うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

正史の余白に書きこむ:古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』(新潮社、2011)

すばらしく力のある書き手の本だ。ポストモダン的と言っていいのだろう。フィクションとノンフィクションのはざまにあるテクストだ。ジャンルが流動的で、自己言及的で、仮想のキャラと現実の書き手が交錯し、現実の出来事(311)と過去の歴史(についての思索)が重なり合う。どこか大江健三郎の後年の作品を思い出させる。ノンフィクション的フィクション。

しかしながら、大江と違うのは、文体のリズムだろう。大江がわりと一貫したスタイルで書き切るのにたいして、古川はさまざまなスタイルを実験的に交替させていく。スタイルのレパートリーが広いのだ。スタッカートのように短く歯切れのよい文体があれば、だらりと流れていくような軟体的文章がある。論述的に進む硬質な段落があるかと思えば、詩的に飛躍的な行がある。バリエーションがかなり多彩で、文章に詩的な凝縮がある。読むことの歓びを感じさせてくれる。

ただ、内容はそこまで深く理解できたとは思えない。テクストが自己言及的であるということは、言及元についての知識がない読者を置き去りにすることでもある。そうした衒学的な手品がかなり頻繁に行われているように感じられたけれども、はたしてそれが嘘か真かなのかすらわからない。言及元は本当に存在するものなのか(テクスト外への、別のテクストへの、過去のテクストへの参照なのか)、それとも純粋にフェイクなものなのか(テクストの外はなく、細部はすべてこのテクスト限定の戯れなのか)、それがよくわからなくなってくる。

エッセイ的な小説ではある、小説的なエッセイではない。両者の違いをどこに定めるかは難しいラインではあるけれど、おそらくボトムラインにあるのは、虚構性についての意識だろう。ここでは実証的真実を語ることが最終目的になってはいない。あえて嘘を書こうと思って書いているわけではないだろうし、妄想を書きつけているわけでもない。描写対象はおそらくある程度まで現実に存在しているのだろうし、フクシマへの旅路はリアルなものだろう。にもかかわらず、ここで読者は、それが本当の旅だったのかどうかを知る必要がないというポジションに置かれている。テクストの関心は、リアルな現実との照応関係(ファクト・チェック)にではなく、テクストが構築する世界と読者とのあいだに開けてくる情動的な共同作業(正史の脱構築)にあるように思われる。

正史を書物に譬えよう。するとこの書はまるで余白がないかのように振る舞う。とはいえ余白はあるのだ。私はそこに手書きにメモを、思索以前の覚え書きを大量に書き込んで、やがて余白だけから「新しい書物」を編む。(74頁)

正史の余白に書きこむこと。このテクストがまさにそうした余白への書きこみであるが、おそらくもっと重要なのは、このテクストがそうした余白への書きこみという行為そのものである、というところだろう。物語の具体的な内容――相馬地方の馬の歴史――というよりは、テクストの身振り――歴史についての物語を現実の物語とクロスさせ、現実の時間と虚構の時間をリンクさせ、時間を複線化し、歴史=物語空間を多元化する――がこの引用でスケッチされている試みに対応しているのだ。

 

動物「の」小説、それは動物「について」の小説を書くということではないだろう。動物が主人公や語り手であるというわけではない。それでは単なる擬人化小説になってしまう。ここでの語り手はあくまで人間である。そして彼が馬を眺め、馬について考える。しかしそのとき、馬は、人間との関係においてだけではなく、人間との無関係のなかにおいて捉えられる。一方において、家畜としての動物についての思索が語り手につきまとう。「人類と契約している動物が、家畜になるんだ」(87頁)。

しかし、家畜化された動物が「正史」に属する事柄だとすれば、このテクストが試みるのは、その余白に動物を書きこんむことであり、そうした余白への動物の書きこみから新しい書物を編むことである。それが動物「の」小説ということなのかもしれない。

ではそこで編まれる新しい書物、新しい動物の書物とは何なのか。

それはおそらく、人間の歴史、「国」の歴史とは別の層に立ち現れてくるような動物の過去であり、動物の現在であり、動物の未来だろう。人間がいない世界の動物というわけではない。人間はいるし、動物がいる、しかしこの新しい書物では、人間と動物のあいだのヒエラルキー関係は、転倒しているというより、徹底的に非問題化、非焦点化されるだろう。家畜化が無視されるというのではないが、家畜化が絶対的な中心を形成しないようなかたちで語られる同じ歴史の別の物語。

ポスト・フクシマの世界においては、人のいなくなった世界を歩いていく動物を想像するほうがたやすいのかもしれない。しかし、この書物はあくまで人の手によって編まれたものであり、その意味では、人のものである。終わりも始まりも、テクストの出来事でもある。

それから白馬は、もう「何の可能性もないのだ」とばかりに牛舎を出て、すると、痩せ衰えた牝牛がよたよたと後を追って出てきて、白馬は気にせず先に進み、すたすた前に歩みつづけて、牝牛は懸命に、懸命についてきて、それから、鮮やかな緑色の雑草たちに覆われた土手がある。白馬はそれを食みはじめて、かたわらで少々遅れて、遂に牝牛もそれを口にする。

そして雑草たちを光が育てている、降る。陽光が。

 

そこから東に三キロ離れて海岸がある。海鳥たちが鳴いている。死にかけているものは何もない。死はたしかに存在したけれども、この瞬間には死にかけない。

ここで私のこの文章は終わり、はじまる。(132頁)