うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

音楽メモ

躍動するリズムの強度、充実した対決の密度、または目の詰まったサイモン・ラトルの音楽

サイモン・ラトルはもうすぐ70歳になろうとしているけれど、彼の作る音楽には若い頃から一貫した特徴がある。硬質でありながら柔軟なリズムの弾み方であり、ミクロなレベルでの高い運動性を、マクロなレベルでの音楽の全体的な強度へと昇華させる手腕だ。内…

ジョージ・ベンヤミンのアマチュアリズム、またはイギリス化されたスペクトル派の音楽

ジョージ・ベンジャミンは決して指揮の巧い人ではない。メシアンに学び、自作のピアノ曲を自演できるほどのピアノの腕前を持つ作曲家であり、専門的な指揮者ではまったくない。とはいえ、現代音楽を専門とするアンサンブルと関係を持ち、ずいぶん指揮台に立…

ブーレーズのふくれっ面のブラームス、または共感しない指揮

ブーレーズとNYPによるブラームスの「ハイドン変奏曲」という動画をYouTubeで見つけたときは「えっ?」と思ったけれど、聞いてみると、たしかに音響バランスは70年代のブーレーズの演奏だ。管楽器のクリアな響き、低弦の運動性、内声の蠢き、リズムの硬質さ…

アラン・アルティノグリュの特異なリズム感覚、または自律的な複層の高次の統合

アラン・アルティノグリュのリズム感覚は何か非常に特殊なものかもしれない。彼の指揮する音楽を聞いていると、各パートにそれぞれ特有のテンポを割り振っており、彼がそのような複層的な時間構造を上位の次元で統合しているのではと思わされる。もちろん、…

クーベリックの多面的屈折、または初期ロマン派の系譜学

久しぶりにラファエル・クーベリックとバイエルン放送響がデジタル録音初期の1980年に録音したモーツァルト後期交響曲集を聞いて「いい演奏だな」としみじみ思ってしまった。ブルーノ・ワルターとコロンビア響やNYPによる1950、60年代のモーツァルトがいまや…

ウェーベルン考。完成した断片、疎外されたテクスチャー、アナログ的手法によるデジタルの表象。

シェーンベルクの音楽が自分にとっては自律した細部の譲らない自己主張から生まれる「軋み」の体験だとすると、ベルクは細密さが過ぎるがゆえにカオスに転落しつつある「複雑性」の体験である。シェーンベルクの音楽がどこか生臭く、青白く、ささくれ立った…

滑らかに溶け合うシェーンベルク:Kohon String Quartet による不思議な再構築

シェーンベルクの音楽には何とも言えない軋みを感じる。旋律の占める要因が高いようには思うが、和声の問題でもある。要するに、音と音がどこか溶け切らず、ぶつかり合ってしまっているように聞こえるのだ。各音の自己主張が強すぎて、誰も譲ろうとしない。…

20240827 近年のアルバン・ベルク上演をいろいろと聴いてみる。

このところずっとベルクの『ルル』と『ヴォツェック』をYouTubeで聞いているのだけれど、昔思っていたのとは裏腹に、実は両者は作曲技法的にかなり連続したものではないかという気がしてきた。どちらも、言ってみれば、『パルジファル』ー『ペレアス』/『フ…

ピーター・マークの誠実で丁寧な音楽、またはローカルな劇場にその身を捧げること

オペラはアンサンブルだ。そこでは歌手とオーケストラと舞台と指揮者が混然一体となり、ひとつの総合的な出来事が姿を見せる。それはまったく当たり前のことではあるけれども、その当たり前のことが、歌劇場が大きくなればなるほど、困難になっていくようで…

ジェイムズ・レヴァインの壮大な空虚さ:移入された伝統への保守的な忠実さ

ジェイムズ・レヴァインのこの壮大な空虚さをどのように評価したらいいのか。 レヴァインの音楽は明晰ではある。音がきれいに鳴っている。見通しがよく、バランスがよく、旋律線がわかりやすく聞こえてくる。 かといって、複雑なものを単純化しているわけで…

20240519 リヒャルト・シュトラウスのオーボエ協奏曲のオーボエ編曲版を聴く。

リヒャルト・シュトラウスの音楽は何で出来ているのだろう。バッハであれば構造、ベートーヴェンやワーグナーやベルクであれば動機展開、モーツァルトやシューベルトであれば旋律、ドビュッシーであれば和声、ストラヴィンスキーであれば拍動と、とりあえず…

20240304 シュトラウス/ホフマンスタール『薔薇の騎士』をドイツ語リブレットを見ながら聴く。

「警部、ご覧のとおりです。すべてはただの茶番劇、それ以上でもそれ以下でもありません。[Er sieht, Herr Kommissar: das Ganze war halt eine Farce und weiter nichts.]」と、3幕のドタバタ劇のあと、デウス・エクス・マキナのような役割で登場した元帥…

歌い舞うバーバラ・ハンニガンの指揮、または音楽を先取りする身体性

ピアノ奏者や弦楽器奏者や管楽器奏者から指揮者に転向した例となれば、いくらでも思い浮かぶし、兼業してそのどちらでも成功している音楽家の名前をすぐさま挙げることができる。しかし、声楽家から指揮者に転向した事例となると、いろいろと考えてみて、声…

最後までロックに、アグレッシヴに:エマーソン四重奏団のアメリカ性

音響のごまかしが一切効かなさそうな NPR の Tiny Desk Concert でこれほどの精度の演奏を繰り広げるのにはまったく驚かされる。そして、これほどまでにアグレッシヴさを、50年近くにわたる活動の最後まで保ち続けたことに心を打たれる。 視覚的情報に頼るの…

20231209@静岡音楽館AOI 濱田芳通指揮、アントネッロ、モンテヴェルディ『聖母マリアの夕べの祈り』を聞きに行く。

20231209@静岡音楽館AOI濱田芳通指揮、アントネッロ、モンテヴェルディ『聖母マリアの夕べの祈り』 宗教を信じない者が西欧クラシック音楽の本丸とも言うべき宗教曲を聞くことの矛盾を、昔からずっと感じていた。だから、いわば世俗的な人間劇を前面に押し出…

ロスバウトの『マ・メール・ロワ』:非フランス的、しかし、ドイツ的というわけでもなく

ハンス・ロスバウトはとにかく構築力が抜群に高く、バウハウス的なモダニズムとでも言おうか、機能性を徹底的に突き詰めることでそれを音楽性へと転化しているところがある。しかし、そのような構築性を担うのは、きわめて生々しい、抒情的な(しかし、主観…

現代化されたオールディー:政治に翻弄されるトゥガン・ソヒエフ

スマートでスタイリッシュになってしまったグローバルな現代のオーケストラから、こんなにも濃厚な音を引き出せる指揮者がいまだに存在しているとは思わなかった。弦楽器の音が生々しい。倍音よりも実音が鳴り響いているかのよう。蒸留された上澄みだけでは…

超時代的な、いまだ来たらぬ未来の音楽:カール・シューリヒトの特異性の歴史性

カール・シューリヒトの自由闊達な、天衣無縫な指揮は、はたして、どの程度まで彼独自のシンギュラーなスタイルだったのだろうかと考えてしまう。 60年代のコンサートホールに残した一連の録音は、オーケストラの非力さにもかかわらず、そのきらめくのような…

ヴィクトル・デ・サバタの軟体的有機性:相続者なきポスト・ロマン主義のドラマ的感性

ヴィクトル・デ・サバタの凄さはその軟体的有機性にある。オーケストラの音の組み立て方は、大雑把に言えば、縦線で瞬間的に合わせるか、横線の流れとして合わせるかのどちらかだが、サバタのやり方はそのどちらとも言えない。縦線が合っていないわけではな…

作曲の仕事を理解すること:チャールズ・ローゼン、キャサリン・テマーソン、笠羽映子訳『演奏する喜び、考える喜び』(みすず書房、2022)

テマーソン 音楽は演奏されなくても存在するのでしょうか? ローゼン ええ、存在します。音楽を頭の中で演奏解釈したり、それを耳にすることなく、詩のように読んだりすることができますから。それは、演劇作品を読んだり、その演出を想像したりするのと同様…

峻厳な音楽、異化するモダニズム:ギュンター・ヴァントの醒めた超越性

峻厳という言葉がギュンター・ヴァントほど似合う指揮者はこれまでもこれからも存在しないのではないかという気がしてならない。ヴァントの音楽の鋭さは比類ない。ほとんど人を拒むような、音だけを求めるような、孤高の高貴さ。 1912年生まれのヴァントは21…

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』「愛の死」の分析7:1952年フラグスタート

1936年のコヴェントガーデンでの伝説的な公演記録から16年が過ぎている。フラグスタートはもう60手前。引退を考えるとまではいかないとしても、最盛期のころのレパートリーを最盛期のように歌うことは、肉体的に厳しくなってきている。 声が重く、暗い。輪郭…

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』「愛の死」の分析7:1936年フラグスタート

1936年のコヴェントガーデンでの伝説的な公演記録で歌うキルステン・フラグスタートの声はいまだに若い。1895年生まれだから、まだ40歳前半で、キャリア的には最盛期にあると言っていいだろうか。フリッツ・ライナーの折り目正しい楷書体の指揮と相まって、…

チルギルチンの公演を聞いていくつか考えたこと

昨日の チルギルチンの公演を聞いていくつか考えたこと(YouTube で Chirgilchin 検索するといろいろと音源が出てくる)。 *ユニゾンは斉唱の第一歩なのか司会の巻上によれば、チルギルチンは伝統的なものを引き継ぐ一方で、現代的なアレンジも加えていると…

大地を響かせ、空気を震わせる――ロシア連邦トゥバ共和国のチルギルチン

20221009@グランシップ中ホール・大地 ホーメイという唱法はなんとなくは知っていた。しかし、ひとりでふたつの音を同時に出す技法ということ以上のことは知らなかったし、あえて調べてみようという気にもならないまま、ここまで生きてきた。ロシア連邦トゥ…

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』「愛の死」の分析6(試訳、私訳)

Mild und leise なんと穏やかに、静かに、wie er lächelt, あの人は笑っていることか。wie das Auge なんと優し気にあの人はhold er öffnet --- 目を開いていることか——seht ihr's Freunde? 見えるでしょう、あなたたちにも? Seht ihr's nicht? 見えないの…

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』「愛の死」の分析4(歌うとなると、音節は)

歌うとなると、音節は イタリア語が歌いやすいのは、音節が母音で終わる場合がほとんどだからだろう。それとは逆に、ドイツ語は、子音で終わる音節が多い。ということは、1音のなかで、母音部分と子音部分をわけて発音しなければいけなくなるということだ。 …

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』「愛の死」の分析3(楽譜を添えて)

楽譜を添えて では楽譜を添えてみるとどうなるか。1拍目と3拍目の入りと言葉のアクセントがシンクロしているところは太字の斜体にして、括弧で1拍目か3拍目を明記する。シンコペーションで言葉のアクセントが入ってくる箇所は赤字にする。また、詩行の終わり…

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』「愛の死」の分析2

音節で分ける 西洋語は音節に分割できる。音節は、母音を核として、その前後にひとつまたは複数の子音をまとう。たとえば、Liebe は Lie と be の2音節、Tod は1音節の単語になる。 ここで注意したいのは、母音は、レター(綴り)ではなく、サウンド(音)で…

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』「愛の死」の分析1

イゾルデは死んでいるのか? 慣習的に「愛の死 Liebestod」と呼ばれるワーグナー『トリスタンとイゾルデ』の最後の部分では、まったく興味深いことに、Liebe も Tod も歌詞には一度も現れない。 Mild und leisewie er lächelt,wie das Augehold er öffnet --…