うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

巻物という特異なメディアのパノラマ性:静岡県立美術館「絶景を描く——江戸時代の風景表現」

20221021@静岡県立美術館「絶景を描く——江戸時代の風景表現」

無料鑑賞券を手に入れていたので、無駄にするのもよくないと思い、今週末には終わるこの展覧会に行ってきたわけだけれど、いまひとつピンとこない展示だった。ざっと流し見た自分が悪いのは承知でそう言っておこう。

風景画を収集に力を入れる美術館のお得意の展覧会なのだとは思う。富士山の表象が大きなテーマだが、富士山そのものはむしろ風景のひとつというか、風景表象の確固たる参照点であり、そこにそれ以外になにをフレームに収めるのかということが問題になっているように感じた。

巻物の特異なメディア性を意識させられた。巻物は横に横にと広がっていくものであり、だからこそ、いまでいうパノラマ的な表現が可能になる。西欧的な額縁のある絵はもちろんのこと、掛け軸でも不可能な、とんでもなく横長の空間表象を行うことができるようになる。巻物の際限のない広がりは、浮世絵のような限定されたスペースのなかでのデフォルメ的構成とは真逆にあるようにも思われた。

しかし、それほど真逆ではないのかもしれない。巻物は、空間表象(構図)という意味ではきわめて写実的と言えるかもしれないが、そのように捉えられた輪郭の内側をどのように表象するのかとなると、かならずしも写実的ではない。司馬江漢のような洋画的技法を知っていた画家になると、山水画的な理想化された具体性ではなく、見たままの風景をそのまま描いてはいるように見えるが、風景の細部の描写となると、かならずしも写実的ではないようにも感じた。

それにしても、ここまで横に長い、何メートルもありそうなものを、当時はどのように鑑賞したのだろうか。

県立美術館は2階が特別展と常設展のスペースで、1階が貸出スペース(と言っていいのかわからないが)のようになっており、県民団体の展示が開かれていたりするのだけれど、いまは「富士山をのぞむ人類の登場と縄文芸術」が開かれている。展示品は静岡だけではなく長野のものがあり、山梨のものもあったと思う。

日本では「美術館」と「博物館」は分業されがちではないか。アメリカでは両者がミックスされたもののほうがむしろ一般的だったような気もする。たとえば超巨大な LACMA がそうであったし、オレンジカウンティにあった小規模な Bowers Museusm もそうだった。というわけで、このような考古学的な展示が「美術館」で開かれていることにすこし驚いた(「縄文芸術」と銘打たれていたから、あくまで「芸術」としての出土品ということなのだとは思うけれど)。

縄文土器をあらためて見ると、その力強さがなんとも味わい深い。表面の文様もさることながら、かたち自体の異形さに惹きつけられる。おどろおどろしい感じはするが、どこかユーモラスでもあり、存在感が濃い。

3000年前の木船の一部が展示されている。雑に眺めただけだと、朽ちた木材のようにしか見えない。しかしこれが、3000年前、水に浮かび、人々の生活を支えていたのかと思うと、不思議な気持ちになる。3000年前の人々はもうここにいない。しかしその痕跡は、こんなにも生々しく、しかし、こんなにも普通の顔をして、ひょいとそこにある。あまりにも何気ないので、思わず手を触れてみたくなるほどに。

黒曜石の塊はよくよく見るときわめて美しい。すこし透き通るような黒で、その表面は、ガラスのように硬い(しかし、どこかひんやりとして、脆くもあるような)テクスチャーに見えた。

2階を見てから1階の展示を見たので、正直な話、こちらのほうが印象に残ってしまった。わりとお勧めです。