うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

踊るように弾き、弾くように踊る:Terje TønnesenとNorwegian Chamber Orchestraの楽しい音

室内オーケストラは中途半端な存在だ。フルオケの縮小版か、四重奏の拡大版か。全体はどう組織されるのか。指揮者のごとき1つの統合点を持つのか。各パートのリーダーをハブとする階層構造か。

Terje Tønnesenが芸術監督を務めた時期のNorwegian Chamber Orchestraはそのどれにも当てはまらない。Tønnesenはソリストのヴァイオリン奏者。芸術監督でコンサートマスター。演奏中、彼はオーケストラ全員の参照点ではあり、彼は指揮者的な役割を担っている。けれども、そのような上意下達のツリー構造を持ちながら、オーケストラのメンバーひとりひとりが全体と有機的につながってもいる。不思議な並列状態。

踊るように弾く。弾くことがそのまま踊りになる。クラシック音楽界で弦楽奏者が立って演奏するスタイルが一般的になったのは比較的最近のことだと思う。座ったほうが重心が下がって安定する部分はあるし、長時間の演奏の場合は疲労も軽減されるだろう。しかし、ヴァイオリンやヴィオラソリストで椅子に座って弾く人はほとんどいない。立っているほうが身体の可動域は広がる。体全体で楽器に向き合うことができる。

奏者たちの身体は上下に大きく伸縮し、大きく旋回する。あえてそうしているのではなく、音楽がそのような身体運動を誘発して、その誘いに奏者の身体が気持ちよさそうに応答している。

Tønnesenは魅せることにこだわっているらしい。チャイコフスキーの弦楽セレナーデの映像は、まるで映画のなかのワンシーンのような趣だ。演奏家を大写しにするのではなく、前景を含めて場の全体をカメラに収めるような感じになっているし、色調にしても、たんなる解像度の高さではなく、空気感といったニュアンスを捉えることを優先しているようだ。

もっとも興味深いのは、全員が暗譜で弾いている曲目があること。リヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」シェーンベルクの「浄められた夜」ショスタコーヴィッチの「室内交響曲」。曲調に合わせて青いライトや赤いライトを使うという演出の要請上、暗譜にせざるをえなかったのだとは思う。強いられた暗譜であり、音楽上の必要性から暗譜にしたのではないと思う(事実、他のレパートリーではタブレットで楽譜を見ている)。しかし、暗譜の場合、演奏も奏者も、音は楽譜という2次元の制約から解き放たれ、出来事としての音楽のほうに向かうだろう。暗譜のさいの集中度と没入度は比類がない。

音楽的な対話がある。フレーズの受け渡しや掛け合いが、とても親密なのだ。しかし、それ以上に見事なのは、そうしたコミュニケーションが動的で可変的なところだ。誰かが不動の中心というわけではない。中心は、音楽の成り行きに合わせて、絶え間なく移ろう。中心が複数的なのだと言ってもいい。だから対話という「二」を想起させる言葉は的外れかもしれない。ここで起こっているのは、局所的な対話ではなく、全体的な議論なのだ。

それが可能なのは、奏者たちの奏法になにかしらの統一感があり、音の色みや重さが近いからかもしれない。あくまで見た目からの推測ではあるけれど、ヴァイオリンもヴィオラもチェロもコントラバスも、弓を持つ右手がやや開き気味で、弓圧は強すぎない感じではないだろうか(メンバーはかなり多国籍なので、なぜこのあたりがそんなに揃っているのか不思議な感じはする)。

中音域にしても低音域にしても、音が音程以上に軽やかで、旋律のラインがすっと浮かび上がる。だからこそ、パート間のフレーズのコミュニケーションが無理なく前面に出てくる。音楽のフレームはどっしりと安定しているのに、運動性が高い。

指揮者なしの室内オーケストラの例にもれず、解釈的な旨みという意味では分が悪いところもある。一聴してすぐわかるようなユニークはない。しかし、その代わりに、全編にわたる上質さがある。音楽という言葉のとおり、楽しい音がある。奏者たちが楽しんで演奏しているのが、互いに親密にコンタクトを取りながら演奏しているのが、目に見えるし、耳にも聞こえる。

変にめかし込んだところはないけれど、密度の濃い、透明なパッション。こういう音楽を日常のなかに持ちたいと思う。