小林エリカは不思議な書き方をする。
パラグラフが短い。
一文で一段落ということもめずらしくない。
個人的にはノベルゲームを思わせる形式だが、ライトノベル的と言えるかもしれない。すくなくとも、いわゆる純文学に特有の重厚で粘着質な文体の対極。軽く、速い。
とはいえ抒情性に欠けているわけではない。それどころか、きわめて抒情的。
散文詩で書かれた小説。
不思議な手ざわりがある。
『最後の挨拶』は基本的に三人称の語りで書かれている。
だから物語は、キャラクターの内面からではなく、外側から描き出される。カメラが人物や場面を捉えるように。
しかし、そのカメラは、完全に客観的なものではなくて、半分ぐらいはキャラクターの五感と接続されている。
だからリブロが父の膝の上に座って、本を読む父を眺めるシーンは次のようになる。
リブロはまだ文字を読むことができなかったが、そこに書かれたアルファベットを見つめる。
父はマッチを擦ってパイプに火を点ける。
それから大きく息を吸い込みながら、左手の指でページの文字をなぞってみせた。
そこには緑色の石の指輪が嵌っている。
さあ。
リブロは父の指先の動きを目で追いかける。
よく見ていてご覧。
小さな黒い文字が、ひとつずつ指先の中へ吸い込まれてゆく。
リブロはそれを凝視する。
文字が、言葉たちが、父の身体の中へ入りこむ。
パイプと唇からは白い煙と甘い匂いが立ち上る。(10頁)
「緑色の石の指輪が嵌っている」のを見つめる視線は、膝の上に座っているリブロのものだろう。
しかし、「リブロは父の指先の動きを目で追いかける。」は、リブロの視点ではない。リブロを客観的に捉えなければ、この視点は出てこない。
父の言葉(「さあ。」「よく見ていてご覧。」)は字の文になる。カギカッコなしに投げ出される。リブロが聞いているのか。それとも、リブロを媒介せず、テクストが言葉を書きとっているのか。それは決して言明されない。
「小さな黒い文字が、ひとつずつ指先の中へ吸い込まれてゆく。」これはリブロの感覚であるはずだが、それに続く一文は再び客観的だ。「リブロはそれを凝視する。」
読者はリブロの五感をシミュレートしつつ、それを客観化する俯瞰的情景も同時に想起することになる。
ここでわたしたちに強い印象を残すのは、「小さな黒い文字が、ひとつずつ指先の中へ吸い込まれてゆく。」という魔法のような情景だ。
小林エリカの小説の魅力は、抒情詩にふさわしいようなフレーズが、テクストのコアになっている点にある。散文詩的なところが、装飾ではなく、本質を成している点にある。
短文で畳みかけるように進んでいく。
描写は必然的に薄くなる。たとえばバルザックのような古典的リアリズムの小説なら、場面の描写に数頁を費やすところを、小林は数行に圧縮する。
『最後の挨拶 His Last Bow』はこんなふうに始まる。
リブロが生まれたのは、南西の風が吹く、寒い日の朝だった。
父はその日のために真新しいトヨタのミニバンを購入した。車には緑色のラインが入っていた。
きょうから我が家は、六人家族になるのだから。
父がエンジンをかける。リブロの姉になる三人がそこへ乗り込んだ。
新宿にある病院へ向かう。(7頁)
そして病室は次のように描写される。
病室は四人部屋だった。クリーム色のカーテンが吊るされたベッドの上で、母は目を開けたまま横になっていた。(8頁)
しかし、必要最小限の情報が提示されているのではない。物語を進行させるうえで必須の細部だけがあるのではない。
登場人物を肉付けする細部(「父はその日のために……」)がある。
情景を象徴的に集約する細部(「クリーム色のカーテン」)がある。
そして、巧妙な視点の導入がある。
「きょうから我が家は」という箇所は、フローベールの『ボヴァリー夫人』の書き出しを思わせる。「我が家」という語り手は、この家族のひとりであるはずだが、はたして誰の視点なのか。それはこの時点ではよくわからないけれど、わたしたちはそれでも、物語に引き込まれてしまう。
わたしたちも、三人の姉たちとともに車に乗り込み、病院に向かっている。
文の運びが読者の視線を誘導する。
小林の軽くて速い文体は、軽快な場面転換を許容する。
時間を軽々と飛び越えていくだけではない。場所も易々と飛び越えていく。遠い場所の過去が当たり前のように呼び覚まされる。
リブロの誕生から始まり、そのまま話が進んでいくのかと思いきや、30年が経過して、病院に運ばれた父のシーンに続く。すると父の過去の話になる。それも、父ひとりの話ではなく、父の家である医者の家系の話に開かれていく。
父の家族は1936年に満州に移り住む。祖父は陸軍医。
父の成長をとおして、日本の戦前の歴史が、戦前の日本の大陸の話が、小説のなかに登場する。
『最後の挨拶』は家族の物語であるけれど、こじんまりした物語ではない。きわめてひそやかで、きわめてプライベートなやり方ではあるけれど(いわゆる歴史的大人物は登場しない)、これは、戦前から戦後を経て現在につながる、スナップショットで構成された家族大河小説なのだ。
そこに、同時代的なものと、間テクスト的なものが絡んでくる。
『最後の挨拶 His Last Bow』はシャーロッキアンにはピンとくるタイトル。
リブロの両親はシャーロック・ホームズ・シリーズの翻訳者という設定。
日本の物語が、翻訳作業をとおして、19世紀から20世紀初頭のイギリスとつながる。
ローマン・ヤコブソンとクロード・レヴィ=ストロースは、ボードレールの詩を分析し、メタファー(隠喩)とシンタックス(連辞)の軸について語った。
横のシンタックスの軸は、異なる品詞をつないで、センテンスを作る。名詞+動詞+名詞で、主語+述語+目的語の文が出来上がる。シンタックスは前に進む。ひとつの可能性を現実化する。
縦のメタファーの軸は、代替可能な項目。わたしは/あなたは/わたしたちは/彼は/彼女は+小説/詩/批評を+書いています/編集しています/出版しています。メタファーは横滑りする。別の可能性を想像する。
小説は基本的にシンタックスの軸に沿って進んでいくというのが、ジェラール・ジュネットの議論だった。小林の小説も、小説である以上、前に進んでいくシンタックス的なものではある。けれども、シーンからシーンへと飛び移るとき、彼女のテクストは、むしろメタファー的な滑り方をする。
シーンとシーンは、論理や因果ではなく、類似や近接でつながっていく。
だからこそ、遠くのものが、ひとつのテクストのなかで、無理なく同居する。
これは自伝的小説なのだとは思う。本という意味を持つリブロは小林本人のことなのだろう。Wikipediaを見ると、父母がシャーロックホームズ・シリーズの翻訳者というのは事実であるらしい。
しかし、これをノンフィクションとして読まなければならない理由はない。
リブロを小林エリカとして読まなければならない理由はない。
そうかもしれない。しかし、そうでなければならないわけでもない。
どちらの読み方にも開かれていること、どちらも「正しい」読み方であること。そこに、小説の自由がある。
私的な物語は、決して、私的なものにとどまることはない。
わたしたちの小さな生は、必然的に、歴史や環境といった大きなものと絡み合っている。