うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

繰り返しに耐える一回性:フルトヴェングラーのスタジオ録音

複製技術時代の到来とともに、演奏家はそれまで不可能だった自己意識を獲得することになるが、それはもしかすると、強いられたものでしかなかったと言うべきかもしれない。

オスカー・ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』に添えた有名な序文のなかで、「リアリズムにたいする19世紀の嫌悪は、鏡に映った自分の姿を見たキャリバンの憤激である」と 述べているけれど、録音はまさに、自分のなかで鳴っている理想の音と、現実に放たれていた実際の音のギャップを否応なく演奏家に痛感させただろう。

怒りではないとしても、困惑の種だったのではないだろうか。事後的に気づかされるのだから。どうにも取返しがつかないにもかかわらず、過去の失敗を思い知らされるのは、どう考えても悦ばしい経験とは言いがたい。

しかし、問題は、そこから何を学ぶかである。フルトヴェングラーにとっては苦いレッスンだったのかもしれないが、それによって彼は録音史上に名を残す名演奏をモノにした。フィルハーモニア管との『トリスタンとイゾルデ』だ。

「振ると面食らう」という日本語の秀逸な語呂合わせが語るように、フルトヴェングラーの指揮の分かりにくさは伝説的であるし、彼の音楽づくりは、アマチュア的とまでは言わないにせよ、どこかディレッタント的なところがある。たとえば、クレッシェンドはアッチェレランドするというようなところが。かの有名な1951年のバイロイトの第九の終結部がその範例だろう。

フルトヴェングラーは録音に積極的ではなかったというが、それは彼が音楽演奏を一回的なものと考えていたからだろう。ベルクソンが時間について考えたのと同じように、フルトヴェングラーは音楽が切断不可能な連続的フローであると考えていたのだと思う。

フルトヴェングラーメトロノーム的な機械的シンクロを軽蔑していたのだと思うし、彼の音楽は縦線を合わせることを意図的に見くびっているように思われるけれども、にもかかわらず、フィル管との『トリスタン』の録音から感じるのは、フルトヴェングラーが極めてリズミックなフレーズ感覚を持っていたという点だ。前奏曲あとのアカペラの歌のあとに続くチェロの旋律は、きつ過ぎるほどに明晰である。それにフルトヴェングラーはドイツ語の歌詞を完全に把握しているのだろう、歌の旋律も、器楽に劣らず、明晰なリズムを刻む。アーティキュレーションの正確な楷書体は、行書や草書と自由に戯れているライブと比べると異質な感じもするが、それと同時に、フルトヴェングラーのフリーハンドの根底には、折り目正しい几帳面さがあったことを明かしてもいる。

フルトヴェングラーの『トリスタン』はクラシック音楽にのめりこむ端緒となったものでもあった。前奏曲のチェロのあの憧れるような旋律の濃密な歌! 終止することなく流れ続けていく無限旋律! 

いろいろな『トリスタン』の録音を聞いてきたけれど、結局、ここに戻ってしまう。フラグスタートの声が衰えているとか、ドイツ語がいまいちとか、ズートハウスのトリスタンが力不足であるとか、フィッシャー=ディースカウのクルヴェナールが上手すぎて鼻につくとか、のちのクレンペラーを思わせるような木管主体の厚みの薄いフィル管が迫力不足だとか、文句を言えばキリがないけれど、強いられた客観性のなかでフルトヴェングラーが成し遂げたものは、いまだに、越えられない壁として録音史上に燦然と輝き続けている。

繰り返しの試聴に耐えるものでありながら、つねに一回的である――そのような不可能性を、フルトヴェングラーはここで成し遂げている。

 

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