うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

自伝的小説かもしれないもの:小林エリカ『最後の挨拶 His Last Bow』(講談社、2021)

小林エリカは不思議な書き方をする。

パラグラフが短い。

一文で一段落ということもめずらしくない。

個人的にはノベルゲームを思わせる形式だが、ライトノベル的と言えるかもしれない。すくなくとも、いわゆる純文学に特有の重厚で粘着質な文体の対極。軽く、速い。

とはいえ抒情性に欠けているわけではない。それどころか、きわめて抒情的。

散文詩で書かれた小説。

 

不思議な手ざわりがある。

『最後の挨拶』は基本的に三人称の語りで書かれている。

だから物語は、キャラクターの内面からではなく、外側から描き出される。カメラが人物や場面を捉えるように。

しかし、そのカメラは、完全に客観的なものではなくて、半分ぐらいはキャラクターの五感と接続されている。

だからリブロが父の膝の上に座って、本を読む父を眺めるシーンは次のようになる。

リブロはまだ文字を読むことができなかったが、そこに書かれたアルファベットを見つめる。

父はマッチを擦ってパイプに火を点ける。

それから大きく息を吸い込みながら、左手の指でページの文字をなぞってみせた。

そこには緑色の石の指輪が嵌っている。

さあ。

リブロは父の指先の動きを目で追いかける。

よく見ていてご覧。

小さな黒い文字が、ひとつずつ指先の中へ吸い込まれてゆく。

リブロはそれを凝視する。

文字が、言葉たちが、父の身体の中へ入りこむ。

パイプと唇からは白い煙と甘い匂いが立ち上る。(10頁)

「緑色の石の指輪が嵌っている」のを見つめる視線は、膝の上に座っているリブロのものだろう。

しかし、「リブロは父の指先の動きを目で追いかける。」は、リブロの視点ではない。リブロを客観的に捉えなければ、この視点は出てこない。

父の言葉(「さあ。」「よく見ていてご覧。」)は字の文になる。カギカッコなしに投げ出される。リブロが聞いているのか。それとも、リブロを媒介せず、テクストが言葉を書きとっているのか。それは決して言明されない。

「小さな黒い文字が、ひとつずつ指先の中へ吸い込まれてゆく。」これはリブロの感覚であるはずだが、それに続く一文は再び客観的だ。「リブロはそれを凝視する。」

読者はリブロの五感をシミュレートしつつ、それを客観化する俯瞰的情景も同時に想起することになる。

ここでわたしたちに強い印象を残すのは、「小さな黒い文字が、ひとつずつ指先の中へ吸い込まれてゆく。」という魔法のような情景だ。

小林エリカの小説の魅力は、抒情詩にふさわしいようなフレーズが、テクストのコアになっている点にある。散文詩的なところが、装飾ではなく、本質を成している点にある。

 

短文で畳みかけるように進んでいく。

描写は必然的に薄くなる。たとえばバルザックのような古典的リアリズムの小説なら、場面の描写に数頁を費やすところを、小林は数行に圧縮する。

『最後の挨拶 His Last Bow』はこんなふうに始まる。

リブロが生まれたのは、南西の風が吹く、寒い日の朝だった。

父はその日のために真新しいトヨタのミニバンを購入した。車には緑色のラインが入っていた。

きょうから我が家は、六人家族になるのだから。

父がエンジンをかける。リブロの姉になる三人がそこへ乗り込んだ。

新宿にある病院へ向かう。(7頁)

そして病室は次のように描写される。

病室は四人部屋だった。クリーム色のカーテンが吊るされたベッドの上で、母は目を開けたまま横になっていた。(8頁)

しかし、必要最小限の情報が提示されているのではない。物語を進行させるうえで必須の細部だけがあるのではない。

登場人物を肉付けする細部(「父はその日のために……」)がある。

情景を象徴的に集約する細部(「クリーム色のカーテン」)がある。

そして、巧妙な視点の導入がある。

「きょうから我が家は」という箇所は、フローベールの『ボヴァリー夫人』の書き出しを思わせる。「我が家」という語り手は、この家族のひとりであるはずだが、はたして誰の視点なのか。それはこの時点ではよくわからないけれど、わたしたちはそれでも、物語に引き込まれてしまう。

わたしたちも、三人の姉たちとともに車に乗り込み、病院に向かっている。

文の運びが読者の視線を誘導する。

 

小林の軽くて速い文体は、軽快な場面転換を許容する。

時間を軽々と飛び越えていくだけではない。場所も易々と飛び越えていく。遠い場所の過去が当たり前のように呼び覚まされる。

リブロの誕生から始まり、そのまま話が進んでいくのかと思いきや、30年が経過して、病院に運ばれた父のシーンに続く。すると父の過去の話になる。それも、父ひとりの話ではなく、父の家である医者の家系の話に開かれていく。

父の家族は1936年に満州に移り住む。祖父は陸軍医。

父の成長をとおして、日本の戦前の歴史が、戦前の日本の大陸の話が、小説のなかに登場する。

『最後の挨拶』は家族の物語であるけれど、こじんまりした物語ではない。きわめてひそやかで、きわめてプライベートなやり方ではあるけれど(いわゆる歴史的大人物は登場しない)、これは、戦前から戦後を経て現在につながる、スナップショットで構成された家族大河小説なのだ。

 

そこに、同時代的なものと、間テクスト的なものが絡んでくる。

『最後の挨拶 His Last Bow』はシャーロッキアンにはピンとくるタイトル。

リブロの両親はシャーロック・ホームズ・シリーズの翻訳者という設定。

日本の物語が、翻訳作業をとおして、19世紀から20世紀初頭のイギリスとつながる。

 

ローマン・ヤコブソンとクロード・レヴィ=ストロースは、ボードレールの詩を分析し、メタファー(隠喩)とシンタックス(連辞)の軸について語った。

横のシンタックスの軸は、異なる品詞をつないで、センテンスを作る。名詞+動詞+名詞で、主語+述語+目的語の文が出来上がる。シンタックスは前に進む。ひとつの可能性を現実化する。

縦のメタファーの軸は、代替可能な項目。わたしは/あなたは/わたしたちは/彼は/彼女は+小説/詩/批評を+書いています/編集しています/出版しています。メタファーは横滑りする。別の可能性を想像する。

小説は基本的にシンタックスの軸に沿って進んでいくというのが、ジェラール・ジュネットの議論だった。小林の小説も、小説である以上、前に進んでいくシンタックス的なものではある。けれども、シーンからシーンへと飛び移るとき、彼女のテクストは、むしろメタファー的な滑り方をする。

シーンとシーンは、論理や因果ではなく、類似や近接でつながっていく。

だからこそ、遠くのものが、ひとつのテクストのなかで、無理なく同居する。

 

これは自伝的小説なのだとは思う。本という意味を持つリブロは小林本人のことなのだろう。Wikipediaを見ると、父母がシャーロックホームズ・シリーズの翻訳者というのは事実であるらしい。

しかし、これをノンフィクションとして読まなければならない理由はない。

リブロを小林エリカとして読まなければならない理由はない。

そうかもしれない。しかし、そうでなければならないわけでもない。

どちらの読み方にも開かれていること、どちらも「正しい」読み方であること。そこに、小説の自由がある。

 

私的な物語は、決して、私的なものにとどまることはない。

わたしたちの小さな生は、必然的に、歴史や環境といった大きなものと絡み合っている。