うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230911 村上春樹『街とその不確かな壁』を読む。

村上春樹には2系統の物語があるような気がする。一方に、ひじょうに幻想的な、現実とはかけ離れた空想と夢想の世界で展開される物語があり、他方に、物語としては依然として幻想的でありながら、物語世界自体はわたしたちの現実世界と地続きであるような物語。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が前者の系譜の極北だとすると、後者には学生運動後の徒労感の空気をただよわせた『ノルウェイの森』、オウム真理教のような新興宗教とそのコミュニティの主題を展開した『1Q84』がある。しかし、どちらにせよ、村上春樹を春樹たらしめているのは、幻想性のほうだ。彼の物語は、どれほど現実的なところに立脚していようと、つねに幻想的なところに開かれている。というよりも、幻想性のほうが現実に闖入してくるのだ。つねに。思いがけないかたちで。

 

『街とその不確かな壁』はバランスの悪い小説だ。数頁程度の短い章で小説全体が構成されている。3部構成だが、それぞれの部の長さはいびつ。導入部の1部は、『世界の終わり』と同じネタの別バージョンという感じで、150頁ほど。これに本小説のメインとなる2部が450頁ほど続き、エピローグというには長く、3部というには短すぎる約50頁が続く。

「あとがき」によれば、1980年に発表した「中編小説(あるいは少し長めの短編小説)」をリライトしたものであり、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と源泉を同じくする作品であるらしい。だとすれば、第1部が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の焼き直しというか、自己パロディのように思われるのも、当然のところ。

執筆順としては、第1部をまずリライトして、半年ほど寝かせたあと、続きの2部、3部を書き足したという。だからなのか、2部は1980年代の春樹ではなく、2000年代以降の春樹の雰囲気を色濃く反映させているし、また、壁によって隔離された街——それは疫病のための防護柵であるらしいが、同時に、この疫病は身体的なものというよりも精神的なものであるらしい――は、コロナ禍におけるロックダウンを微妙に思わせたり、2部の舞台が福島の山奥であったりと、2010年代2020年代の日本の社会状況をそれとなく(しかし、あくまでそれとないかたちで)反響させた設定になっている。

こう言ってみてもいい。この小説にはかなりたくさんの年輪が刻まれているのだ。その意味で、春樹の中核的なテーマがわりとむき出しで露呈するとともに、それをうまく小説としてまとめあげる技巧のようなものが同居しており、それがまたこの小説の手ざわりをどこかざらついたものにしているように思う。

 

なんとも生硬な感じがのこる1部と、ページターナーとも言うべき2部、そして、リーダブルな2部と、あまりにも剥き出しなかたちで春樹の根源的テーマを扱った1部とを、いまひとつどころ統合し切れていないどころか、統合することをそもそも目指していないかのような3部。

 

ここで露呈するのは、影と本体の主従(どちらが影でどちらが本体なのか、その関係が転倒され、突き崩されていく)、わたしの影(無意識)があなたの影(無意識)と通底すること、すなわち、集合的無意識の問題系だ。

それは端的に言えば、ユング的な世界観ということなのだろうけれど、ここでは、影と本体の関係は流動的であり、どちらが主であるかは確定できない。物語はつねに幻想的な方向に流れていく。

 

春樹はやや言い訳的なかたちで、ルイス・ボルヘスを引き合いに出しながら、「一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている」(661頁)と書いているけれど、事実、この小説で真摯に語られるテーマとは、ティーンのときの恋愛と性愛の主題であり、ほとんど呪いとも言える、青少年期における愛の問題である。それはたまたま出会ってしまった人との必然的な恋と愛の問題とも言えるし、そこまで惹かれたにもかかわらず、相手のことを決して十全には理解できないことの問題でもある。

 

おそらく小説の語り的に面白いのは、第1部で執拗にくりかえされる「きみ」という語りかけだ。あきらかにこの「きみ」の受け取り手は読者であるわたしたちではない。しかしながら、ほとんど毎文のように使用されるこの二人称単数は、読者ひとりひとりがその場で呼びかけられているかのような、あたかも読者であるわたしが物語の語り手が探し求める伴侶であるかのような、不思議な錯覚を作り出す。

小説における二人称は、たしかマルグリット・デュラスがやっていたけれど、デュラスがそれをどこか謎めいたかたちで使っていたとしたら、春樹のそれは、完全にそうした謎めいたニュアンスに傾いているわけでもない。わたしたちは、自分があたかも小説のキャラクターとして呼びかけられているように感じつつも、実際はそうではないことをつねにはっきりと理解できている。だから二人称による読者の物語世界への引き込みは、どこか中途半端という感じもするのだけれど、だからこそ、読みやすい(読みながらそこまでかき乱されることのない安全地帯にとどまれる)とも言える。良くも悪くも。

 

さて、読み終わってみて、面白かったのかというと、どうだろう。それなりに村上春樹を読んできた身としては、自己模倣とまでけなす気はないけれど、自己パロディの域を出ていないと言いたくもなるところ。しかし、言い訳がましい「あとがき」から察するに、これをこのようなかたちで書きあげることは、作家として必要な作業であったのだろうということは、なんとなくはわかる。

 

 

この小説を読みながら幾度となく思い浮かべたのは、『灰羽連盟』というアニメのことだ。2002年に放映されたこの番組はリアルタイムで見たけれど、見ていたときはまだ春樹の読者ではなかったので、このアニメが徹頭徹尾村上春樹的であることにはまったく気づいていなかったのだけれど、だからこそ、その後村上春樹を実際に読んでいったとき、このアニメの灰色のセピアトーンな感じ、空気としての物憂さ、ダウナーな手ざわりのなかにあるかすかな希望という配合が、何とも決定的なものとしていまでも自分のなかに残っているような気がしてならない。

新海誠にしても、濱口竜介にしても、それぞれが村上春樹的な主題系を引き継いでいるし、それらを独自のやり方で映像化しているけれども、やはり自分にとっての村上春樹の画像映像の原点は『灰羽連盟』なのだということをあらためて再確認した。

とはいえ、そこまで『灰羽連盟」が決定的な影響を自分のなかに残したことがわかった一方で、このアニメのプロットについてはいまひとつはっきりとは思い出せないのだった。

だからこそ、次の引用が、なにかとても腑に落ちた。

観察眼というほどのものでもない。でもこんな商売をやっていると、そういう勘みたいなのがだんだん身についてくるのよ。いろんな人がやって来て、いろんな話をする。私はただうんうんと聴いているだけ。話の内容はたいてい忘れてしまうけど、印象だけは残る(529頁)

そう、印象だけが自分のなかに残っている。

そしておそらく、村上春樹を読むと言うことは、そのような印象を自分のなかに残していくことなのだろう。