狂気に隣接する愛の憧れのもどかしさ:スコット・フィッツジェラルド、上岡信雄訳『美しく呪われた人たち』(作品社、2019)

青年期の男の物語、または狂気に隣接する愛の憧れのもどかしさ

スコット・フィッツジェラルドの長編第2作『美しく呪われた人たち』(1922)は、フィッツジェラルドがつくづく青年期の白人男の決して充たされえない愛の物語を書いたのだということを思わせずにはおかない。

なるほど、次の大出世作『グレイト・ギャツビー』(1925)とはちがい、ここでは主人公は首尾よく結婚する。しかし、彼の結婚生活は幸福なものにはならない。表面的な原因は金銭的な不如意のため、一時の乱痴気騒ぎのために取り逃がしてしまった莫大な遺産のせいであり、物語背景にある現実の歴史に理由を求めれば、第一次大戦と従軍のためであり、フィッツジェラルド本人の自伝的なところを重ね合わせれば、金のために書き飛ばすほかなかった小説のせいだろうけれど、それらの根底に、フィッツジェラルドの描く愛のかたちがそもそも不可能なものではなかったのかという疑いを抱いてしまう。近代資本主義の消費社会が加速させる世俗的欲望は、まちがいなくそれをさらに困難なものにしたことは間違いないけれど、はたしてフィッツジェラルドの愛は現世的に可能なものだったのか。

結局のところ、フィッツジェラルドの小説は偽装した私小説だろうか。すべてはフィッツジェラルド本人の生のべつの可能性の物語であり、ゼルダについての変奏曲であるように感じられる。

 

その大元にある、どこかいびつな対象愛。手に入れたいと狂おしいほどに願う。しかし、その狂おしさが狂気に近いことが明らかになるほどに、本当に彼はそれを手に入れたいと望んでいるのだろうかという疑いがわいてくる。

手に入れることを、自分の手で実際に触れることを恐れている様子がうかがえる。それほどまでに対象を崇めて、理想化しているのだ! 望む人は隣にいながら、はるか遠くにいる、または、はるか彼方の上空に仰ぎ見られている。だから、水平的な関係は決して成立しない。

にもかかわらず、主人公の男はそれを女に要求する。自分の理想を押しつけながら、理想のまま、自分の隣りに座っていてくれることを希望する。それは土台無茶な願いであり、失敗しないはずがない。

“Can’t repeat the past?” he cried incredulously. “Why of course you can!”

He looked around him wildly, as if the past were lurking here in the shadow of his house, just out of reach of his hand.

“I’m going to fix everything just the way it was before,” he said, nodding determinedly. “She’ll see.”

He talked a lot about the past, and I gathered that he wanted to recover something, some idea of himself perhaps, that had gone into loving Daisy. His life had been confused and disordered since then, but if he could once return to a certain starting place and go over it all slowly, he could find out what that thing was. . . . (The Great Gatbsy. Chapter 6)

 

「過去を再現できないって!」、いったい何を言うんだという風に彼は叫んだ。「できないわけがないじゃないか!」

彼は周囲をさっと見回した。まるで彼の屋敷の影の中に、もう少し手を伸ばせば届きそうなところに、過去がこっそり潜んでいるのではないかというように。

「すべてを昔のままに戻してみせるさ」と彼は言い、決意を込めて頷いた。「彼女もわかってくれるはずだ」

ギャッツビーは過去について能弁に語った。この男は何かを回復したがっているのだと、僕にもだんだんわかってきた。おそらくそれは彼という人間の理念[イデア]のようなものだ。デイジーと恋に落ちることで、その理念は失われてしまった。彼の人生はその後混乱をきたし、秩序をなくしてしまった。しかしもう一度しかるべき出発点に戻って、すべてを注意深くやり直せば、きっと見いだせるはずだ。それがいかなるものであったかを……(村上春樹グレート・ギャツビー』202‐3頁)

過去をやり直す、しかも、ひとりではなく、ふたりで。やり直そうとしてみたところで、やり直せるはずがないというのに。しかし、彼に認めることができないのは、まさにその不可能性なのだ。

フィッツジェラルドの物語が失敗と敗北の物語であるのは、主人公がそもそも考え違いをしているからである。道徳的に間違っているというのは当然あるし、行動の仕方が間違っているというのもあるけれど、真の問題は、人間関係の空間的位置づけがありえないかたちでしか思い描かれていないせいではないかという気がする。

 

『美しく呪われた人たち』は『グレイト・ギャツビー』ほどの狂おしい妄執の物語ではない。しかし、通底する音調は同じではないか。

自分のみつからなさ、自分自身の存在にたいする不安、さまよいただよう生。

それはもしかすると、生活には困らない有閑階級の白人男の贅沢なのかもしれない。第一次大戦前から始まるこの小説世界は、現実なら、さまざまな問題の噴出していた時代である。労働争議社会主義、女性参政権運動、都市改革、反戦運動。しかし、そうした深刻なものの影はあまり感じられず、むしろ1920年代に花開くことになる虚しくも華やかな消費社会の落ち着きのなさが先取りされているような雰囲気さえある。

しかしどちらにせよ、ここにあるのは幻滅だろう。本当はかなわないはずのものが、この世においてかなえられるとすれば、それは不完全なかたちでしかありえない。そこで見い出されるのは、理想とのズレでしかない。

 

結婚プロット

19世紀の英米小説における特権的な物語素は結婚である。もちろん、その意味合いは19世紀半ばから後半、そして20世紀初頭にかけてずいぶん変わっていく。確固たる地位を保っていた上流階級が、経済的なものによって少しずつ揺るがされていく。血筋よりも金銭が幅を利かせるようになる。そして、高等教育の誕生と拡張が、階級の流動性に拍車をかけるだろう。

パラメーター・バランスが変わっていく。血筋的なもの、金銭的なもの、そして知性的なもの、前近代的な社会にあっては特権階級に独占されていた3つのものが民主化され、社会に拡散していく。そうして誕生するのは、3つを合わせもたない「いびつな」上流階級だ。成金の場合、経済的なものが突出している反面、血筋的なものや知性的なものは欠落している。没落するかつての上流階級は、経済的に困窮しつつも、血筋的なものや知性的なものを維持しようとする。新しい知識階級は、血筋的なものや経済的なものを背景とすることなく、知性的なものを獲得する。

しかし、もし経済的なものや知性的なものが後天的に獲得可能であるとしても、血筋や家柄はそうではない。そしてその稀少性と所与性ゆえに、血統は特殊なパラメーターである。たしかにそれは後天的な獲得は不可能でも、後天的な創出は可能ではある。「成金」も何世代か続けば、たいした家柄になりうる。しかし、1世代でどうにかしようとすれば、婚姻に頼るしかない。

誰が誰と結婚するかは、当事者同士の自由恋愛の問題ではない。誰と誰の結婚は承認されてよいのかという、当事者の気持ちを置き去りにした周囲の問題である。結婚は社会的な問題であり、ひいては家族や社会や国家のかたちをめぐる戦場となる。だからこそ、国民国家の黎明期である19世紀後半にとって、結婚プロットは特権的に重要なのだ。

 

リアリズムと自然主義のあとに

ヘンリー・ジェイムズの小説では、血筋と知性が経済的なものを包摂していく流れが存在していたように思う。しかしそれはおそらく、ウィリアム・ディーン・ハウエルズにおいてより顕著に見られたものだろう。というのも、ジェイムズの後期小説群においては、前期中期の作品にもまして、結婚による家庭の形成の失敗のほうが主題化され、集合的なものから離脱してく個人の遠心的方向性のほうが前景化されていたはずからである。しかしながら、どれほど否定的に裏返されたかたちであれ、ジェイムズたちの小説では、結婚プロットが依然として機能していた。

ところが、フランク・ノリスやセオドア・ドライサーの自然主義的な小説では、結婚が何らかの意味で解決策であるという考え自体が根底から否定され、旧来的な支配階級のの屋台骨が土台から揺らいでいる世界が描き出されているように感じられる。それらはもしかすると、19世紀のアーキタイプとでも言うべき裸一貫からの叩き上げの経済的成功者=男たちの物語の移調的変奏とでも言うべきものかもしれない。結婚はもはや血筋の問題ではないし、個人のアイデンティティをめぐる問題でもない。結婚は社会的なものの繋留ではない。消費社会的なものやショービジネス的なもの、資本主義的な欲望こそが、個人をも社会をも包含する。

自然主義のあとにくるフィッツジェラルドの小説は、興味深いことに、先祖返り的な傾向を見せているように思う。すくなくとも主題的なレベルにおいては。フィッツジェラルドの描き出す20世紀初頭アメリカ社会はもはや、階級的に安定した定常社会ではなく、資本主義的欲望主体による消費文化に従属している。しかし、かつての階級が完全に滅んだわけでもない。経済的なものによって現在や未来を変えられるとしても、過去だけは変えることができない。そして、ロマン主義的なギャツビーの偉大さと愚かさは、血筋と家柄の欠如による不安を、金銭と教育によって補填しようと試みて、実際成功するにもかかわらず、過去の改変という根源の欲望のかなえられなさにつまづき、結局は破滅してしまうところにある。しかも、自分のためにではなく、自分が愛した女のために、自分が内面に作り上げられた愛する女のために。

イディス・ウォートンの小説でも結婚は問題であるが、そこでは階級的な定常性がまだ前提とされていたように思う。没落する階級の終わり方である。それに比べれば、フィッツジェラルドは新しい階級の始まり方についての物語ではあるのだけれど、にもかかわらず、彼の物語は、新しい階級の終わり方についての物語にもなっている。というよりも、新しい階級は、最初から、頽廃や崩壊を運命づけられているかのようだ。

問題は、フィッツジェラルドの物語世界において、もしかすると安定化につながりえたのかもしれない流れが、つねに、近代資本主義の消費文化という不安定なまでに活発な流動性によって揺るがされ続けるところにあるのだろう。もはや血統的な確かさにも、知性的な確かさにも戻ることができず、たとえ金銭的に安泰であろうとも、たえず刺激されては創造されつづける欲望の運動はとどまることをしらず、最終的には不確かな奔流に巻き込まれていく。

 

 成功作とは言いがたい何か

『美しく呪われた人たち』は、意欲作ではあるが、成功作とは言いがたい。ひとつの長編というよりも、たくさんの断片の集積であり、主題やキャラクターが拡散してしまっている。凝縮力のなさはフィッツジェラルドがつねに抱えていた欠点だと思うのだけれど、それに対処するすべを小説家はまだほとんど見つけられていない。

ひどく不器用な構成をしている。カップルの両方に内面が与えられ、それが語られるスペースを作っているところは、『ギャツビー』より秀でている面かもしれない。『ギャツビー』は、たとえニックという相対化する焦点を入れ込んだところで、男たちの語りでしかなかったけれども、ここでは女の声を描き出そうという努力がうかがえる。しかし、まさにそれが、テクストとしてのとりとめのなさにつながってしまっているきらいがある。

この小説はどこかメタ的であるが、それは、書くことについて、短編を売ることについて、売れることについての物語でもあるからだ。それから、映画の話。当時の消費文化を考えると興味深いレファレンスではあるけれど、それらが小説の深いところと結びついているかというと、やや疑問が残る。クレバーな小道具に終わってしまっているような気もする。

霊感の閃きはあるし、閃光のような輝きはあるが、どうも散発的なのだ。メチエ的な手腕を欠いているので、うまくいっていないところはあきらかに手薄になっている。ほとんどセリフだけ続く戯曲のようなパートがあるかと思えば、プルーストばりの深い心理描写がある。あからさまに人種差別的な戯画があるかと思えば、売文業についての鋭い省察がある。このデコボコとした手触りの良し悪しはともかく、テクストにある不思議なだらしなさをどう捉えたものか。

フィッツジェラルドは広く書けない作家なのかもしれない。青年期の作家なのだ。若いカップルの話であり、それ以上に広がっていかないようなところがある。このあたりは、サリンジャーと比較してみると面白いかもしれない。サリンジャーが少年の物語であるとすると、フィッツジェラルドは青年の物語である。少なくとも『ライ麦畑でつかまえて』が思春期の少年の物語だとすれば、フィッツジェラルドの物語は結婚適齢期の若者たちの物語であると、冗談交じりにまとめてみていいかもしれない。

 

翻訳の首尾 

翻訳の出来はどうなのだろうか。悪い訳ではないし、良心的な翻訳であることは疑いをいれないけれど、小説的におもしろい訳になっているかというと、どうだろう。

語学的な正確さと文体的な流暢さが、どうもうまく結びついていないように感じられる。これはフィッツジェラルドのような作家の場合、致命的なことかもしれない。村上春樹の翻訳は、語学的に正しいかはさておき、文体の相関物を作り上げようという意志があったし、その試みはおおむね成功していたように思う。あれがフィッツジェラルドの文体かどうかは議論の余地があるものの、訳文に文体があることはまちがいなかった。そしてそれこそまさに、上岡の翻訳に欠けているものであるような気がする。