音楽メモ
「警部、ご覧のとおりです。すべてはただの茶番劇、それ以上でもそれ以下でもありません。[Er sieht, Herr Kommissar: das Ganze war halt eine Farce und weiter nichts.]」と、3幕のドタバタ劇のあと、デウス・エクス・マキナのような役割で登場した元帥…
ピアノ奏者や弦楽器奏者や管楽器奏者から指揮者に転向した例となれば、いくらでも思い浮かぶし、兼業してそのどちらでも成功している音楽家の名前をすぐさま挙げることができる。しかし、声楽家から指揮者に転向した事例となると、いろいろと考えてみて、声…
音響のごまかしが一切効かなさそうな NPR の Tiny Desk Concert でこれほどの精度の演奏を繰り広げるのにはまったく驚かされる。そして、これほどまでにアグレッシヴさを、50年近くにわたる活動の最後まで保ち続けたことに心を打たれる。 視覚的情報に頼るの…
20231209@静岡音楽館AOI濱田芳通指揮、アントネッロ、モンテヴェルディ『聖母マリアの夕べの祈り』 宗教を信じない者が西欧クラシック音楽の本丸とも言うべき宗教曲を聞くことの矛盾を、昔からずっと感じていた。だから、いわば世俗的な人間劇を前面に押し出…
ハンス・ロスバウトはとにかく構築力が抜群に高く、バウハウス的なモダニズムとでも言おうか、機能性を徹底的に突き詰めることでそれを音楽性へと転化しているところがある。しかし、そのような構築性を担うのは、きわめて生々しい、抒情的な(しかし、主観…
スマートでスタイリッシュになってしまったグローバルな現代のオーケストラから、こんなにも濃厚な音を引き出せる指揮者がいまだに存在しているとは思わなかった。弦楽器の音が生々しい。倍音よりも実音が鳴り響いているかのよう。蒸留された上澄みだけでは…
カール・シューリヒトの自由闊達な、天衣無縫な指揮は、はたして、どの程度まで彼独自のシンギュラーなスタイルだったのだろうかと考えてしまう。 60年代のコンサートホールに残した一連の録音は、オーケストラの非力さにもかかわらず、そのきらめくのような…
ヴィクトル・デ・サバタの凄さはその軟体的有機性にある。オーケストラの音の組み立て方は、大雑把に言えば、縦線で瞬間的に合わせるか、横線の流れとして合わせるかのどちらかだが、サバタのやり方はそのどちらとも言えない。縦線が合っていないわけではな…
テマーソン 音楽は演奏されなくても存在するのでしょうか? ローゼン ええ、存在します。音楽を頭の中で演奏解釈したり、それを耳にすることなく、詩のように読んだりすることができますから。それは、演劇作品を読んだり、その演出を想像したりするのと同様…
峻厳という言葉がギュンター・ヴァントほど似合う指揮者はこれまでもこれからも存在しないのではないかという気がしてならない。ヴァントの音楽の鋭さは比類ない。ほとんど人を拒むような、音だけを求めるような、孤高の高貴さ。 1912年生まれのヴァントは21…
1936年のコヴェントガーデンでの伝説的な公演記録から16年が過ぎている。フラグスタートはもう60手前。引退を考えるとまではいかないとしても、最盛期のころのレパートリーを最盛期のように歌うことは、肉体的に厳しくなってきている。 声が重く、暗い。輪郭…
1936年のコヴェントガーデンでの伝説的な公演記録で歌うキルステン・フラグスタートの声はいまだに若い。1895年生まれだから、まだ40歳前半で、キャリア的には最盛期にあると言っていいだろうか。フリッツ・ライナーの折り目正しい楷書体の指揮と相まって、…
昨日の チルギルチンの公演を聞いていくつか考えたこと(YouTube で Chirgilchin 検索するといろいろと音源が出てくる)。 *ユニゾンは斉唱の第一歩なのか司会の巻上によれば、チルギルチンは伝統的なものを引き継ぐ一方で、現代的なアレンジも加えていると…
20221009@グランシップ中ホール・大地 ホーメイという唱法はなんとなくは知っていた。しかし、ひとりでふたつの音を同時に出す技法ということ以上のことは知らなかったし、あえて調べてみようという気にもならないまま、ここまで生きてきた。ロシア連邦トゥ…
Mild und leise なんと穏やかに、静かに、wie er lächelt, 彼は笑っていることか。wie das Auge なんと優し気にあの人はhold er öffnet --- 目を開いていることか——seht ihr's Freunde? 見えるでしょう、あなたたちにも? Seht ihr's nicht? 見えないのです…
歌うとなると、音節は イタリア語が歌いやすいのは、音節が母音で終わる場合がほとんどだからだろう。それとは逆に、ドイツ語は、子音で終わる音節が多い。ということは、1音のなかで、母音部分と子音部分をわけて発音しなければいけなくなるということだ。 …
楽譜を添えて では楽譜を添えてみるとどうなるか。1拍目と3拍目の入りと言葉のアクセントがシンクロしているところは太字の斜体にして、括弧で1拍目か3拍目を明記する。シンコペーションで言葉のアクセントが入ってくる箇所は赤字にする。また、詩行の終わり…
音節で分ける 西洋語は音節に分割できる。音節は、母音を核として、その前後にひとつまたは複数の子音をまとう。たとえば、Liebe は Lie と be の2音節、Tod は1音節の単語になる。 ここで注意したいのは、母音は、レター(綴り)ではなく、サウンド(音)で…
イゾルデは死んでいるのか? 慣習的に「愛の死 Liebestod」と呼ばれるワーグナー『トリスタンとイゾルデ』の最後の部分では、まったく興味深いことに、Liebe も Tod も歌詞には一度も現れない。 Mild und leisewie er lächelt,wie das Augehold er öffnet --…
トスカニーニがフィルハーモニア管弦楽団を振った唯一(だと思う)の録音であるブラームス交響曲全集はたしか2000年代初めにTestamentから発売されて、その当時トスカニーニをよく聞いていたのですぐに渋谷のタワレコに買いにいったはず(もしかしたらHMVだ…
20220903@静岡音楽館AOI クセナキスの音楽はもしかすると、ウェーベルン的と言いたくなるような断片的ブロックを、非有機的なかたちに繋いだような構造になっているのではないかと、譜面をめくる演奏家たちの所作を見ながら初めて思い至った。 アルディッテ…
ピエール・ブーレーズは怠惰を嫌い、創意を愛していた。複雑さを好み、複雑なものを理解し鑑賞するために努力を払わない者を軽蔑していた。 いや、もしかすると、軽蔑していたというよりも、そのような怠け者の心情にたいしてこれっぽっちも共感を抱けなかっ…
インゴ・メッツマッハーにとって音楽はなによりも現象であり、出来事なのかもしれない。音があってその後に音楽が来るのではない。音がつねにすでに音楽なのだ。 こう言ってみてもい。メッツマッハーの考える「音楽」は、ノイズやカオスやサイレンスを含めて…
セミヨン・ビシュコフの音楽のふくよかさは、なかなかありそうでない。彼の鳴らす音は分厚い。厚手の生地に厚手の裏地がついている感じだが、暑苦しくはない。向こうが透けて見えるような軽快さは皆無だが、かといって不透明に濁っているわけではない。音は…
ジェフリー・テイトのワーグナーをずっと聞いてみたいと思っていた。いまはもうネットでは出てこない長文の邦訳インタビューのなかで、1990年代なかばにシャトレ座で振ったワーグナーの『指環』について、イタリア風に旋律を歌わせるワーグナーをやろうとし…
クラウス・マケラを新時代のカラヤンと呼んでみたい誘惑に駆られる。どこまでものびやかで、どこまでもみずみずしい、流線形の抒情性。指揮の身振りが大きく、抉るように前のめりに棒を突き出すかと思えば、見得を切るかのように両腕を大きく振るう。スペク…
弦楽四重奏団は、肉体的な老いによる演奏技術の衰えと、親密な交わりであるがゆえの人間関係の鈍化や深化と、音楽理解や演奏解釈のマンネリ化や円熟とのあいだの折り合いをつけていくのが難しい組織形態ではないだろうか。 うまく老いたカルテットは多くない…
室内オーケストラは中途半端な存在だ。フルオケの縮小版か、四重奏の拡大版か。全体はどう組織されるのか。指揮者のごとき1つの統合点を持つのか。各パートのリーダーをハブとする階層構造か。 Terje Tønnesenが芸術監督を務めた時期のNorwegian Chamber Orc…
弦楽四重奏はとても親密な交換なのであって、精密さを競うものではないということを、Voyager Quartetの演奏によってあらためて思い知らされている。 19世紀後半の量的にも質的にも肥大化するオーケストラは必然的に規律訓練を必要とするものになっていった…
ケント・ナガノの指揮する音楽の魅力がどこにあるのか長いこと理解できないでいた。それどころか、魅力に乏しい指揮者だと思っていた。音楽が直截すぎる。ふくよかさに欠ける。かといって、まっすぐすぎるところが、触れれば切れるような鋭さにまで研ぎ澄ま…