うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

空虚な巨大さ:アイロニストとしてのロリン・マゼール

ロリン・マゼールの作り出す音楽の空虚な巨大さはひたすら不気味だ。全体の構えは大きく、音は停滞を嫌うかのように勢いよく流れていく。引き締まった硬めのリズムが小気味よい。それでいて、柔軟さに欠けているわけでもなく、しなやかさもある。抒情的な歌謡性もある。欠けているところはない。おかしなところもない。にもかかわらず、音響的には完璧に近い充実が、音楽的な充実につながっていない。そこがなんとも奇妙である。

マゼールのバトン・テクニックは怖ろしく的確だ。つねに実音の少し先の未来を空間にフィジカルに描き出す。すべてをコントロールするというよりも、入りをとくにはっきりさせることで、奏者を自らの方向に誘導しているようなところがある。

だから、歌い回しや音色の作り込みについては、奏者の自発性に任せているような部分もあって、わりと無造作な感じもする。暗譜力はすさまじいものだったとどこかで読んだ記憶がある。ことさら細部を強調するようなことはしないが、全体のバランス感覚が抜きん出ている。マゼールには音楽のアーキテクチャが、かたちとしてはっきり見えているのだろう。それも、静止画としてではなく、流動する動画としての見取り図が。

明晰なリズム感、確かなフレーズ感覚、どれだけ音が増えてきても冷静にさばくことができる莫大なキャパシティ、そして、低音から高音までバランスよく響かせることができる俯瞰的な耳。彼に欠けているものはおそらくほとんどない。にもかかわらず、マゼールの指揮する音楽ほど虚ろに響くものもない。

どこまでも外面的で、表層的で、内面を持たない――けれども、中身のなさを理由にマゼールを批判するのは完全に的を外している。物理的な音響としては充実しているにもかかわらず、どこか虚ろである音楽という特異さこそ、究極的なアイロニストであるマゼールの指揮が目指すところではないだろうか。

音楽一家に1930年に生まれたマゼールは完全な神童であり、8歳にして指揮を始め、11歳にしてトスカニーニのオーケストラであったNBC交響楽団を振っている。彼の指揮の先生であるロシア系のヴラディミール・バカレイニコフは、シンシナティ交響楽団音楽監督であったフリッツ・ライナーの招きで同オーケストラの副指揮者兼主席ヴィオラ奏者となり、ハリウッドに移り住んでクレンペラー時代のLAフィルの副指揮者になり、その後は、ピッツバーグ交響楽団音楽監督に就任したライナーの招きでふたたび彼の助手を務めた人物だった。メトロポリタン歌劇場で20年にわたって第一ヴァイオリンを務めたという祖父はユダヤウクライナ人、父は声楽家で、声楽とピアノの教師。フランス生まれでアメリカ育ちのマゼールの音楽のバックボーンには、ロシア的なものとハンガリー的なものがあると言っていいだろう。

多様なバックグラウンドを持つマゼールは、カテゴリー化を拒むところがある。バイオリンも弾くし、作曲もするマゼールの指揮レパートリーはかなり広かったし、VPOとはチャイコフスキーシベリウスマーラーを、クリーブランドとはベートーヴェンブラームス交響曲全集を録音しているし、バイロイト音楽祭に若くして登場し、『指環』全曲を振り、のちには声なしのオーケストラ版に『指環』を編曲してもいるが、だからといって彼をワーグナーの専門家と見なす人はいないだろう。ディスコグラフィ的にはバロックが手薄で、このクラスの指揮者にしてはバッハの録音がない(と思う)のが珍しいところではある。

録音会社に恵まれなかった部分もあるかもしれない。最初期のヨーロッパでの録音はドイツグラモフォン、60‐70年代はデッカ、80‐90年代はSony、それ以降はグラモフォンと、契約会社が変わっており、たとえばハイティンクのように、ひとつの会社ひとつのオケとの長期にわたる仕事というものがない。

オーケストラにも恵まれているようで恵まれていない。ウィーン国立歌劇場の総監督にはなったが、任期は短く、ベルリンフィル音楽監督の座はアバドに奪われた。主流にすこしのあいだ身を置くことができた後で、マゼールはつねに傍流に逸れていってしまう。おそらく、彼にとっては、不本意ながら。

だからこそ、と言うのは論理の飛躍があるけれど、マゼールの音楽がアイロニー的なものの化身であることは、やはりまちがいないように思う。マゼールの音楽にストレートな感情移入はありえない。たとえば、カラヤンナルシシズムは、どれほどフェイクであれ、どれほど演技的なものであれ、依然として、没入を前提とした態度であり、だからこそ、カラヤンが『パルジファル』の録音時に涙したというエピソードはいかにもありそうなことのように聞こえる。

しかし、マゼールにはそのような没我の瞬間はありえないように思う。どれほど音楽が昂揚しようと、マゼールの意識の過半数はその外部で冷めている。音だけを聞いていると、ずいぶん熱血だと思うけれど、音を統率するもうひとつ上の審級に耳を傾けると、決して熱することのない永久凍土のような理性の硬質な響きが聞こえてくる。

それはもはや分裂といっていい事態だ。抒情的な歌い回しと、理性的なアーキテクチャーが、いわば相互に分離したままひとつの主体において共存させられている。

マゼールの指揮は、究極的には、中央集権的なものである。独裁的ではない。個々の細部のニュアンスまでコントロールしようとはしない。しかし、それらをどのタイミングで、どのように配置するのかについて、マゼールはどこか奏者を信用していないのではないかという気もする。奏者同士でコンタクトを取らせるよりも、個々の奏者と指揮者のあいだに一対一のコミュニケーション回路を開き、それを彼自身のなかで整理してしまう。その意味で、マゼールの音楽は室内楽的なアンサンブルからほど遠い。

マゼールの音楽において響きが溶け合わないのは、そういう理由ではないかという気がする。隈取は深く、輪郭線がはっきりしているが、倍音が共鳴し合って音が何倍にも膨れ上がっていく感じがない。

マゼールの音楽は、線の太さで空間を埋めようとする試みだが、彼自身が基本的な枠組みがあまりにも大きすぎて、不必要なまでの余白が残ってしまうのだけれど、そのような大きな隙間が音楽には転化しないところに、そのような隙間を雑に塗りつぶすことをよしとしないところに、マゼールの特異な美意識があるように思う。余白が、たんなる余白として残る。巨大なキャンバスと、それを埋め尽くすことがないクリアで強い線。マゼールの音楽ほどつまらなくおもしろいものもない。

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