マレク・ヤノフスキは演奏の速度と音楽の強度を比例関係に持ちこめる珍しい指揮者だ。ヤノフスキは速度を、推進力や運動性ではなく、表現そのものに転化する。
テンポを上げればマスとしての音の凝縮度は高まるが、その一方で、個々の音は痩せてしまいがちだ。そのような要求に応えられる高機能のオーケストラにしたところで、音の重心が浮つき、どこか落ち着かなさが残ってしまう。戦後のトスカニーニとNBCの録音にはそうした傾向があるし、ショルティとシカゴ響のコンビにも少しそのようなニュアンスを感じる。快速テンポが外から強いられたものであるように聞こえてしまうからだ。
しかしヤノフスキの指揮は、速度を、音楽の内的必然性の産物であるかのように響かせる。オーケストラからすればかなりアクロバチックな快速であろうに、寸詰まり感がない。むしろもっと速度を上げてほしいという気すら抱かせてくれる。
速度が楽曲の密度を高め、響きの濃度を高め、旋律の運動性を高めていく。音楽が内側から盛り上がっていく。速度が快楽になる。
しかし、ヤノフスキの速度には、逆説的ながら、スピードに依存しない質的なカタルシスがある。ワルシャワ生まれのポーランド系だが、ドイツ育ちであり、ウォルフガング・サヴァリッシュに指揮を学んでいる。ワーグナーをはじめとする独墺系のスペシャリストである一方で、フランス近代音楽もレパートリーに収めており、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めてもいた。スペシャリストというには懐が深いけれども、ジェネラリストといえるほどに幅が広いわけでもない。
ヤノフスキは優れたトレーナーであるらしい。オーケストラに気持ちよく音を出させることができるタイプだろう。奏者を委縮させるのではなく、うまくノセることで、加速的な推進力を引き出す。スケールは小さくなるが、凝縮度が高い。
やや強引なところはあるが、音楽が停滞しない。それはおそらく、ある一定のクオリティを死守するための経験則的な方法論なのだろう。しかしそれは、いまや、オールディーな手法なのかもしれない。
前世紀的な職人的音楽家。音楽理論や企画力といった華やかなセンスではなく、愚直なまでのスキルによって、音楽を作っている。彼の音楽は何よりも音の実在感によって、音の流れの迫力や威力によって成り立っている。音の背後に何かがあるわけではない。音そのものが、音楽そのものがある。
ヤノフスキが、古典オペラの現代的読み替えに反感を抱き、オペラハウスから遠ざかり、ベルリン放送交響楽団と演奏会形式でワーグナーの主要楽劇全録音という偉業を成し遂げたのは、よくわかる気がする。ヤノフスキの音楽の運動性の高いテンポは、きわめて現代的ではあるけれど、彼の目指す内的に充実した質実剛健な音楽は、反時代的でもある。
音楽に意味を求めていないようなところがある。彼の音楽は音楽以外の何かを表現していない。音楽それ自体を速度によって出現させる、それは、手段と目的を融合するようなものだ。手段をそのまま目的に昇華させている。