そこまで興味があるわけではないけれど、とりあえず足を運ぶ。わりと発見はあった。
ビアトリクス・ポターは博物学的な素養を身に着けており、キノコや菌類について論文を書いたほどだが、当時の学会の女性軽視の傾向ゆえに科学者というキャリアを断念していたことや、湖水地方の自然保護に熱心でナショナル・トラストを支持していたことは知っていたが、みずからピーターラビットのぬいぐるみを作って特許を申請したり、塗り絵やボードゲームを考案したりと、自身が生み出した物語やキャラクターのライセンス権を巧みに管理していたというのは知らなかった。
ポターは1866年生まれ(1943年没)、アフ・クリントは1864年生まれ(1944年没)。どちらも女性として、当時の性差別構造にキャリアを阻まれていることを思い出さずにはいられない。
ポターは物語作者であり、挿絵画家だったけれど、同時に、優れたビジネスパーソンでもあり、読者のニーズというものをよく理解していたようだ。子どもが手に取りやすいように本の判型を小さくする(手帳サイズ)、塗り絵をバラ売りするというセンスは、子供心をわかっているでは片付けられない商売感覚ではないだろうか。
ピーターラビットを動物の擬人化物語と読んでいいかは、なかなか難しいラインだろう。一作目には、母の言いつけを守るいい子の3姉妹と、いたずら naughty なピーターという対比がある。マグレガーさんの家に忍び込んで盗み食いして追いかけられて、命からがら逃げ出すという冒険、そのせいで寝込んでしまい母親にカモミールの煎じ薬を飲まされる(姉妹たちは摘んできたブラックベリーを楽しむ)という結末。大筋ではエンタメ的で、最後は教訓的。すくなくとも、物語としてはそういう作りになっている。古くからよくある動物教訓物。
しかし、挿絵はかならずしも擬人的ではない。ピーターは青いジャケットに革のシューズだが、顔はウサギそのもの。人懐っこい表情だったり、美味しそうに盗み食いする表情はあるけれど、それは緻密な動物観察にもとづく写実的な描写で、そこにデフォルメはない(そこがディック・ブルーナ(1927-2017)のミッフィーのようなキャラクターと大きく異なるところだ)。デフォルメされるのは、ウサギたちが人間の洋服をまとっているときだけ。そのときだけ、前足の位置が人間のそれになる。けれども、ズボンは履かせないから、下半身はウサギそのものである。そして、上着が脱げると、キャラクターの身体はふたたびウサギの身体に戻る。
スケールにしても、実際のウサギを逸脱しない。その意味では、かなりリアルであり、だからこそ、読者に、実際に見かけるウサギがピーターたちのように振る舞うかもと夢見させてくれるのかもしれない。
わりとブラックユーモアな話でもある。ピーターの父はマグレガーに捕まってウサギパイにされて食べられてしまったようだ。ピーターが逃走中に脱ぎ捨てていった洋服をマクレガーは案山子に流用する。ここにはお伽噺につきものの残酷さがある。
来場者層がいつもの展覧会と大きく異なるように感じた。子連れ家族が多い。