うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

神と「かのように」をともに信じる:遠藤周作『メナム河の日本人』遠藤周作全集9巻

あのお声が忘れられませぬ。今一度、そのお顔を微笑まれて……お声をかけてくださいまし。山田長政、と。

だが秩序を司る者、政をする者は、かのように生きねばならぬ。なぜなら、この秩序とは、かのようにであるからだ。

わからぬものゆえ、人が信じるのではございませぬか

 

遠藤周作はここで、日本の切支丹という主題物から、「普遍的な」という意味でのカトリックな物語を紡ぎ出している。棄教、神の否認の問題だ。

一方にあるのは、日本史における特殊な問題だ。16世紀におけるキリスト教の伝播、貿易という利と引き換えに布教を認められるという蜜月期間、そして、徹底的な宗教弾圧。そうした困難な状況のなかで浮上してくる「転ぶ」こと。死か棄教か、死か裏切りか。どちらを選んでも死につながる絶対的な二者択一――世俗の死か、宗教の死か――を前にして、我が身可愛さから、心を裏切ることを選ぶ。それは宗教を選べない臆病さでもあれば、自らに突き付けられた死を誰か別の切支丹に押し付けることでもある。

生き残ることは、みじめな、自らに恥ずかしい生を生きることにほかならない。単なる罪ならば、償うことも可能かもしれない。しかし、神を捨てることは、たとえ一度のことであれ、たとえ現世的な要求に迫られてのことであれ、決して取り返しがつかないだろう。棄教は不可逆的であり、絶対に消えない烙印を心のうえに残すだろう。だから、あれほど死を恐れて選んだ生であるというのに、もはや切支丹を名乗ることすらできない状況にあって、生の歓びはない*1

しかし、他方には、キリスト教の根幹にかかわる問題がある。宗教弾圧の問題であり、神の否認の問題だ。そしてそれは、歴史的な問題にとどまるものではない。キリスト教の根幹に、神の否認という裏切りのモメントが深く刻み込まれている。しかも、三重の意味で。ユダというあからさまな裏切り者だけではなく、イエスの死後に教団を率いることになるペテロもまた、三度イエスを否認する。いや、十字架にかけられたイエスでさえ、神に、なぜわたしを見捨てられるのか、と自問する。神を疑うこと、神を拒むこと、神を棄てること――そこから生まれてくるのは、根源的な罪の意識であり、罪深さこそが常態となってしまう。*2日本の切支丹の転びは、この意味で、きわめてカトリック的であり、そこに遠藤の文学の深さと普遍性がある。

遠藤の物語がまずなにより文学であって、宗教(だけ)ではないのは、遠藤が、カトリックの問題を、それよりもさらに大きな問題へと開いていくからではないだろうか。こう言ってみてもいい。遠藤のテクストは、究極的には、この絶対的な二律背反状態に解答を与えていないのであり、それゆえ、わたしたちひとりひとりが、遠藤のテクストを道しるべとして、この問題にみずから向き合わねばならないのだ、と。

 

苦しみを知る神

生命と信仰、脅しに屈することと殉教することが、『メナム河の日本人』の舞台であるタイはアユタヤの日本人町の亡命日本人たちの心理的態度の深いところを規定している。嘉助はバテレンの居場所をばらすことで命をつないだが、もはや切支丹を名乗ることができなくなっている。しかし、ローマに学び、熱病に体を侵されながらも、なんとしても日本に帰って布教の道に入ろうとしているペトロ岐部は、けっして嘉助を責めることはないし、ましてや、殉教すべきであったなどとは言わない。

ペトロ岐部が語るのは、怒れる神でもなければ、罰する神でもない。だが、赦す神というわけでもない。それはむしろ、寄り添い、理解する神である。

ペトロ岐部 いいか、嘉助殿。神さまはな、お前さまのように己がつまずきに泣く者のためにおられるのだ。もし日本の転び者たちが、皆、お前さまのように我と我が身をそのように責め苛んでいるならば……私は尚更、日本に戻りたい。戻って、神さまは罰したり裁いたりなさるために在すのではない。神さまは転び者の苦しみも心底知っておられると告げに行かねばならぬ。(219頁)

その言葉にたいして、女を殺めて日本を逃れてきた茂吉、マカオに売られた女である松と暮らし、「神も仏もいりませぬ」と言う茂吉が、「ふしぎな神父さまじゃな、お前さまは」と答えると、ペトロ岐部は笑いながら続ける。

ペトロ岐部 (笑って)私はただこの十年の旅ののち、人間の哀しみがどんなものか、やっとわかった愚かな男だ。(219頁)

だから、遠藤の世界観=宗教観の根底にあるのは、罪という消せない烙印というよりは、その罪を犯すに至ってしまった愚かさであると言ったほうがいいのかもしれない。

問題の所在が微妙にずれる。もし心が問題であるのなら、もし犯した罪を悔いることができるのなら、そして、もしすべての「哀しみ」がわたしたちのどうしようもない本源的な「愚かさ」にあるのだとしたら、それはまだ救うことができるのかもしれない。罪それ自体は消えないとしても、罪にたいする罪悪感は、何か別のものに変わるかもしれない。わたしが苦しんでいることを神が知っていることをわたしが知るとしたら。

しかし、「神が知っていること」を確証する手立てはあるのだろうか。

 

義と利と情

『メナム河の日本人』は、義と利と情の対立で出来ている。

タイの王室の相続――先王の弟のシー・シン親王、前王妃の娘のスリヨタイ姫、現王妃の息子のチェト・ター王子、――をめぐる宮廷政治が一方にある。親王派の大臣たちと、実子である王子を王位につけようと画策する王妃派がいる。そのなかで苦悩し、暗躍するのは、宰相のクンサワットである。追放という憂き目にあっていたところを王妃に拾ってもらった彼は、王妃にたいする義理という情がある。しかし、政治家としての彼には、法の正義という秩序にたいする忠誠がある。

そこに、山田長政が絡んでくる。かれは日本人町という利のために動くが、クンサワットにたいする義理にも突き動かされている。しかクンサワットが自ら王室を掌握するという黒い野心を抱えているのにたいして、長政の心の奥底にあるのは、先の王妃から生まれた子である王女――幼いころから育てくれた乳母が、現王妃にたいして無礼な言葉を吐いたがゆえ、大王の逆鱗に触れ、首をはねられてからというもの、言葉をはなせなくなってしまったスリヨタイ姫――にたいする情である。

 

義は概念のため、利は集団のために、情は他人のために闘うことである。

 

クンサワットにしてみれば、相続争いは、情の世界ではなく、秩序の安寧のための解決されなければならないものである。「私は法を曲げるのは嫌だ。法は守らねばならぬ。でなければ王宮の秩序が乱れてしまう」(214‐15頁)。だからこそ、大臣たちを裏切ることで王子を王位につけることに成功した彼は、法の命じるところにしたがって、親王に罰を与え、命を奪う。

戯曲のなかでもっともマキャヴェリ*3であるクンサワットは、情を、義によって偽装した利によって抑え込むだろう。彼にしてみれば、日本人たちの情に流されやすいところは、共感の対象ではなく、操りやすさでしかない。クンサワットの最終的な目的は、王位簒奪であり、そのためにすべての手管が効果的に利用されることになる。そして彼は最後にその望みをかなえるだろう。

 

卑しい身分から成りあがった山田長政は、利によって動くと吹聴している。だから彼は利ではないもの、目には見えないものを大切にしているペトロ岐部にたいして、ほとんど生理的なまでの反感を表明してしまう。

ペトロ岐部 神のなさることは眼では見えることではございますまい。

長政 聞いたか。今の言葉を。神がいるといっておきながら、都合が悪くなるとそようなうまいことを言ってごまかす。お前たちは手をよごさぬ。たしかに俺はこの手をよごして生きてきた。だがこの人間界で善きことをなすためには泥のなかに手を入れねばならぬのだ。とにかく俺は善いことをやっているのだ。

ペトロ岐部 どのような善いことを。

長政 日本人町の者たちがどれだけ倖せになれたか分からんのか……。(233頁) 

彼にとっての一大関心事は日本人町の安全や幸福であり、そのために彼は自らの「手をよごして」きたのだった。利は汚れたものかもしれないが、自分が汚れることで、自分たちのためになることができるのである。利には、自己犠牲を求めるものもある。そして長政が目指す利とは、まさにそうしたものだ。

 

日本人町の長老たちは、独断専横的な長政を疎んじながら、長政と同じく日本人町の利のために、ある意味では、利のためだけに動く。彼らもまた、クンサワットと同じように、さまざまな手管をつくす。しかし、長政と同じように、長老たちもまた、クンサワットに裏切られるだろう。戯曲の最後で、日本人町は壊滅し、長老たちもみな殺されたことが告げられる。

利で動く長老たちですらそうなのだから、義や情にも動かされる人間である長政では、黒い野心を秘めたクンサワットの相手にならない。クンサワットに義理立てするのは、日本人町のためであると長政は思う。しかし、長政が究極的に目指す利は、おそらく、長老たちのせせこましい(とはいえ、まったくよく理解できる)利には収まらないものだろう。なぜなら、それは義でも利でもない、情に近いものであるからだ。それは彼の内奥からわいてくる願いであり、同胞のためではあるが、いまここにいる同胞のためというよりは、いまだない日本人――異国の地に根を下ろした日本人――のためのものである。

長政 [クンサワットを助けたのは]義のためでもありましょう。私は真実、あなたの忠義に心動いたのだ。しかし利のためもある。私たちはこのアユタヤでは根なし草の日本人だ。正直、利もほしい。あなたは義を尽し、日本人はそのあなたの義を助けて利も得る。それでよいではございませぬか。

クンサワット この上何がほしいのだ、日本人たちは。

長政 一つ、リゴールの土地を日本人にそのままくだされ。二つ、その土地で貿易をやることを認めて頂こう。根なし草の私たちは、そこに小さな国を作りたいのだ……日本人の国を……日本人だけの国を……。(勝ちほこって笑う)(241頁) 

だから長政は、クンサワットを利用しているつもりで、最終的には、利がものをいう闘いに敗れるだろう。長政はクンサワットの道具にされてしまうだろう。

王妃にたいする情という別の情、日本人の国という究極的には現世的なものよりもはるかに深い情が、最終的に長政の死を招く。

 

神と情、または神から情へ

このようにまとめてみてもいい。義は、法であれ秩序であれ、義理であれ負い目であれ、なにかしらの原理原則にもとづくものである。それは個を越えるものであり、個には手出しのできないもの、個には変えるこのできない決定済みのものである。それはいわば現世的なものでもあるだろう。なぜなら、ここでいう秩序とは、「いまここ」におけるものだからだ。義と争うことはできない。義には従うしかない。

利は、自分を含む集団のためである。タイの王室の秩序であれ、日本人町の繁栄であれ、それは、自分が所属するもののためだ。たしかに、私益と公益のラインは引きがたい。しかし、どれほど自分の利益のためであれ、そこには、自分だけの利益ではないものがあるだろう。義と利が区別されるのはこの点だ。義がいわば「法」や「正義」といった概念を主語にして語る一方で、利のなかでは「わたしたち」という主語が蠢いている。

しかし、神のこころはそのどちらともはっきり異なる。神はいわば、「あなた」考える。主語ではなく、目的語が浮上してくる。そして目的や理由は後退する。なぜなら、神があなたを考えることに、対称性や相補性はないからだ。わたしがあなたを考えるから、あなたもわたしを考えてくれるのではない。わたしの思惑などとは無関係に、いや、それどころか、わたしの希望に反してでさえ、わたしのことを考える。それが神なのである。

長政 俺は神など考えぬ。

ペトロ岐部 だが、神はいつもあなたのことを考えておられる。

長政 俺は神など求めぬ。

ペトロ岐部 だが、神はあなたを求めておられる。(248頁)

これが一方通行の思いであることは明白だ。押し付けといってもいい。しかしながら、まさにこの神の無償のお節介という次元において、神の問題が情の問題に開かれる。

根なしになった日本人――根を失った辛さを抱きながら、決して故郷には戻れないことを思いながら暮らす故国喪失者たち――が集まってできたようなメナム河沿いの日本人町の辛さを引き合いにだしながら、互いの望郷の念(またはその不在)について議論する長政とペテロ岐部の対話から浮かび上がってくるのは、神と情という「眼では見えない」はずのものが、「いまここ」にすでにあるというパラドクスである。

長政 俺はこのひろい土地のどこかに俺の国をいつか作ってみたいと思うておるのだ。お前はどうだ、岐部。

ペトロ岐部 私も日本をもう自分の国とは思うておりませぬ。私にはもう神の国のほかの国はございませぬ。

長政 神の国。死んだあの世がお前の国か。

ペトロ岐部 いえ、神の国はあの世ではございませぬ。一人一人の人間の心の奥ふかい影のなかに作られます。

長政 (笑って)心の奥深い影のなかに? それではこの俺の胸にも作れるというのか。

ペトロ岐部 はい。

長政 俺の心には、そんな馬鹿げた幻はないぞ。俺と、この日本人町の栄達のために石を一つ一つこの手でつみ重ねていく。それだけが今の俺の心のすべてだ。

ペトロ岐部 すべてではございますまい。もう一つ、人にはお見せにならぬお心もございましょう。

長政 (笑って)小賢しいことを申すな。どこにある。そんなものが。

ペトロ岐部 モレホンどのが、申しておりました。誰も見ておらぬ王宮のなかで長政さまが…王女さまのためにそのお刀で軽業をなされておられたとか。不憫な王女さまのために軽業をならされたのは……栄達のためでも日本人町のためでもございますまい。(220頁)

情は義とも利とも異なる。なるほど、そこで語るのは依然として「わたし」かもしれないが、決して「わたし」のためではない。わたしは、わたしではない誰かのために思い、語り、動く。情が義や利と背反関係にあるわけではない。情と義が協働することもある(クンサワットを助ける長政)、情と利が協働することもある(日本人の国を作りたいという長政の望み)。

しかし、情――心の奥ふかい影のなかにある何か(220頁)――は、それらを越えるだろう。「あなたのため」という利にや義と隣接するものは、結局のところ、わたしからの投影にすぎないかもしれない。それはもしかすると、自分がかなえられなかったものをあなたにはかなえてほしい、という代償作用にすぎないのかもしれない。ルサンチマンの舐め合いなのかもしれない。憐憫のような、悲惨さを梃子にした暗く寂しい共感なのかもしれない。

しかし、「あなたのため」は、必ずしも、「わたしのため」に戻ってはこない。それは一方的に、あなた以外の誰にもひけらかすことなく、あなたのためだけにあなたに思いを寄せることである。それは、一方的な自己犠牲だ。報われることを願わない、それどころか、報われるという考え自体が消失した、彼方のこころである。にもかかわわらず、その彼方は、わたしの心の奥底にすでにある/あった。それは、哀しい内容であるにもかかわらず、その行為それ自体には気高い輝きがある。

王女のことをそのように思う長政は、実は、ペトロ岐部の言うことを成している。長政とペトロ岐部は互いの鏡像であり、互いの影である。ペトロ岐部は自らの心の奥ふかい影のなかの何かをはっきりと認め、それをはっきりとよりどころにして生きるが、長政はそれを認めることができない。なぜなら、それは長政からすると、くだらない、「女々しいこと」(220頁)だからだ。にもかかわらず、殉教という未来が確実に待っていることを承知のうえで日本に帰ろうとしている岐部が、依然として行為の手前にあるとしたら、王女のために刀で軽業を見せる長政は、すでに行為の只中にあり、ペトロ岐部をはるかに先取りしている。

     王女スリヨタイ姫、一人静かにあらわれる。

長政 (王女に気がつき)王女さま。何をしておられます。口がおききになれぬ不憫なお方だ。そのうつくしいお眼であまりに数多くの辛いことを御覧になられたのだ、十七歳のお年で。むかしよく微笑まれた時のお顔を思いだす。(あたりを見まわし誰もいないのを確かめて)王女さま。御自分お一人が……お辛い身の上と思召すな。この長政も子供の折は、王女さまよりもっとみじめな、もっと苦しい身でございましたぞ。輿かきの家に生まれましてな、輿かきの小僧と人々に呼ばれて……。父親が人に罵られ叩かれるのを見た幼い子供の悲しみがおわかりか。その時から長政、身分をこえられぬ日本は嫌じゃと思いました。それで船に乗ってこのアユタヤに参りました。日本人町の使い走りから長老たちの世話をして、ようやく王宮の傭兵になりあがり、憶えておいでか。焼けつくような暑い日、王宮の庭を守っておりますと……。あの時、幼い王女さまは庭で遊んでおられた。長政がこの刀で軽業をお見せすると……微笑まれて可愛いお声で、オーヤ・セーナ・ピモック・山田長政、ありがとう、と。あのお声が忘れられませぬ。今一度、そのお顔を微笑まれて……お声をかけてくださいまし。山田長政、と。(217頁)

ここにある種のハードボイルド的な感性を見ることは正しいだろう。*4恩に報いること。恩をかけたほうはそのように思っていないとしても、恩を受けたほうは、決してそれが返せないものであることを理解したまま、どうにかそれをお返ししようとする。

市場経済的な等価交換はありえない。返礼は過剰に、いや、無限になる。だからこそ、返礼行為は一方的な贈与にならざるをえないのだが、そのとどまることのない思いこそが、情なのだろう。そしてわたしたちは、わたしたちの情をとおして、神に近づく。

 

かのように

情は仮面のむこうの素顔であり、秘められたものである。だからこそ、それは目に見えないし、自ら感じるしかないようなものであるのだけれど、それにたいして、仮面である利はつねに目にみえ、手で触ることができてしまう。

怖ろしいのは、そうした利がもしかしたら仮面にすぎないのではないか、と気づいてしまうときである。それも、利に生きてきたと思ってきた人間がそれに気づくとき、それは自己崩壊を招くだろう。ペトロ岐部に本能的なまでに抵抗してしまう長政の態度である。

しかし他方には、仮面であることを完璧に理解しながら、仮面をあたかも素顔であるかのようにまとい続け、生き続けてきた人間がいる。クンサワットだ。

王女を前にしたクンサワットと長政の対話は、劇のクライマックスを形成する。なぜなら、それは仮面がはがされ、秘されてきた情が表出する瞬間だからである。しかしそれは、激昂のもとに吐かれる衝動の言葉ではないだろう。それは静かであるだけに、いっそう怖ろしい言葉になる。なぜならクワンサットにとっては、仮面が情なのだ。彼はいわば、義を、秩序を、真実を、情のように愛するのである。

クンサワット (静かに)長政殿。それではたった一度だけ申しておこう。たった一度だけ。おそらく生涯、あなたは再びこの言葉を私の口から聞くことはあるまい。あなたは先ほど、私が本心をかくして仮面をかぶって生きていると申された。かのように生きていると言われた。だが秩序を司る者、政をする者は、かのように生きねばならぬ。なぜなら、この秩序とは、かのようにであるからだ。もし政をする者がその本心を他の者に曝け出せば、かのようには失われ、従って秩序は乱れる。わたしは王妃と幼い王とに、あるいは毒を飲ませたかもしれぬ。いや(手をふって)飲ませたとは決して言うてはおらぬ。かもしれぬと申しているのだ。たとえそれが事実であっても、飲ませたとあなたに述べて何になる。事実を語るのを正直と申すのか。だが事実を語って秩序を乱すほど愚かなことはあるまい。事実よりもっと守らねばならぬものがある。それは真実というものだ。真実は多くの場合、仮面を守ることで守られ、支えられるのだ。(253頁)*5

これは詭弁なのだろうか。長政はそう疑いをかける。しかし、いちどは引いた長政であったが、二度目の対決のさいには、とうとうクンサワットの計略に引っかかる。クンサワットの命で、王女が長政の傷に薬を塗る。薬に仕込まれた毒が、長政を倒れさせる。逆上した長政は刀を抜いてクンサワットを問いただそうとするが、それにたいして彼は答える。「仮面も本心もない。私の念頭にあるのは、王宮の秩序と安泰だけだ」(259頁)、と。

 

日本人とは誰か

最期に勝つのは誰なのか。長政の信じてきた「眼に見えるもの」で言えば、クンサワットである。長政が負けたばかりではない。彼があれほど守りたかった、善きことだと思っていた日本人町も、灰燼に帰す。残るのは、王宮の秩序であり、その秩序を司るのはクンサワットである。そして、タイの暑さ。

神のこと、「眼では見えないもの」はどうだろうか。エピローグとも言うべき最後の場、焼け落ちた日本町の跡地を訪れたモレホン――身を持ち崩した神父――が、「切支丹ではない」松に語るところによれば、ペトロ岐部は日本について五日後、密告され、捕えられ、拷問され、しかし転ぶことはなく、火あぶりになったという。

ペトロ岐部は、彼の望みをかなえたと言っていい。ペトロ岐部の運命を予見していた茂吉は、神は裁くものではないというペトロ岐部の議論を受けて、ペトロ岐部に問い返す。「転んだ者の悲しみをよう御存知」である神は、あなたが自分の命のほうを選んで、日本に行かないことを選んだとしても、罰することはないのだろう。ならばなぜ、日本に戻るという自殺行為をあえてお選びになるのか。三日とまたず、捕えられるだろうに、と。

ペトロ岐部 では三日は日本の土の上で生きられる。三日間は教えをひそかに伝えることができる。転んで我と我が身を責めている者たちも慰めることができる。その三日間のために……この十年のローマへの旅が……あったと思えばよいのだ。(233頁)

ペトロ岐部はおそらくこの望みをかなえただろう。そしておそらく、彼は、彼という人間の「生きざまを通して」神を示したのだろう(233頁)。しかし、その代償は、茂吉が予見したとおり、彼の命であった。しかも、拷問という酷い死であった。

根をなくした日本人たちは、たとえば正月の慣習を思いだし、空想のなかで日本の食べ物を思い浮かべ、「くだらん夢」を追って、寂しさをつのらせていた(218頁)。しかし、いまやその日本人たちすらない。残るのは、「日本人町の跡のどこかにまだくすぶっている」(261頁)ペトロ岐部と長政の臭いであり、松の赤子だけである。

長政と初めて対面したとき、ペトロ岐部は長政の立ち居振る舞いや口ぶりに、日本の叔父の自慢話を思いだし、「なつかしい」と思ったのだった。「久しぶりで日本人の汗の臭いを嗅いだような気がします」(209頁)、と。しかしながら、モレホンがそこに嗅ぎ取るのは、日本人の臭いではなく、その臭いのなかにある神である。「神もその跡を私たちと同じように、つらそうに見ておられる気がする」(261頁)

しかしそれは、すべて、神の実在にかかっていることになるのだろうか。「神がいると、どうしてわかる」と長政に詰め寄られたペトロ岐部は、笑いながら「わからぬものゆえ、人が信じるのではございませぬか」(233頁)と答えるばかりだった。

世界のかなめとも言うべきこのセリフが、「(笑って)」とト書きされていることは、きわめて重要であるように思う。すべては「かのように」でしかないかのようだ。しかし、そのかのようにを、笑いながら、積極的にかかげていけるかが、決定的な問いなのだ。

 

救済の可能性を、または、神とかのようにをともに信じる

遠藤周作の文学が、その悲劇性にもかかわらず、つねに不思議なまでの明るさをたたえているのは、彼が、最終的な救済を信じているからというよりも、そのような救済の可能性(それは必ずしも成就しないであろう)を信じているからではないのかという気がしてならない。実際、『メナム河の日本人』において、いちども神は顕現しない。

とはいえ、遠藤の神はおそらく不在の神ではないし、隠れた神でもないだろう。それは遍在する神であり、「一人一人の人間の……生き様を通じて御自分を示される」神である(233頁)。しかし、そこで示される神は、臭いや跡のようなものでしかない。そこから元にたどっていくことはできない。神はどこかの先にいるのではない。もし神がいるのだとしたら、いまここに、すぐそばに、あまりに近すぎて、自分のなかにいて、自分のなかから現れ出ているからこそ、自分には見えないような、そのような「眼では見えない」ものなのだろう。

神がすでにあなたのなかにいて、あなたの苦しみに寄り添い、あなたのことを思っている「かのように」。神と「かのように」という、両立しえないものを同時に抱擁すること。それを現実において保持することは難しいかもしれないが、文学はまさにそうした困難を成し遂げるためにこそある。そして、遠藤がペトロ岐部に神は苦しむあなたをすでに理解しておられると言わせるとき、「かのように」がまるで「かのように」ではないかのように、わたしたちの目の前に現れる。現実においても虚構においても「かのように」でしかないのかもしれない神が、ペトロ岐部の言葉のなかに、たしかなものとして立ち現れる。彼の言葉の内容の真実性(神はいるのか)は証明不可能だとしても、彼の言葉の存在は自明である。だからこそ、わたしたちはその「かのように」を、わたしたちのものとして引き受けることができるだろう。そこに、遠藤周作の暗さと明るさがある。

*1:この「転び者」の問題は、構造的には、「転向者」の問題とパラレルである。

*2:キリスト教のそのようなネガティヴ思考をニーチェは奴隷道徳と呼んだのだった。

*3:正確には、「『君主論』のマキャヴェリ的」と言うべきところだろう。ライオンの力とキツネの知を持つ君主を欲したマキャヴェリと、共和制を讃えたマキャヴェリの二人がいるのだから。

*4:たとえばクラリッサ姫に報いようとするルパン三世のように。

*5:森鴎外の短編「かのように」が思いだされる。