うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20241109 静岡市美術館「写真をめぐる100年のものがたり 100 Year Story of Photographyーー京都国立近代美術館コレクションを中心に」を観る。」

20241109@静岡市美術館「写真をめぐる100年のものがたり 100 Year Story of Photographyーー京都国立近代美術館コレクションを中心に」

説明的に見えるタイトルはその長さのわりには展覧会の内実を語っていない。というよりも、ここには、「写真をめぐる100年」を「京都国立近代美術館コレクションを中心に」提示するという以上の野望はないのかもしれない。

「めぐる」というささやかな一言がそれとなくほのめかしているように、ここで目論まれているのは、「写真」がその誕生以来かかえてきた多重性ーー事実か表現か、記録か芸術か、従属的なものか自律的なものかーーを、未解決であるばかりかおそらく決して解決されることはない問題のままに示すことにあるのかもしれない。

しかし、写真史に名を刻む数多くの写真家たちの写真が数点ずつ展示されており、写真という表現形態の可能性が多面的に提示されてはいるものの、各セクションごとのリード文を読み飛ばし、展示品だけを眺めてしまうと、展覧会の狙いらしきものは容易に見過ごされてしまうだろう。それは、ここに集められた写真のほとんどが白黒であり、キャプションを読まなければ撮影年代すら想像しがたい部分があるからでもある。

展示品はおおむね年代順に並べられており、順路どおりに進めば、写真史を過去から現在へとたどることができる設計にはなっているものの、たとえば絵画における一目瞭然な変遷ーー写実主義から印象主義からモダニズムへーーはここにはない。

かといって、写真家ひとりひとりのスタイルが際立って伝わってくるほどに、個々の写真家の作品が並べられているわけでもない。キャプションをしっかり見なければ、違う写真家の写真であることを見逃してしまう危険は少なくない。

しかし、この区別のつきにくさは、写真の本質を突いていると言えなくもない。長年の研鑽によってしか身につかないような手技が決定的な重要性を担っている絵画に比べると、写真は、構図という技術というよりも感性に依拠する部分が少なくない。絵画にまぐれ当たりはないだろうけれど、写真にはありうることかもしれない。

写真家の手技は、ある程度まで、機材と切り離せないものでもあり、写真史はカメラの技術革新と並行するものである。しかし、撮影機材はいわば工業生産品であり、唯一無二ではない複製品である。その結果、写真家同士の差異は、画家同士のそれよりも必然的に小さくなる傾向にあるのかもしれない。そんなことを考えさせられてしまう。

というよりも、ここに集められた写真家の写真が、個々の表現者の独自性を押し出すものではなく、写真史という観点から選定されていたせいで、余計にそのように感じられた可能性も否定はできない。というよりも、そのあたりのことは、門外漢には判断不能である。

判断不能ということで言えば、展示されている写真がどれほど編集され加工されたものなのかも、素人の目にはまったくわからない。その結果、ブレッソンの「決定的瞬間」にしても、土門の「絶対的非演出の絶対的スナップ」にしても、他の写真と区別がつかない。

その意味では、どのように鑑賞することを求められているのかが、きわめてわかりにくい展覧会だ。良く言えば客観的に写真史を提示している。歴史的発明としての写真、芸術表現としての写真、報道手段としての写真と、写真のポテンシャルを過不足なくわからせてくれる。

しかし、キュレーターの強いメッセージは感じられない。特別展というよりは、常設展としていつもそこにあって欲しいような、そのような展覧会だった。

同時開催中の倉俣史朗についてのミニ展示は、数十年前の都市空間は現在の均質化されたそれよりもはるかに多様で個性的であった時代を思い出させてくれるものでもあれば、そこに掲げられている年表は、そのような70年代、80年代の仕事のほとんどがもはや存在しないという喪失を痛感させられるものでもあった。だからこそ、依然として倉俣のデザインがほとんどそのまま残っているバー「コンブレ」はきわめて貴重であることをあらためて意識させられた。