うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。歴史意識のための歴史知識の欠如。

特任講師観察記断章。わたしたちはどこで歴史意識を身につけるのだろうか。そのために必要な歴史知識をどこから仕入れるのだろうか。

そんなことを考えてしまうのは、学生たちの現代世界にたいする関心の薄さが、歴史知識=意識の乏しさと表裏一体であるようにも感じられるからだ。

こう言ってみてもいい。学生たちは、なぜ現在の世界がいまあるようなかたちで存在しているのかを理解するための枠組みを持ち合わせておらず、その結果、いま世界で起こっていることを、その世界的=歴史的重要性ではなく、ゴシップ的な卑近さによって、自身の生活感覚で測った近さ=わかりやすさによって仕分けするしかない状態にあるのではないか。

ここで思い出されるのは、アメリカでTAとして英作文を教えるなかで文学テクストを読ませていたとき、学生たちのテクストにたいする第一印象は、かなりのところまで、キャラクターやシチュエーションが relatable かどうかによって左右されていたことだ。ただ、アメリカの大学生たちが 、relatable(親近感を持てるかどうか) を、明示的な尺度として意識的に振りかざしていたとしたら、日本の大学生たちの「わかりやすさ」は、ずっと曖昧模糊とした尺度であり、その使用は無意識的であるように思う。 

大きな物語の失墜が叫ばれて久しい。

けれども、アルチュセールがいみじくも述べたとおり、一人の人間の認知能力のキャパシティをはるかに上回るほどに複雑な現実を曲がりなりにも理解可能なものと幻想するには、イデオロギーという必要悪が必要なのだろう。

膨大なデータを取捨選択し、一定の秩序にのっとって編成し、理解可能なものに加工してくれる、共同的にして集合的な装置としてのイデオロギー(虚偽意識)があればこそ、わたしたちは現実を、無意味な混沌ではないと思うことができているのだ。大きな物語があればこそ、わたしたちは、個人的なものを越えたところにある集団的歴史意識をわがものにできる。そうすることで、偶発的なものでしかない自分の生に、何かしらの歴史的使命や役割を割り振ることができる。

しかし、いまや、エビデンス主義やデータ主義の名の下に、統合なき足し算的な多様性尊重の名の下に、大きな物語が顧みられなくなってきているように思う。個別性を重んじるがゆえに、総体的な大局が見失われている。

マルクス主義的な階級闘争史観が良かったとは言わない。陰謀史観のほうがましだとも言わない。しかし、それらの強固に解釈的な史観が教科書=受験から放逐された結果、個別的事例が具体的レベルに押しとどめられ、それらに潜在しているはずの普遍的契機が取り逃されているのではないか。

ノンストップで入ってくるばかりの膨大な情報を取捨選択するための代案として台頭してきたのは、過去の自分の閲覧履歴にもとづく、自己模倣的でナルシズム的な、アルゴリズムによるカスタマイズである。

ということを考えながら、自分の歴史知識=意識の基礎は、受験のために日本史と世界史を必死で覚えた高三の時点において築かれたのだろうということ、しかし、さらにさかのぼれば、小学生ぐらいから飽きもせず再読していた集英社版『世界の歴史』16巻と、おそらく集英社版『日本の歴史』20巻のおかげなのだろうということを、あらためて思い出した。