うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20240726 「カナレットとヴェネツィアの輝き」@静岡県立美術館を観る。

20240726@静岡県立美術館「カナレットとヴェネツィアの輝き」

知り合いが知り合いからもらったという招待券を譲ってくれたので、明日から一般公開が始まる展覧会の内覧会に終了時間間際に滑りこんできた。「カナレット」という画家のことをまったく知らないままに。

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カナレットは17世紀のヴェネツィアの画家にして版画家であり、とくに veduta と呼ばれる景観画で有名であるとのこと。vedutaは、「見る」を意味する動詞 vedere の過去分詞形からなる名詞であり、英語なら seen の名詞化であると言ってよいのだろう。「見られたもの」。

それはしっくりくる言葉だ。というのも、カナレットの描いたヴェネツィアの都市の景観図は、グランドツアー—―イギリスの裕福な貴族の子弟が学業のしめくくりに行った一大国外旅行——の記念品のようなものとして購入されていった側面があるそうだから。

そのような経緯を踏まえれば、カナレットのパトロン、カナレットの絵を扱った画商が、ロンドンの人間だったというのは、至極当然のことであるし、イタリアの景観画についての展覧会の主催にスコットランド国立美術館が、後援にブリティッシュ・カウンシルが名を連ねているのも、不思議なことではない。

ヴェネツィアの澄み渡る青空と緑なす水面が、カナレットの景観画の全体の色調を明るいものにしている。立ち並ぶ壮麗な建物は、その壮大なスケール感をとどめたまま、緻密に描きこまれている。街行く人々や運河に浮かぶ人々は、建物が主役と言わんばかりにミニサイズで、顔はなかば記号的なものになっているが、にもかかわらず、ひとりひとりがそれぞれに生き生きとしており、その身振りやたたずまいには今にも動き出しそうな存在感がある。

その一方で、カナレットの絵画は妙にフラットに見える。遠近法に狂いがあるからではなさそうだ。彼の版画やデッサンは、恐ろしく細かく、隅々まで丁寧であり、確かなデッサン技術があったことがうかがえるし、版画は普通に奥行きを感じる。塗りの問題だろうか。

カナレットはカメラ・オブスキュラを使用していたそうで、この展覧会でもカメラ・オブスキュラの実物が参考資料として展示されていた。それにしても皮肉に思われるのは、写真や絵葉書のようなものであったのかもしれない景観画というジャンルは、カメラという視覚的複製技術が発明された時代には衰えていったわけだけれど、ジャンルにとって仇敵とでも言うべきカメラ装置が実は veduta と切り離せない関係にあったという点。

ただ、カナレットの描いたヴェネツィアが「見たまま」のものでなかったことは見逃せない。それは、言ってみれば、フォトショットで編集されたものである。構図こそ実在のものかもしれないが、そこに描きこまれるものは編集されている。ある日の一コマをそのまま切り取ったのではなく、いくつかのコマから最良の瞬間をコラージュしたものと言ったほうがいいようだ。

一見したところ写真のように見えるカナレットの絵画は、主観的に客観的だ。それは、ある特定のひとり/ひとつの視点から成るものではなく、複数のものからなる重ね書きである。その重ね方には、間違いなく、カナレットその人の個性が刻印されている。にもかかわらず、最終的に完成した絵画が与えるのは、「カナレットの見た」ヴェネツィアというよりは、「カナレットが見たものでもあれば、他の誰かが見たものでもあるような」ヴェネツィアである。

カナレット作り出したヴェネツィア表象は、後代の画家たちをヴェネツィアに惹きつけたが、そのなかには画家カナレットにも魅せられた者たちがいた。キャプションのひとつによれば、ターナーがカナレットを敬愛していたという。カナレットの澄んだ青空と緻密な細部ほど、ターナーの霧がかった融合的表象と相反するものもないように思われるけれど、ターナーを思い浮かべながらカナレットの絵をもう一度眺めてみると、ターナーのあのほのかに輝く雲の向こうにはカナレットが描き出したような細部が隠れているのであり、カナレットの表層にターナー的な陰翳をレイヤーとして重ねたら、案外、ターナーの絵に見えてくるのではないかという気もしてくる。たしかにふたりの構図=構成的センスには類縁性があるような気もしてくる。

カナレットの描いたヴェネツィアの現在の風景が写真で並列されているのは心憎い演出であり、懇切丁寧なキャプションと相まって、非常に丁寧な展覧会になっている。

しかし、そのような学芸員たちの賢明な努力は、点数が極めて少ないことをどうにかして補おうという必死さの裏返しであるようにも見える。いつもは展示スペースとして使っているところをふさいだり、いつもとは違う角度に仕切りを置いてみたりと、随所に工夫は見られる。しかし、端的に言えば、「カナレットとヴェネツィアの輝き」の規模は、ソロで売り出す展覧会というより、何かと抱き合わせで開催する企画展のそれに近い。

事実、同時開催中の「関連展示」である「ピラネージとローマの景観」のほうが、ボリューム的に充実しているようにすら感じられる。ヴェネツィアを描いたカナレット、それから一世代後に、ローマを版画で表現したピラネージという対比はきわめて興味深いし、ピラネージによる架空の監獄を表象した連作版画は、彼らの景観=風景的想像力が、ゴシック的壮大さや陰鬱さへと開かれていくものであることを確かに感じさせるという意味でも、県立美術館の所蔵品で構成されているという意味でも、好企画である。

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ただ、カナレットにしてもピラネージにしても、ヴェネツィアやローマを知らなければ、イタリアの両都市にたいして何かしらの思い入れを持っていなければ、いまひとつもいまふたつも入り込めない展覧会であることは否定できない。たしかに、ターナーという後世のフィルターをとおしてカナレットを眺めてみると、カナレットの絵画はきわめて興味深いものに見えてくるとはいえ、単体で見て、その芸術性に直ちに感銘を受けるようなたぐいの作品ではないように思う。もちろんそれは、17世紀の景観画にたいしてさしたる思い入れを持っていないから口に出来てしまうコメントではあるけれど、偽らざる感想ではある。