うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

音楽メモ

カイルベルトの職人芸の人間性:ドイツ・ローカルな指揮者

ヨーゼフ・カイルベルトは洗練をあえて退けるようなことをする。音が割れることもいとわず金管に咆哮させる。終結部では、造形が崩れることもいとわずアッチェレランドをかける。まるで綺麗にまとめることを生理的に拒むかのように。 しかし、この熱血な忘我…

マーラー交響曲5番4楽章アダージェットの映像化の可能性

もはやマーラーの交響曲第5番4楽章アダージェットをヴィスコンティの『ヴェニスに死す』と切り離してイメージすることができないこと、ゴンドラと水と甘美な死というイマージュが否応なしに喚起されてしまうことを引き受けた上で、なにかべつの美の可能性を…

モンポウの間:中古CD屋めぐり

中古CD屋めぐりは大学時代の日課だったけれど、留学してからはずっと遠ざかっていた。 最近また静岡の街中にあるなんということはない中古CD屋に週1ぐらいで通うようになった。 思わぬ掘り出し物がたまにある。 先日見つけたのは、モンポウのピアノ曲集。50…

浮世絵のように:朝比奈隆の力強い隈取、2次元的な平面的深さ

朝比奈隆の音楽は愚直に真摯であり、誠実な確信にあふれている。ときとして鈍重に響きはする。泥臭く、スタイリッシュではない。しかし、何かを真似ているのではない凄みがある。 朝比奈の指揮は決してうまくない。タクトだけでオケをドライブできる類の指揮…

生真面目な歓喜、意図的な野蛮:アーノンクールの呼吸と身振り

アーノンクールの演奏を聴くと、目をぎょろつかせた、何かに烈しく怒っている顔が頭に浮かぶ。しかしその顔をしばらく見つめていると、その憤激の裏に奇妙なユーモアがあることにも気づかされる。あまりに生真面目で、あまりに真剣なので、とても笑顔とは言…

小澤征爾という問題:東洋が西欧に喧嘩を売るために犠牲にしたこと

小澤征爾を聞くと、柄谷行人の言葉を思い出す。アメリカに行って、デリダやド・マンのようなことを英語でやることはできないと思ったが、言語の言語性に依拠しない純粋な論理が焦点となる分析哲学のような領域であれば渡り合えると思った、というような発言…

和声を操るリヒャルト・シュトラウス:グレインジャーのアレンジから聞こえてくるもの

リヒャルト・シュトラウスにとって、オーケストレーションは、作業的にこなせるものだったらしい。子どもが横で騒いでいるリビングであろうと、なんの問題もなくスコアの作成を機械的に進めていくことができた、とどこかで読んだことがある。 ポスト・ワーグ…

ゲオルク・ショルティの反復的なモダニズム:強制的な興奮に抗うか、それに身を任すか

ゲオルク・ショルティの方法論化されたモダニズムは、その方法論性にもかかわらず、一回的なものだったのかもしれない。ショルティのあまりに健康的な音楽は、不思議なことに、歴史の袋小路でもある。 日本のクラシック音楽批評でショルティの録音が手放しで…

朗読と手話による第9:シルヴァン・カンブルランとハンブルク響による創造的解釈

「3楽章と1場 In drei Sätzen und einer Aktion」と題されたハンブルク響とシルヴァン・カンブルランによるベートーヴェンの第九の映像は、基本的にベートーヴェンの音楽そのままでありながら、感触としては現代音楽的な古典の再解釈に近い仕上がりになって…

モダニズムとはべつの仕方で:クレメンス・クラウスの言葉による音楽

クレメンス・クラウスのモダニズムを継承した指揮者はいなかった。それとも、誰も彼のモダニズムを継承することはできなかった、と言うべきだろうか。繊細なフリーハンド、鷹揚な正確さ、抒情的な客観性、プラグマティックな完璧主義。20世紀の前衛音楽の両…

作為なき作為:フリッツ・ライナーの音楽の正しさ

フリッツ・ライナーのような指揮者はもう出てこないのではないか。ショーマンシップの真逆をいくような、魅せない指揮だ。オーケストラ奏者を従わせる指揮だが、聴衆を酔わせる指揮ではない。そこから生まれる音楽は峻厳で、諧謔味はあっても、陽気に微笑む…

流動する複層――エサ=ペッカ・サロネンの音楽の自然の秩序

流動する複層――エサ=ペッカ・サロネンの指揮する音楽をそのような言葉で言い表してみたい欲望に駆られる。サロネンの音楽は、多声的でありながら、和声的なところに回収されない。縦のラインで輪切りにして、それを連続させるのではなく、相互に独立した横…

ポスト・コロナ時代のオーケストラの響き:室内楽的な水平性、マスとしてのまとまりの希薄さ

「プルト」という単位は過去の遺物となってしまうのだろうか。 ここで弦奏者は、2人1組で譜面をシェアするのではなく、1人ずつ独立した譜面台を使っている。ひとりで譜めくりも演奏もこなさなければならないからだろう(プルト制であれば、ひとりが弾き続け…

的場昭弘『未来のプルードン』(亜紀書房、2020):孤独な思想家による所有と権力の批判

マルクスの永遠のライバルとしてのプルードン。マルクスの罵倒の常套戦略とは、相手の議論が誰かの二番煎じであることを徹底的な文献学的調査によって暴き立てることであるという。それはこじつけに近いところもあるが、論敵の信用を下げるうえでは一定の効…

ドホナーニの無骨な充実または音の密度:ひとつの音楽世界の体現としてのコンサート

この充実ぶりは何なのだろう。豊穣というわけではない。みずみずしい弾力性ではなく、生硬な不器用さがある。音は磨き抜かれているけれども、角が取れて滑らかになるのではなく、地肌が露出して、ごつごつとした手ざわりになっている。 無骨なのだ。音がぶつ…

チェリビダッケとベルリンフィルの出会い:リズミックな硬さと雄大なしなやかさ

チェリビダッケのスローテンポは、近くによりすぎると止まっているように見えるけれども、離れてみればすべてが動いていることがわかる悠然とした大河の流れを思わせる。でっぷりと腹の出たチェリビダッケの座った身体が水面下の動きのない動きをマクロに体…

雑な全体性のむこうにある精神:音楽家としてのダニエル・バレンボイムの音楽

ダニエル・バレンボイムの演奏は微妙に雑だ。彼の音楽は確かに全体性を捉えている。だからとても見通しがよい。旋律が歌っている。抒情性がある。勘所は外さない。しかし、瑕疵がある。 音楽のことを本当によくわかっている音楽家の音楽。バレンボイムによる…

バレンボイムの晩年の様式

バレンボイムも80歳近くなり、さすがに体が利かなくなってきた部分があるのか、足を揃えてすっと指揮台に立ったまま、ほとんどそこから動かない。上下運動が基調となるタクトの振れ幅は大きくない。もしかするとあまり肩が上がらないのかもしれない。しかし…

デフォルメする権利:ブルーノ・マデルナの恣意的な非主観性の音楽

ブルーノ・マデルナの指揮はデフォルメと切り離して考えることができないけれども、なぜデフォルメがあるのかの理由を語ることは難しいし、彼のデフォルメを方法論的に説明することはさらに困難だ。 情念的な粘っこい歌い回し、スローテンポ、引き伸ばし、ゲ…

純粋なシニフィアンのダンス:運動するイマージュとしてのカルロス・クライバーの音楽

カルロス・クライバーの音楽は純粋なシニフィアンなのかもしれない。何かを表現するのでも描写するのでもなく、音自体がある。音のダンスだ。その手前にも、その向こうにも還元できない、音そのものの運動のエネルギーが、クライバーの音楽なのだ。 極論すれ…

静けさと烈しさの協業的な同居:ミトロプーロスの魔術的な指揮

ディミトリ・ミトロプーロスがどのようにして音を合わせていたのか、どうしてもわからない。オーケストラの音の合わせ方など、そうそうヴァリエーションがあるものでもない。「点」で合わせるか(するとブーレーズのように、重なり絡み合う音が透けて聞こえ…

縦線の響きではなく、横線の動きを:ブルーノ・ワルターの旋律の運動性

ブルーノ・ワルターの音楽の説得力は破格だ。しかし、その力の出どころは、解釈の卓越性ではないような気がする。モーツァルトのト短調1楽章再現部のルフトパウゼがもっとも顕著な例だけれど、理性的にはどうにも理解できない部分はある。それでも感性的には…

超客観的演奏の非人称的な抒情性:プリズムとしてのハンス・スワロフスキーの音楽

ハンス・スワロフスキーの超客観的演奏には、不思議な抒情性がある。誰のものでもないが、誰かのものではあるのかもしれない、非主観的で非人称的な匿名的感性だ。全体として乾いた音だというのに、潤いに欠けているわけではない。 あまり人好きのしない、ぶ…

気負いもなく、気取りもなく:共創造するシャーンドル・ヴェーグの音楽そのものの生命

シャーンドル・ヴェーグの音楽は、あたりまえのように表情が濃い。ひとつひとつの音が極限まで磨き上げられているけれども、アンサンブル全体としての音は、不思議なまでに音離れがよく、密集していない。凝縮しているのに、隙間があって粘らない。 静的な面…

不思議な外連味:エーリッヒ・クライバーの客観的で恣意的なモダニズム

エーリッヒ・クライバーの音楽には不思議な外連味がある。クライバーの指揮は、基本的に、見通しのよい構築的なものだ。建築的と形容してみたくなるほどに音楽の構造がクリアに立ち上がる。カミソリのように薄く尖った鋭角的で直線的なニュアンスは、彼がバ…

愚直な生真面目さ、折り目正しい生理的な快楽:コリン・デイヴィスの音楽の歓び

コリン・デイヴィスの愚直なまでの生真面目さには生理的な心地よさがある。縦の線が気持ちよく揃っている。何が何でも合わせようとして音を置きにいったのではない。結果的にたまたま音がシンクロしているかのように聞こえるぐらいに、自然に、音のインパク…

妖艶に乱反射する響き:セルジュ・チェリビダッケの音楽の歓び

セルジュ・チェリビダッケの音楽はどこか妖艶だ。とくに死後に発売された晩年のミュンヘン・フィルとのライブ録音は、実音の生の強度の存在感というよりも、倍音のエーテル的な共鳴の空間的拡がりを強く感じさせる。 極端に遅いテンポと相まって、どこか実在…

ポリフォニックに、ノーブルに:カルロ・マリア・ジュリーニの穏やかな烈しさ

カルロ・マリア・ジュリーニの音楽を支配しているのは連綿とした歌だ。それは息苦しくなるほどに濃密だが、肌に張りつくような不快感はない。怖ろしく粘度は高いが、よどむことはない。トロリトロリと流れていく。濃厚だが、重たくはない。折り目正しいが、…

デフォルメする権利:ブルーノ・マデルナの異形の音楽

ブルーノ・マデルナの演奏は異形としか言いようがない。これほどデフォルメした演奏は稀だ。突然のスローモーション、突然の加速、特定パートの誇張、濃厚なカンタービレ。 それらはおそらく、場当たり的なものではない。楽譜分析にもとづいた理知的なもので…

稀有な凡庸、特異な凡庸:ネヴィル・マリナーのジャンル的な演奏

ネヴィル・マリナーの演奏は凡庸だ。マリナーはカラヤンに次ぐ大量録音記録保持者らしいが、カラヤンが良くも悪くもトレードマーク的なスタイルを持っていた――カラヤン・レガート――のにたいして、マリナーの録音は特徴に乏しい。彼の演奏から聞こえてくるの…