ジェイムズ・レヴァインのこの壮大な空虚さをどのように評価したらいいのか。
レヴァインの音楽は明晰ではある。音がきれいに鳴っている。見通しがよく、バランスがよく、旋律線がわかりやすく聞こえてくる。
かといって、複雑なものを単純化しているわけでもない。複雑さをキープしたまま、そのなかでもコアを成す音型を的確に前景化させる。主と従のメリハリが効いている。崩しや乱れはない。その意味でレヴァインはきわめてスコアに忠実な音楽家だ。
変にひねったところがない。だからこそ、安心して聞ける。とくに、こちらがよく知らない曲であるとか、いまひとつ苦手にしている曲になると、レヴァインはとてもありがたい指揮者だ。彼は初心な聞き手を引き込む誘惑者としては一流である。
けれども、ある程度曲に親しみ、その真髄がどこにあるのかを多少は理解した後に聞くと、レヴァインが指揮する音楽は何とも表層的に響く。レヴァインほど、聞き手の経験値によって評価が一変する指揮者も珍しいだろう。
ということを考えていくと、彼が長年にわたって、新世界アメリカのもっとも保守的なオペラ劇場であるメトロポリタンのボスであったというのは、とても腑に落ちる。ヨーロッパの歌劇場が革新的な演出を試みる一方で、メトロポリタンは、良く言えば台本に忠実な、悪く言えば平均的な観客が期待しそうなところを外さない陳腐な演出に固執していたけれども、まさにそのような、新しき伝統としての旧態依然さ、奔放な想像力=創造性の欠如こそ、レヴァインの音楽性と呼応するものであったように思う(とはいえ、レヴァインの音楽がそのような演出を要請したのか、それとも、そのような演出がレヴァインの音楽をかたちづくったのか、どちらが原因でどちらが結果なのかは、よくわからないところではあるけれど)。
(ということを考えていくと、レヴァインがMeTooムーブメントのなかで過去のスキャンダルを暴露されて失墜したことは、さもありなんという気がする)。
ただ、1943年生まれのレヴァインは、1930年代生まれのマーゼルやメータやアバドより一回り若く、1950年代生まれのラトルやサロネンより一回りは年上で、同世代と言えるのはジェフリー・テイト(1943年)、マリス・ヤンソンス(1943年)、ティルソン・トーマス(1944年)。それは、戦前の伝統をそのまま引き継いで独自のものとして昇華するには遅すぎるし、まったく新しい潮流を一から始めるには早すぎる、端境期の世代ならではの苦境にあったのではとも思う。彼らは、既存の伝統のすべて批判的に批判することもできなければ、古楽器のような新潮流を全面的に受け入れることもできず、どこか妥協的に映る微温的態度を維持していた部分がある気がするし、そのなかでもレヴァインは、おそらく、もっとも保守的というか、体制従順的であったのではないだろうか。
というわけで、2021年に亡くなったレヴァインの最良の遺産が何であるかをいま改めて考えてみたとき、そこで浮上してくるのは、1976年から2016年という四半世紀を優に上回るメトロポリタンの長期政権時代の録音でも録画でもなく、その外部でなされたもの、たとえば、ロンドンを拠点とする録音専門オーケストラであるナショナル・フィルハーモニック管弦楽団とのヴェルディの『オテロ』(タイトルロールは、レヴァイン同様、MeTooムーブメントのなかでスキャンダルが暴露されたドミンゴ*1)ではないかという気がする。
昔読んだインタヴュー記事のなかで、レヴァインは、トスカニーニとNBCによるヴェルディの『オテロ』と『ファルスタッフ』を特別な出来事として語っていたと思うけれど、この録音は、イタリア出身のトスカニーニがアメリカのオーケストラ(しかしそのメンバーの多くは亡命音楽家であったはずだ)と成し遂げた異種混淆的な奇跡であったけれども、レヴァインの『オテロ』もまた、スペインのスター歌手とイギリスのオケをアメリカの(ユダヤ系の)指揮者が作り出した異種混淆的な出来事であったように思う。