、<唯一者>を創始するものではなく、なににもまして無限の中で自己をとらえることである。」(グリッサン『ラマンタンの入江』46頁)

偶数と奇数を重ね合わせる:ドホナーニのリズムの合い方

ハンガリーの音楽家たちには共通した特質があると言うのはあまりに大雑把な一般化すぎて、そんな粗雑な議論をする自分に我ながら呆れてしまうけれど、乾いた厳しさのようなものがあるような気がするという自分の感覚を偽ることはできない。 冷たさではないし…

楽譜のなかで完結した音ではなく、空間に開かれた音響を:ミカエル・レヴィナスのピアノ

ミカエル・レヴィナスのピアノ録音を初めて聞いたとき、彼があの有名な哲学者エマニュエル・レヴィナスの息子であることを知っていたのかどうか、いまとなってはもう思いだせない。定かではない記憶を無理やり探ってみるけれど、やはり確実なことはわからな…

音の運動に身体が感応する:ピリオド楽器の音楽の身振り

ピリオド楽器による演奏がすべてそうだというつもりはないけれど、ピリオド楽器は身振りを音化しているのだと思う。音でダンスし、音楽を演奏するという行為それ自体を舞いに変える、そんなふうに言ってみてもいいかもしれない。 それは指揮者の身体の動きを…

禅化されたロマン派:ツェンダーの皮肉なき相対化

なぜそんなことが可能なのか、いまだによくわからないのだけれど、一聴しただけですぐにそれとわかる独自の響きを持っている指揮者がいる。昨年亡くなったハンス・ツェンダーはそうした特異な能力を備えていた指揮者だった。 彼の音楽にいつでもこだましてい…

時代を超越する:ハンス・ロスバウトの反時代性

ハンス・ロスバウトについて書いてみたい。 ロスバウトが半世紀以上前に指揮した録音を聞いてまず思うのはその驚くほど瑞々しい現代性だ。まったく古臭くないし、まったく古びていない。ラモーであれ、グルックであれ、モーツァルトであれ、ブルックナーであ…