音楽メモ
クレメンス・クラウスのモダニズムを継承した指揮者はいなかった。それとも、誰も彼のモダニズムを継承することはできなかった、と言うべきだろうか。繊細なフリーハンド、鷹揚な正確さ、抒情的な客観性、プラグマティックな完璧主義。20世紀の前衛音楽の両…
フリッツ・ライナーのような指揮者はもう出てこないのではないか。ショーマンシップの真逆をいくような、魅せない指揮だ。オーケストラ奏者を従わせる指揮だが、聴衆を酔わせる指揮ではない。そこから生まれる音楽は峻厳で、諧謔味はあっても、陽気に微笑む…
流動する複層――エサ=ペッカ・サロネンの指揮する音楽をそのような言葉で言い表してみたい欲望に駆られる。サロネンの音楽は、多声的でありながら、和声的なところに回収されない。縦のラインで輪切りにして、それを連続させるのではなく、相互に独立した横…
「プルト」という単位は過去の遺物となってしまうのだろうか。 ここで弦奏者は、2人1組で譜面をシェアするのではなく、1人ずつ独立した譜面台を使っている。ひとりで譜めくりも演奏もこなさなければならないからだろう(プルト制であれば、ひとりが弾き続け…
マルクスの永遠のライバルとしてのプルードン。マルクスの罵倒の常套戦略とは、相手の議論が誰かの二番煎じであることを徹底的な文献学的調査によって暴き立てることであるという。それはこじつけに近いところもあるが、論敵の信用を下げるうえでは一定の効…
この充実ぶりは何なのだろう。豊穣というわけではない。みずみずしい弾力性ではなく、生硬な不器用さがある。音は磨き抜かれているけれども、角が取れて滑らかになるのではなく、地肌が露出して、ごつごつとした手ざわりになっている。 無骨なのだ。音がぶつ…
チェリビダッケのスローテンポは、近くによりすぎると止まっているように見えるけれども、離れてみればすべてが動いていることがわかる悠然とした大河の流れを思わせる。でっぷりと腹の出たチェリビダッケの座った身体が水面下の動きのない動きをマクロに体…
ダニエル・バレンボイムの演奏は微妙に雑だ。彼の音楽は確かに全体性を捉えている。だからとても見通しがよい。旋律が歌っている。抒情性がある。勘所は外さない。しかし、瑕疵がある。 音楽のことを本当によくわかっている音楽家の音楽。バレンボイムによる…
バレンボイムも80歳近くなり、さすがに体が利かなくなってきた部分があるのか、足を揃えてすっと指揮台に立ったまま、ほとんどそこから動かない。上下運動が基調となるタクトの振れ幅は大きくない。もしかするとあまり肩が上がらないのかもしれない。しかし…
ブルーノ・マデルナの指揮はデフォルメと切り離して考えることができないけれども、なぜデフォルメがあるのかの理由を語ることは難しいし、彼のデフォルメを方法論的に説明することはさらに困難だ。 情念的な粘っこい歌い回し、スローテンポ、引き伸ばし、ゲ…
カルロス・クライバーの音楽は純粋なシニフィアンなのかもしれない。何かを表現するのでも描写するのでもなく、音自体がある。音のダンスだ。その手前にも、その向こうにも還元できない、音そのものの運動のエネルギーが、クライバーの音楽なのだ。 極論すれ…
ディミトリ・ミトロプーロスがどのようにして音を合わせていたのか、どうしてもわからない。オーケストラの音の合わせ方など、そうそうヴァリエーションがあるものでもない。「点」で合わせるか(するとブーレーズのように、重なり絡み合う音が透けて聞こえ…
ブルーノ・ワルターの音楽の説得力は破格だ。しかし、その力の出どころは、解釈の卓越性ではないような気がする。モーツァルトのト短調1楽章再現部のルフトパウゼがもっとも顕著な例だけれど、理性的にはどうにも理解できない部分はある。それでも感性的には…
ハンス・スワロフスキーの超客観的演奏には、不思議な抒情性がある。誰のものでもないが、誰かのものではあるのかもしれない、非主観的で非人称的な匿名的感性だ。全体として乾いた音だというのに、潤いに欠けているわけではない。 あまり人好きのしない、ぶ…
シャーンドル・ヴェーグの音楽は、あたりまえのように表情が濃い。ひとつひとつの音が極限まで磨き上げられているけれども、アンサンブル全体としての音は、不思議なまでに音離れがよく、密集していない。凝縮しているのに、隙間があって粘らない。 静的な面…
エーリッヒ・クライバーの音楽には不思議な外連味がある。クライバーの指揮は、基本的に、見通しのよい構築的なものだ。建築的と形容してみたくなるほどに音楽の構造がクリアに立ち上がる。カミソリのように薄く尖った鋭角的で直線的なニュアンスは、彼がバ…
コリン・デイヴィスの愚直なまでの生真面目さには生理的な心地よさがある。縦の線が気持ちよく揃っている。何が何でも合わせようとして音を置きにいったのではない。結果的にたまたま音がシンクロしているかのように聞こえるぐらいに、自然に、音のインパク…
セルジュ・チェリビダッケの音楽はどこか妖艶だ。とくに死後に発売された晩年のミュンヘン・フィルとのライブ録音は、実音の生の強度の存在感というよりも、倍音のエーテル的な共鳴の空間的拡がりを強く感じさせる。 極端に遅いテンポと相まって、どこか実在…
カルロ・マリア・ジュリーニの音楽を支配しているのは連綿とした歌だ。それは息苦しくなるほどに濃密だが、肌に張りつくような不快感はない。怖ろしく粘度は高いが、よどむことはない。トロリトロリと流れていく。濃厚だが、重たくはない。折り目正しいが、…
ブルーノ・マデルナの演奏は異形としか言いようがない。これほどデフォルメした演奏は稀だ。突然のスローモーション、突然の加速、特定パートの誇張、濃厚なカンタービレ。 それらはおそらく、場当たり的なものではない。楽譜分析にもとづいた理知的なもので…
ネヴィル・マリナーの演奏は凡庸だ。マリナーはカラヤンに次ぐ大量録音記録保持者らしいが、カラヤンが良くも悪くもトレードマーク的なスタイルを持っていた――カラヤン・レガート――のにたいして、マリナーの録音は特徴に乏しい。彼の演奏から聞こえてくるの…
エリアフ・インバルは音楽を充実させる。マニアックな版でブルックナー交響曲全集を作ったり、マーラーやベルリオーズといった大規模な大作系の作曲家をコンプリートしたりと、ニッチなレパートリーを網羅的に録音しているわりには、細部を不自然なまでに強…
マレク・ヤノフスキは演奏の速度と音楽の強度を比例関係に持ちこめる珍しい指揮者だ。ヤノフスキは速度を、推進力や運動性ではなく、表現そのものに転化する。 テンポを上げればマスとしての音の凝縮度は高まるが、その一方で、個々の音は痩せてしまいがちだ…
ジェフリー・テイトはサインをもらいにいった唯一の指揮者だ。2000年前後の読響とのエルガーだったと思う。正直、演奏会の内容はあまり覚えていないし、そこまで感動した記憶もない。しかし、なぜかテイトは自分にとって気になる指揮者であり続けている。 同…
マリオ・ヴェンツァーゴの演奏は軽さと速さの遊戯である。CPOとのブルックナー全集の軽量級っぷりは、ほとんど常軌を逸していると言ってもいい。敏捷さをここまで前面に押し出した演奏は聞いたことがない。 とはいえ、この軽さが古楽器の影響なのかというと…
ロジェ・デゾルミエールがどういう指揮者だったのか、どうもよくわからない。ブーレーズはとあるインタビューで、50年代に現代音楽をきちんと触れる指揮者はほとんどいなかった(だから自分で振り始めた)と回想しつつ、そのような稀有な例外的存在のひとり…
イーゴリ・ストラヴィンスキーは指揮もする作曲家の系譜に連なるひとりではあるけれど、指揮するのが自作に限定されているという点で、きわめて特異な存在である。 もちろん、自作以外を振っていたことは間違いないと思うし、実際、LAフィルとのチャイコフス…
ベンジャミン・ブリテンの指揮からあふれ出す強い説得力の源にあるのは、流れていくものである音楽の生命力だ。すべてが生き生きと脈打っている。すべてが動き、前に進んでいく。音楽に死んだところがない。 あまりにあたりまえのことではある。しかし楽曲構…
シルヴァン・カンブルランは音楽を層や面において捉える珍しいタイプの指揮者だ。線でも点でもなければ、流れや色彩でもない。パートの音をひとつの帯にまとめあげ、それを地層のように積み重ねていく。 だからカンブルランの作り出す音楽はとこか響きが丸い…
ハンス・クナッパーツブッシュの指揮技術は傑出していたというが、残っている晩年の映像をみると、驚くほど何もしていないように見える。かなり長い指揮棒を使って、大きな身振りで、几帳面に折り目正しくリズムを刻んでいるだけに見える。音楽の要所で左手…