うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「世界の本質的な不可知性を抱きしめる」:レベッカ・ソルニット、井上利男訳『暗闇のなかの希望――非暴力からはじまる新しい時代』(七つ森書館、2005)

希望のクロニクル

希望のクロニクルを書くこと。ソルニットがポスト911時代のなか自らに課した仕事を、そのように性格づけてみてもいいかもしれない。ソルニットはテロから戦争へという暗く暴力的な時代に突入するなかにあって、非暴力的な希望の可能性を、過去の歴史のなかから救い出そうとする。正史においては語られることの少ない、まるで語られることのない断片的な希望のエピソード――なぜならそれれは完全な勝利の物語というよりは、途上で潰えてしまった物語であったり、潰されてしまった物語であったりする場合のほうがはるかに多いものだから――を、希望の物語へと編み上げていく。それは世界中から集められた希望の過去なのだ。

「暗闇のなかの希望」というフレーズは、ヴァージニア・ウルフの日記からの一節である。それは第一次大戦がはじまって半年が過ぎた1915年1月18日のことだった。しかし、暗い時代に書きつけられたこの一節を、ソルニットは、悲観的な嘆きではなく、未来の未見性や不可知性と読み替えていく。ソルニットが取り組むのは、「希望とは何か」「何が希望か」というような希望の内容についての議論というよりも、「希望を抱くとはどういうことか」「どのようにして希望を抱くのか」という問いだ。希望の方法をめぐる思索である。

 

希望の方法、または直接行動のための未来意識

2つの筋道が交錯する。希望の過去や現在の希望を救い出し、希望について深く思考するのは、ひとえに、未来のためである。そのためには、希望と行動をつなげる必要がある。

興味深いことに、ソルニットは希望hopeと信仰faithを区別しようとする。それは友人のジェイミー・コルテスに促されてのことのようだ。しかし、裏付けを必要とする――可能かもしれないことの実績を求める――希望よりも、勝利の可能性をまったく予見することができないなかでも持ちこたえる信仰をこそ拠り所とすべきだと主張するコルテスにたいして、ソルニットはべつの方向性を探ろうとする。いや、ソルニットは、現代における直接行動direct actionの系譜は、ローカルな伝統的コミュニティの知識人からカトリックの平和主義者までを含みこむ雑多なものであり、そうであるがゆえに、そこにはすでに信仰の要素が入りこんできている、と考えているようだ。ここで重要なのは、証拠がなければ自意識的に動けない希望と、証拠なしに盲目的に動いてしまう信仰とを、架橋不可能なかたちで対極に配置することではなく、希望と信仰を、ゆるやかにしなやかにつなぎあわせることである。

ただ願うだけでは不充分であるし、ただ行動するのでも足りない。どうせ未来は変わらないというニヒリズムに陥るのでもなく、何もしなくても未来はよくなるという楽観主義に身をゆだねるのでもなく、かといって、行動すれば絶対に未来は良い方向に変わるというドグマティックな思い上がりに陶酔するのでもなく、未来の不確さを受け入れてなお、未来のために行動するための希望の方法をソルニットはスケッチしていこうとする。

Hope locates itself in the premises that we don't know what will happen and that in the spaciousness of uncertainty is room to act. When you recognize uncertainty, you recognize that you may be able to influence the outcomes--you alone or you in concert with a few dozen or several million others. Hope is an embrace of the unknown and the unknowable, an alternative to the certainty of both optimists and pessimists. Optimists think it will all be fine without our involvement; pessimists take the opposite position; both excuse themselves from acting. It's the belief that what we do matters even though how and when it may matter, who and what it may impact, are not things we can know beforehand. We may not, in fact, know them afterward either, but they matter all the same, and history is full of people whose influence was most powerful after they were gone. (Solnit. "Foreword to the Third Edition (2015): Grounds for Hope" in Hope in the Dark: Untold Histories, Wild Possibilities. xiv)

 

希望のすみかは、何が起こるかわたしたちにはわからないところにある。不確かさの広大さのなかにある行動の余地に、希望のすみかはある。不確かさに気づくとき、あなたは、あなた自身が結果に影響を与えられるかもしれないことに気がつく。あなたひとりで出来るかもしれない、数十の人々と一緒になってのことかもしれないし、数百万の人々と一緒になってのことかもしれない。希望とは、わからないもの、わかりえないものを抱きしめることだ。それは、楽観主義者と悲観主義者の両方が抱いている確信にたいするオルタナティヴだ。楽観主義者は、自分たちが関わらなくても全てうまくいくと考える。悲観主義者はその逆を行く。どちらも、行動しない言い訳をしている。希望とは、わたしたちのすることは重要であるという信念だ。いつ、どんなふうに重要になるか、誰が何にインパクトを与えるかは、わたしたちが前もって知ることのできないものであるとしても、わたしたちのすることは重要であると信じることだ。実際のところ、後になればわかるというものではないかもしれないのだけれど、それでも、わたしたちのすることが重要であることに変わりはないし、歴史は、亡くなって後に影響力が大きく高まる人々で犇めき合っている。(拙訳)

希望について考えることは、行動するわたし(たち)と未来の現実の関係について考えることであり、そのためにこそ、過去の(完全には)実現しなかった希望について考えることが必要なのだ。もし過去の未決性が現在において引き継がれるとしたら、そしてもしその引き継ぎが、時間も場所もまったくちがう人々のあいだで起こりうるし、実際に起こってきたとしたら、わたしたちのちっぽけな行動は決してちっぽけどころではないことがみえてくるはずなのだ。行動するわたしたちは、過去の同志たちと遡及的につながることができるし、わたしたちもまた、同じように、わたしたちはもういない未来において、わたしたちが予想も想像もしなかっただれかとつながるかもしれないのだ。

 

希望することの積極性

希望すること、それは待つという消極的な状態ではなく、未知の抱擁という積極的な態度である。驚きにたいして開かれていることである。期待していなかったものを歓び、わからないものを受け入れ、訪れた出来事によって自らが変わっていくことを恐れないことである。

けれど、希望とはただ待ち望むことではない。希望は、世界の本質的な不可知性、そして現在との決別を抱きしめることであり、驚きなのだ。あるいは、もっと注意深く記録を調べれば、たぶん奇蹟は期待できても、それはわたしたちの期待どおりの時と場所で起こるわけではない。期待していいのはビックリさせられることであり、わたしたちは知らないということである。そして、このことが行動の足がかりになる。(209頁)

しかし、それは、何でもかんでも受け入れることではない。希望は未知の歓待であると同時に、既知の不正義にたいする抵抗であり、不服従であるからだ。ソルニットは続ける。

服従としての希望、あるいはむしろ果てしなくつづく不服従の基礎としての希望をわたしは信じている。つまり、わたしたちが望むものの幾つかをなしとげ、その間も原則に則って生きるために必要な、そういう行為の希望である。ほかに道はなく、あるとすれば屈服だけだ。そして屈服は未来を放棄するだけではなく、魂を捨て去る。(209頁) 

希望すること、それは、気の持ちようというような単に個人的なものではないのだ。それは世界認識のしかたであり、未来意識のかたちであり、そして、自らが希望のプロジェクトの一部という生成変化なのだ。

 

物語を聞くこと、話すこと

過去の希望は生きられた体験である。そしてそれは、語り直され、記憶される必要があるが、同時に、語り継がれ、語り続けられる必要もある。そして、わたしたちのひとりひとりが、聞き手であると同時に、話し手となる契機をそのうちに秘めている。

わたしたちは語り部です。ところが、ともすれば、既知の物語が、岩のように不動で、日の出のように必然であると信じてしまいます。どのようにして古い物語を解体するのか? 解体するだけでは終わらず、どのような新しい物語を語れるのだろうか?――このようにわたしは自問するようにしています。物語はわたしたちを陥れもするし、解き放ちもします。物語によって生かされもし、死にもするわたしたちですが、聞き手で終わる必要はなく、みずから話し手にもなれます。ここに記すわたしの物語の目的は、あなたがご自身の物語を語るように励ますことなのです。(「日本のみなさんへ」4頁) 

というよりも、わたしたちはすでに、そうしたプロジェクトに参加しているはずなのだ。共同的な物語の共作と共有、シェアと拡散、という世界に。しかしだからこそ、言葉をたしかに使うことがますます重要になってくるのだ。

未来に引き継がれていくはずの言葉をいまここで語るということ、それは、想像力の言葉である。ソルニットは『説教したがる男たち』のなかで、ふたたびヴァージニア・ウルフを引きながら、次のように述べている。

 計量可能性の暴力は、ひとつには言葉や言説が、より複雑で微妙で流動的な現象を描写しようとして失敗することにあり、また意見形成や意思決定を行う人々が、定義しがたいものを理解し価値を見定めることができないことにもある。名づけたり描写したりできないものの価値を見定めるのは難しく、ときには不可能ですらある。だからこそ名づけること、描写することは、資本主義と消費主義の現状に対する反乱における本質的な営みなのだ。究極的には、地球環境の破壊の原因の一端は、いやもしかするとその多くは、想像力の欠如や、本当に大切なものを数えることはできない会計システムによって、想像力の重要性が見えなくなっていることにあるのかもしれない。この破壊に対する反乱は、想像力による反乱だ。それが称えるのは白黒のつかない微妙さであり、金では買えず、大企業が意のままに操ることのできない歓びだ。意味の消費者より生産者であること、ゆっくりとさまよい歩き、まわり道を選ぶことだ。探究心と、超自然的な力と、不確かさだ。(ソルニット「ウルフの闇」『説教したがる男たち』122-23頁)

想像力の叛乱! それこそ、希望のための必要条件なのである。

 

翻訳について

井上利男による翻訳は決して悪くないどころか、かなり良い。日本語として過不足なく読める秀逸な文章になっている。ひじょうに達者なものであることは疑いないが、正確かというと、かなり怪しい部分はある。

しかしこれは、ソルニットを訳す者だれもが直面せざるをえない問題ではある。ソルニットはたいした文章家であり、英語の特性を最大限に生かした美しい文章を書く人だ。裏を返せば、彼女の文体は英語という言語に内在する論理性や意味の連環、イマージュやフローに依拠する部分が大きいということでもある。要するに、他言語に移し替えにくい。

そうなってくると、訳者は二者択一を迫られてしまう。オリジナルの文体の相関物のようなものを移し替える方の言語で創造するか、または、オリジナルの文体がぎこちなくなるのを承知したうえで忠実にやるか、である。意訳するのか、直訳するのか。

井上は意訳戦略を選んだようであり、『説教したがる男たち』の訳者のハーン小路恭子は直訳よりになっている。どちらもかなり巧みな訳文で、翻訳のみを読む限りでは特段の不満は感じないのだが、ソルニットの原文とつき比べてみると、オリジナルにある流麗さと豊饒さが取り逃がされているような気もする。井上の翻訳は流麗ではあるが、豊饒さでやや劣る。ハーン小路はその逆だ。

ソルニットは翻訳者泣かせの作家だろう。もちろん、ソルニットのテクストは、文体には依存しない内容があるのだけれど、彼女のテクストの訴求力は内容以外の要素に負うところが大きいように思う。それはもしかすると、アクティヴィストの力が、その人の語る言葉の内容だけではなく、その語り口や立ち居振る舞い、存在感や雰囲気のようなものと、切っても切り離せない関係にあることとパラレルかもしれない。カリスマというのはたやすいし、そうしたオカルト的なところ、神秘的なところを、ソルニットはきっと否定しないとは思うのだけれど、希望をいかにして世俗的=非宗教的なままなお信じつつ行動するのかと倦むことなく問い続ける書き手にたいして、そう言ってしまうのはどうも不充分な気がする。

 

版の問題について

原著は現在第3版(2016)が出ており、この増補版では、2016年に書かれた第3版のための緒言(「希望のための拠り所 Grounds for Hope」)に加えて、「かえりみれば――普通の人々が成し遂げた並外れたこと Looking Backward: The Extraordinary Achievements of Ordinary People」(2009)と「すべてはばらばらになりながら、すべてがまとまってきている Everything's Coming Together While Everything's Falls Apart」(2014)が収録されているのだけれど、2005年の邦訳では当然ながらこれら3つの文章が抜け落ちている。これらは本書の簡潔なまとめ――とりわけ、希望の方法/方法としての希望という側面の――であり、もし邦訳が再版されるようなことがあれば、ぜひ入れて欲しい文章である。

初版と2版を見ていないので、詳細はわからないが、章立てが邦訳とは少し違っていることも記しておきたい。章の数は3版も邦訳も21章だが、章の割り方で異なる部分がある。

邦訳の冒頭におかれた「日本のみなさんへ」は日本語版だけの文章だ。ほんの2頁だけの文章だが、ひじょうに美しいテクストである。ソルニットという人の深いところにある純な倫理性のようなものがたしかに感じられる文章で、これを読むだめだけに邦訳を手元に置いておきたい気分にさせられる。