うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20240713 「平野富山展」を観る。

20240713 平野富山展@静岡市美術館

正直に言えば「誰?」と思いながら足を運んだ。「平櫛󠄁田中と歩んだ彩色木彫、追求の軌跡」という副題も個人的には役に立たない。「彩色木彫」という言葉と、キービジュアルとして使われている能面をかぶった人形で、これが彫刻展なのだろうということが推測できた程度。

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平野富山は清水出身であり、この展覧会は「没後35周年記念」として企画されたものだという。会場に置かれていたパンフレットによれば、現在でも、10点近くが清水市の学校や病院に飾られているそうで、そういえばたしかに清水市民文化会館で見かけたような気はする。平野の活動拠点は東京だったようだが、後年になって清水銀行の頭取(だったか?)が平野の作品に惚れ込み、静岡銀行駿河銀行を巻き込んで作品を購入し、静岡市に寄贈したほか、後援会も立ち上げたという。その意味では郷里に愛された人物であったのだろう。

ただ、「静岡ゆかりの作家の全容を紹介する初の回顧展」という売り文句をかかげ、「日本近代彫刻史上、重要な彩色木彫家」と持ち上げておきながら、その紹介の少なからぬ部分が、平野の先生たち――「人形師・池野哲仙」、「彫刻家・齋藤素巖」、「木彫界の巨匠・平櫛󠄁田中」――に依拠したものになっているのは、平野の独自性をわかりづらくしている。「彩色の専門家」として他の作家を支えたという一節にしても、副題にしても、平野が独立した作家なのか、それとも、他の芸術家に仕えた職人だったのかという疑問を誘発する。展示にしても、池野、齋藤、平櫛の作品が多数あり、ぼんやり眺めていると、どれが平野の作品なのかを見失ってしまう。

しかしそれは、平野の誠実な多彩さに起因するものでもある。小さな人形作りから始まり、等身大の西洋彫刻にも取り組む。彩色は人形作りから実践していたものではあるが、親子と言っていいほど年が離れていた平櫛を支えるなかで、さらに磨かれていった。どの分野でも、卓越した製作技術と傑出した色彩感覚によって、優れた作品を残している。

その反面、キャリアをつうじてデザイン的な進化がうかがえるのかというと、そうでもなさそうである。技術的には初期の時点ですでにきわめて高度な水準にあり、豪奢でありながらけばけばしくはない極彩色の使用にしても、材質に合わせた柔軟な彩色にしても、角ばった線を意図的に残したり、材質を思わせない滑らかな表面にしたりするセンスにしても、かなり早いうちから平野のなかにあったように見える。

おそらく平野の凄さは、コンセプチュアルな部分ではなく、技術を昇華させることで表現へと突き抜けさせる手仕事にあったのだろう。作品に付けられたキャプションでは何度も繰り返されていたように(さすがに繰り返しすぎだと思うが)、平野の造形や彩色には「一切の破綻がない」。超絶技巧が平野の作品の根底にあることは間違いない。

しかし真に驚嘆すべきは、手技の精密さではなく、空間認識能力——2次元の図形を3次元の表面に寸分の狂いもなく投影する能力――のほうだ。

人形にしても彫刻にしても、衣装の襞はわりとパターン化され、硬い稜線を成しており、木材の素材感を残している。その意味で、ベルニーニやミケランジェロのように、石から削り出したとは思えない襞を作り出す彫刻家たちとは一線を画する。しかし、平坦な表面に文様が隙間なく描きこまれると、平面が立体的になり、立体がさらなる奥行を獲得していく。

2次元の模様を凹凸のある3次元の表面に破綻なく載せるには、模様が凹凸部分でどのように伸び縮みするかを想像できなければならないし、方向性の異なる複数のもの――たとえば、水平な線と、反復される幾何学的な模様と、具象性の高いデザイン――をひとつの人形のうえに載せていこうとすれば、いっそう困難なことだろう。それを平野は易々と言いたくなるぐらい軽やかにやってのける。

この展覧会ではあまり語られてはいなかったが、平野は、彩色に使う絵具についても並々ならぬ知識と技術を持ち合わせていたようである。この点についてはもっと掘り下げることができたのではないかと思う。

平野はたしかに「芸術家」や「アーティスト」ではなく「作家」と呼ばれるべき存在だった。彼の作品は超絶技巧に支えられているものの、技術はあくまで手段である。ひけらかしのために前面に出てくることはない(だからこそ、彼の代表作であるらしい「羽衣舞」にしても、よくよく眺めてみなければ、その驚嘆すべき技術的卓越さには気がつかない)。

その一方で、彼の目的がどこにあったのかは、「全容を紹介」しようとするこの展覧会からでさえ、いまひとつ浮かび上がってこない。平野はおそらく、「職業的」な作り手ではなかったと思う。しかし、依頼を受けて商品を生産する仕事を担っていたことも確かであるらしい。

ここでふと疑問が湧いてくる。平野はどのようにして日々の糧を得ていたのだろうか。平櫛󠄁との仕事からそれなりの報酬は得ていただろうし、委嘱によって入ってくる金はあっただろう。作品を売却して得ていたものもあるはずだ。しかし、そのような生々しい部分は、美術館が語るべき領域ではないのかもしれない。

なんだかんだで思った以上に愉しめた展覧会だった。