うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

カイルベルトの職人芸の人間性:ドイツ・ローカルな指揮者

ヨーゼフ・カイルベルトは洗練をあえて退けるようなことをする。音が割れることもいとわず金管に咆哮させる。終結部では、造形が崩れることもいとわずアッチェレランドをかける。まるで綺麗にまとめることを生理的に拒むかのように。

しかし、この熱血な忘我の突進は、計算づくとまではいわないにせよ、確立された型のようなものでもあるらしい。フルトヴェングラーのような抑えがたい有機性でもなければ、クナッパーツブッシュのような確信犯の悠揚さでもなく、カイルベルト質実剛健たる職人芸として音楽を自然に微妙に崩してくる。

粗さや荒さを芸に昇華させている。

雑というのではない。カイルベルトの音楽は全体的にひじょうに丁寧である。声部はきちんと描き分けられているし、旋律の受け渡しはクリアだ。厚めにとった中音域を中心に、低いところから高いところまで、ムラなく音を重ねている。透明度には欠けるが、風通しはよい。気取りがなく、骨太で無骨だが、色気はある。甘い旋律からは甘ったるさを抜き、ほどよい甘さを存分に堪能させてくれる。

わざとらしさがないのに、すみずみまでゆきとどいている。

彼の音楽がきわめて人間臭いのは、機械的な精度が軽蔑されているからだろうか。正確だが、過度に神経質ではない。丁寧だが、過剰なまでの気配りはない。どこか適当なのだ。職人芸的なフリーハンドは、細部をきっちりとはめこみながら、圧倒的におおらかである。細部をケアしながら、あくまで大局的に音楽を作っている。

 

それでいて、カイルベルトの音楽は小ぶりだ。スピードはやや速めで、すこし落ち着きがない。冷めた悠然さに浸るのではなく、熱い衝動的なものに正直であろうとしているかのように。フットワークの軽いカイルベルトの音楽は、クリシェ的なドイツ風の構築的演奏――落ち着いた低弦を基調とするピラミッド型の巨大構造――とはちがう。

たしかに低弦が前面に押し出されているところはあるけれども、機動力が高い。不動であることよりも、動的であることが尊ばれている。

 

カイルベルトの手にかかると、ワーグナーブルックナーシュトラウスも、みんな中規模な作品に聞こえてくるから不思議だ。音楽がせせこましくなっているからではなく、指揮者のつかみかたが大きいからだろう。並みの指揮者の手からは零れ落ちてしまいそうなものが、カイルベルトの大きな手のひらのなかに完全に収まるのである。

もしかすると、カイルベルトの音楽の基点は、ベートーヴェンでもワーグナーでもなく、その中間に来る前期ロマン派にあるのではないかという気がする。彼がベルリン・フィルと録音したウェーバーの『魔弾の射手』は、依然として、範例的なものである。時代がかったところがないわけではないし、歌手の歌唱スタイルはオールディーなところがある。しかし、なぜか過去の遺物には聞こえない。それは、これが、録音された1950年代後半の音楽シーンだけではなく、19世紀初頭にはじまるドイツの音楽の系譜の体現であり、おそらく、その終焉を記念するものだからかもしれない。

1950年代のバイロイト音楽祭の常連であり、ザルツブルク音楽祭に客演し、晩年には来日してNHK交響楽団を振っていたカイルベルトをドイツ・ローカルな指揮者と言い切るのはためらわれるけれど、オペラ・ハウスを主な仕事場とした彼は、地付き音楽家――演奏家だけではなく、聴衆も含めた地域の音楽共同体に所属する存在――だったのではないかという気がする。

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