うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230528@静岡市美術館「おいしいボタニカル・アート」を観る。

口当たりの良い、薄味の展覧会。趣味の良い、と形容する人もいるかもしれないし、あえて反論はしないけれど、そのようなコメント自体が趣味の浅薄さを露呈しているのですよと皮肉の一つも言ってみたくなるところ。

会場に4カ所だったか、19世紀のいくつかの様式を体現したようなティーテーブルがセットされており、そこだけが撮影可能スポットになっていた。アーツ・アンド・クラフツ様式のものがあったのでいちおうながら写真を撮っておいて言うのもなんだけれど、ここでクローズアップされているのはあくまで日本が抱くステレオタイプとしての「イギリス」ではないかという気もするところ。

英国キュー王立植物園——ヴァージニア・ウルフの短編のタイトルがすぐさま思い出されたのに、内容のほうはさっぱり思い出せないのに、みすずのウルフ・コレクション(セレクションだっけ?)の寒色系ですこし暗めの青色の装丁とすこし古めかしいフォントはすぐに思い浮かんだ——の所蔵品のボタニカル・アートからは、イギリスのプラントハンティングの歴史が浮かび上がってくる。新大陸からトマトやコーンなどが持ち込まれる前のイギリスの食卓はかなりわびしいものではなかったかと思わされるところ。

この展覧会で中心となるのは、絵画として描かれた植物ではなく、観察対象として、植物学的な興味や農業的な関心で描かれた植物である。寓意画たる静物画と大きく異なる。つまり、ここで植物や果物は、何かしらの象徴的な意味を担う記号ではない。ここには、高度にコード化された解釈ゲームはない。しかしだからこそ、時代性のようなものが希薄であるらしい。19世紀初頭に書かれたものも、それ以後に書かれたものも、なるほど、書き手の技量による巧拙はあるものの、基本的には匿名的な図版である。それはもちろん、西洋のある時期において確立された描き方——花や果物をひとつ中心に、茎や葉を背景に――ではあるのだけれど、ひとたび確立されてからは、ほとんど不動のものとなったようである。

わたしたちが他国の伝統だと思っているものは実は外来のものであることが多い。ティーは当然ながら英国原産のものではない。紅茶というものを国民文化にまで仕立て上げたのは英国の手柄ではあるとしても。

流通網が整理される以前、金持ちの証とは、普通なら手に入らないような遠く離れた地の果実を取り寄せることができるツテを持っていることだったのかもしれない。それがいまやほとんど純粋な金銭の問題になってしまったことに気づかされる。わたしたち今日、金さえあれば、誰でもたいがいの珍しい食材は買えてしまう。

家政というのはヴィクトリア朝期のオブセッションだったのかという気もしてくる。百科事典のように分厚いハンドブックがベストセラーになった——しかもそれがのちには広告満載で増刷されていったとのこと——という記述を読むと、レシピをマニュアル化して売り出すという手口は、共通の食材が入手可能になった流通の時代の産物なのだということに気づかされるところ。

というわけで、美術展というよりは博物学的なものが中心で、なかなかどうして、それなりに面白いものではあったけれど、これがいつもよりずっと盛況だというのは、どうにも解せない気がしてしまうところ。