うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

強制的告白と消極的殺人者の後悔:濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』

村上春樹の同名の短編を原案とする濱口隆介の『ドライブ・マイ・カー』は、生き残ってしまった遺族の後悔、相手を見殺しにしてしまった消極的殺人者の罪悪感を基調とする物語であり、妻を亡くした夫が、母を亡くした娘が、自動車という閉鎖空間のなかで、過去の物語を共有していく。

しかし、和解したい相手はすでにこの世にいない。だから、ふたりにできるのは、自分の心と折り合いをつけることでしかないのだけれど、それはひとりではなしえないことでもある。だからふたりは原罪の場までともに旅をし、互いの傷を分かち合い、ともにふたりの心の傷を抱きしめることになる。

告白はひとりではできない。というよりも、心の修復をもたらすような告白は、聞き手を必要とする、と言うべきだろうか。そしてそれは、いわば偶然の出来事でなければならないだろう。「する」ものというより、「してしまう」もの。「聞く」ものというより、「聞かされる」もの。そうしないわけにはいかないもの、けれども、なぜそうするのか当事者ですらよくわからないでいるもの。

観客たるわたしたちもそのような告白に立ち会うことになる。しかし、それは不意打ちであり、心地よいとはいえない強度を備えた情念に当てられる。わたしたちはいつのまにか、得体のしれない烈しさを受け止めるという仕事の只中にいることに気がつく。

濱口の映画において、わたしたちは、告白する側というよりも、告白される側に身を置くことになる。

受動的に、しかし、受動的だからこそ逃れられないかたちで。

 

濱口は村上春樹の物語の骨格を大筋では踏襲する。そろそろ50歳に手が届こうかという俳優夫妻は互いに愛し合い、とてもうまくやってきているはずだが、にもかかわらず、妻である音は若い男と数人と不貞関係を持ってきた。それが始まったのは家福夫妻が子どもを幼くして亡くしてからのことである。家福は妻の不貞を知りながら、彼女に問い質すことまではできない。そして妻が急死する。彼女の心の内の真相は謎のまま残される。

それを家福は、妻が最後に関係を持った若手俳優の高槻とのつきあいをとおして探り当てようとするが、妻を慕う俳優の告白は、謎を解明するどころか、むしろ深めるばかりである。家福に変わって稽古場と住まいの運転を受け持つドライバーは、音の行為——家福を深く愛しながら、不貞関係を持つ――は矛盾してはおらず、彼女はまさにそのような人ではなかっただろうか、という仮説を述べる。

円満でありながら亀裂が走っている夫婦関係と、ふたりが亡くした子ども。若手俳優という第三の当事者。ドライバーという部外者。家福が俳優であり、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を演じているという設定——これらは原作どおりである。

 

その一方で、濱口は、音のキャラクター設定を大きく変えている。子どもを亡くした後に俳優から脚本家になったと変更することで、彼女の存在感は大いにアップしている。マイナーだが見過ごせない変更もある。小説では生まれて3日で亡くなったとなっているが、映画では幼児になるまでは生きていたことになっている。子どもの死の残した影響は映画のほうが色濃く表れている。夫婦が娘の命日に寺を訪れるシーンがある。

ドライバーであるみさきの設定にも変更がある。北海道出身で、10代のころから運転していたというところは原作どおりだが、彼女の母の死因が違う。小説では、酔っ払い運転による事故死。映画では、地滑りによって家屋の下敷きになって死んでいる。みさきも母と同じように生き埋めになったけれど、彼女はどうにか生き延びた。そして彼女は、助けられたかもしれなかった母を助けようとはしなかった。何かできたはずなのに何もせずに見殺しにした。小説では、ドライバーは傍観者的なコメンテーターにとどまるようなところがあるが、映画では、傍観者から主要人物へと、家福と似たような心の傷を抱える精神的な同胞になっている。

若手俳優の高槻は、ファンと寝たというスキャンダルのせいでフリーになっているというあたりが原作とは違うし、そのような不祥事を経てなお、女性ととりあえず体を合わせてみることに意味はあると言ってはばからないところがあり、その点では、原作よりも軽薄なキャラクターになっているが、その一方で、演技にたいする思い入れは小説よりも深いようである。

 

最大の変更点は、物語が東京で完結しない点だ。原作では単なるディテールにすぎなかったチェーホフの『ワーニャ伯父さん』が、映画の半分以上を占めるほどにふくらまされている。人生を無駄にしたという後悔と、それにもかかわらず仕事を続けていく希望が重要主題をかたちづくっているこのチェーホフ劇は、『ドライブ・マイ・カー』自体にたいするコメンタリーになってもいる。村上春樹もおそらくそのあたりを念頭に置いて『ワーニャ伯父さん』をディテールとして使ったのだろうけれど、村上春樹があくまでほのめかすようにしか用いなかったものを、濱口は徹底的に開拓する。

家福が広島で開かれる演劇祭に招かれたという設定になっており、彼は韓国出身の演劇祭主催者でドラマトゥルクとともに、アジア各国からの応募者をオーディションし、稽古をつけていく。そのようなメンバーで構成されるチェーホフは、当然ながら、多言語の芝居になるのだけれど、ここではそこにさらに手話が加わる。もともとはダンサーだったが、子どもを流産してから踊れなくなった聴覚障碍者の韓国人であるイ・ユナが参加するからだ。

彼女はドラマトゥルクであるコン・ユンスのパートナーである。こうしてもうひとつのカップルが登場することになる。彼女たちもまた、子どもの死という傷を抱えているが、家福夫妻とは違うやり方で、それを受け入れ、先に進もうとしているようである。

濱口は村上春樹の物語を推し進めているといってもいい。小説では、音は子宮癌を患って亡くなったことになっているが、映画では、家福に何かを話そうとした日にくも膜下出血で意識をなくし、そのまま亡くなっている。そして、その日、家福はなかなか家に帰ることができず、大いに時間をつぶしてから帰宅し、リビングに倒れている彼女の姿を見つけたのだった。村上春樹の物語が、他者の心の測りがたさを前面に押し出しているとすると、濱口の映画はそこに、罪悪感という主題をプラスする。

ここでは誰もが深く傷ついている。しかし、誰もがその傷と深く向き合えているわけではない。誰もが傷と折り合いをつけられているわけではない。

 

濱口の映画では、家福夫妻と、韓国人夫妻とが、合わせ鏡のようになっている。音は子どもを亡くしてから俳優を止め、脚本家としてデビューする。手話で演技する元ダンサーは、流産してから踊れなくなっていた身体が、チェーホフのテクストをとおしてふたたび動き出す。彼女たちは表現行為を経由することで、先に進んでいく道を見出す。

しかし音のやり方は、性愛的なものと深く結びついている。性的オルガズムが断片的に物語の言葉を紡ぎ出す。それを家福が記憶し、翌日、音に物語を語り直す。そしてそれを、音が脚本に仕上げていく。ここではセックスが存在の深淵に触れる行為となり、ふたりの肉体的な交わりが、迂回的な言葉の回路を開く。というのも、音が言葉を語り出すとき、それは彼女を「とおして」物語が紡ぎ出されるからであり、それはいわば一方的な告白のようなものであり、家福はその場でその語りにたいする反応を彼女に返すことができないからである。それに、彼は聞くことを拒むこともできない。彼女の無意識的な欲望かもしれないものを受け取りながら、彼女の真実を聞きながら、彼はその内容を理解することはできない。

そこに家福夫妻の親しさと遠さがある。

 

『ドライブ・マイ・カー』は3時間におよぶ長編だが、それは必要な長さでもある。深い心の傷と向き合うのは、簡単なことではない。それは時間を必要とする作業なのだ。

物語内容が、尺の長さを要求している。

 

濱口にとって車という閉鎖空間は特権的なトポスである。というのも、車のなかで始まった告白は聞かされるしかないものだからだ。運転中の車のなかから出ていくことはできない。暴力的に止めさせることは可能だが、深刻なトーンで始まるわけではない告白、気がつけばいつのまにか深刻なものになっていた告白に途中で介入することはきわめて困難でもある。聞き手はすでに話し手の語りに強制的に引き込まれてしまっているからだ。

語り手にというよりも、語られる言葉それ自体に。

 

ここで中心となるのは言葉のほうなのだ。キャラクターがあって言葉があるというよりも、言葉があるからこそ、それに触発されて、キャラクターが立ち現れてくる。

それはいわば言葉に身を任せることであり、自己をテクストに引き渡すことであり、自らを表現媒体と化すことである。それこそが、『ワーニャ伯父さん』をただひたすら音読するという作業をとおして、家福が俳優たちに直感させようとするところである。

家福の方法論は濱口自身の方法論でもある。その意味で彼の映像は、完璧にコントロールされた、完全に反復可能なものではなく、ライブの一発取りのようなところがあるのかもしれない。

濱口の映画における対話シーンは、奇跡的に出現する一回的なものを記録しようという試みなのだろうか。

 

しかしもしそうだとすれば、撮影という観点からするとかなり厄介なことになるだろう。一回的なものを完璧にカメラに捉えることはできるのかという問題が出てくる。

そのせいなのかはわからないけれど、濱口の映像は、俳優の演技が中心となるシークエンスと、情景が中心となるシークエンスで、かなり異なった美学に基づいて作られているように感じる。

何度も撮り直すことが可能である情景は、アートフィルムよろしく、すこしざらついた感じのショットだ。ロードムービー的なところがある『ドライブ・マイ・カー』には車が道路を走るシーンがたくさんあるが、それらはたとえば斜め上から俯瞰的に安定的に捉えられたり、リアウインドウから覗いたようなブレのあるショットだったりと、バリエーション豊かである。

その一方で、対話シーンでは、古典的ハリウッド様式とでも言おうか、話している方が互い違いにクロースアップになる。ひじょうに安定したショットだ。

濱口はシークエンスの持続性や強度を高める手腕に秀でている。彼は基本的にシチュエーションを作る作家であり、詩的なフレーズで雰囲気を作る作家ではない。

散文的なやり方であるとも言えるし、演劇的な対話で映画を作っているとも言える。

 

下手に小細工をせず、言葉を話す俳優たちの力を信じればいい、言葉に触発されて動きだす俳優たちの身体をそのまま撮ればいい、ということなのかもしれない。

たしかに、演技のなかで起こるかもしれない「なにか」を捉えるには、このようにプレーンなフレームが有効なのかもしれない。しかし、性質の異なる映像が並列されるのは、個人的にやや違和感がある。

シークエンスのあいだでの時間の経過を示すために、「〇年後」のようなキャプションを出すのは、少々芸がないように感じる。濱口はシークエンスの内部を作りこむのは上手いが、それらを繋ぐということになると、妙に不器用な感じがする。それは、意図的に持ち込まれた断絶というよりも、たんなる不器用さのように見える。

また、新海誠のアニメーションでよくある音楽PV的なシークエンス、コラージュ的にショットをつなぐことで、時間の経過を圧縮して提示するやり方が、2、3回用いられていたのは、ふたりがともに村上春樹好みの物語を好むという意味で、興味深い類似点ではないかという気もするのだけれど、同時に、物語の時間を大きく動かしていくことがふたりともあまり得意ではないことを示しているようにも思う。

 

なるほど、濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』はきわめて「正しい」映画だ。家福は自らの弱さを認める。それを受け入れて、真実から目を背けてしまったことを、それが彼と音の関係を不自然なものにしてしまったことを、嘆く。彼女を責め、そして、なにより、彼女ときちんと向き合うことができなかった自分を責める。

家福の演出する『ワーニャ伯父さん』に参加するのはアジア圏の俳優であり、舞台は多言語になる。俳優たちは、言葉を耳で聞きながらそのひとつひとつの意味を理解することはできないが、セリフであるから、その全体の意味内容はわかっている。そのようなテレパシー的な対話——理解できない言葉の音の向こうにある意味は理解できる――のなか、俳優たちは、自身の肉体をとおして、自身のプレゼンスをとおして、言葉にならないものを、言葉の字義的な意味には回収も還元もされえないようなものを、交換していくのであり、だからこそ、ここでソーニャのセリフは韓国手話によって表出されることはなんの違和感もない行為になるのである。*1

 

すぐれた映像作品であることはまちがいない。

村上春樹を2歩も3歩も進めた物語であることもまちがいない。

しかし、濱口の作品は、村上春樹の物語にひそんでいたドメスティックなところを奇妙にも増幅している部分があるのではないか。

キャストはインターナショナルではある。

映画の舞台もインターナショナルだ。東京に始まり、広島で展開し、北海道まで旅をし、最後は韓国で終わる。

けれども、この物語を稼働させる核となるエネルギーはリビドー的なもの、男女のセックスであり、したがって、ここで描き出される人間関係は、まずなにより、夫婦である。

たしかに家福とみさきの関係、俳優とドライバーの関係は、最初から最後まで、男女関係とは別のラインに置かれている。ふたりのあいだに恋愛的なものは起こらない。しかしそれは、ふたりがいわば鏡像的な関係にあるからではないか。そして、みさきが捉われているのは、母との関係である。もちろんこれはセックスを介在した関係ではないが、依然として家庭的関係、血縁関係ではある。

その意味では、家福と高槻の関係、ふたりのホモソーシャルな関係が小説ほど深められていない、というか、小説以上にそこが深められていないのは、この映画の物語力学上、当然の成り行きではある。

 

この映画は村上春樹にある潜在的な(そしてときには顕在的でもある)ミソジニーを乗り越えているといえるのかどうか。

どうだろう。

個人的に気になったのは、映画の最後から2番目のシークエンスだ。高槻が起こした事件が原因で演劇祭の開催が危ぶまれ、演劇祭の主催者から最終的な決断——中止するのか、それとも、家福が高槻が演じるはずだったワーニャ伯父さんを受け持つのか――を迫られる。猶予期間は2日。家福は北海道まで運転してくれるようにみさきに頼む。ふたりは本州を北上し、フェリーに乗って、みさきの母が亡くなった場所までドライブする。

それは追悼のドライブである。

そこで家福はとうとう音にたいする思いのたけを吐き出す。

そしてみさきを抱きしめる。

ふたりの抱擁は同志的なものであって、男女的なものではないだろう。しかし、二人の身長差のせいもあって、家福(西島秀俊)がみさき(三浦透子)を抱きしめるかたちになってしまう。まるで、自らの哀しみや憤りと折り合いをつけるために家福が誰かを必要としており、そのためにみさきが使われているかのように。

彼女が彼のケアをすることを強いられているかのように、というと言い過ぎかもしれないが、ここでの抱擁が双方向的なものなのかどうか。すくなくとも映像的には、家福がメインになっているように見える。

 

村上春樹ミソジニーだと批判することはたやすい。しかし、それでも、村上春樹が大きな歴史的問題(大東亜戦争における日本軍の問題)や社会的問題(オウム真理教の問題)を自身の物語に取り込もうとしてきたことは、指摘しておくべきだろう。彼は、彼なりのやり方で、戦後日本の問題と向き合い、小説という手段をとおしてそのような問題と対峙し、物語というレベルにおいて何かしらの解決をもたらそうと試みてきた。

濱口竜介にそのような問題意識が欠落しているとは思わない。彼の映画が、MeTooのような近年の社会的動向を踏まえていること、日本という狭い枠ではなく、アジア圏という広い地平のなかで、現代の問題を捉え直そうとしていることに疑いはない。

しかし、映画『ドライブ・マイカー』が最終的にフォーカスするのは、社会的歴史的問題それ自体ではなく、そのようなものを内面化した感性の問題であり、その結果、社会的なメンタリティの問題であったものが、個人レベル、個人間のレベルで止まってしまっているような感じもする。

村上春樹はキャラクターたちに特異な名前を与える。それはキャラクターに寓意性を与えるためだろう。家福という苗字が、「禍福」とかけた名前でないはずはない。福と禍と家が、名前のレベルですでに暗示されている。だから村上春樹のキャラクターがどれだけユニークであれ、どれだけわたしたちと似ていない存在であれ、彼ら彼女らはわたしたちの象徴めいたところがあるように思う。

では、濱口の映画のキャラクターたちにそのような寓意性があるのかどうか。彼の物語は、「みんな」の物語であり、「わたしたち」の物語なのかどうか。

 

そうでなければならないわけではない。

しかし、濱口の物語が繊細になればなるほどに、わたしたちの心の脆さや弱さを抱きしめる物語が、告白という回路をとおして、聞かないわけにはいかないというシチュエーションを、物語内のキャラクターにも、わたしたち観客にも作り出していくほどに、物語それ自体は普遍的なアピールを喪失していくようにも思う。

濱口の映画になにかしらの普遍性があるとすれば、それは物語内容ではなく、物語内容がわたしたちのなかに生み出す手ざわりやざわめきのほうにあるはずである。

 

それはたしかに強いものではある。それを受け取ることができる者にとっては。それを受け止めることができる者にとっては。

しかしそうできない者にとって、濱口の映画はどのように映るのだろうか。

 

『ドライブ・マイ・カー』は観る者を強制的に引きずっていくようなところはある。しかし、告白を聞かされることを拒むことはできない物語内のキャラクターたちとはちがって、わたしたちはこの映画を観ることを止めることはできる。

そのような者たちを引き留める、いわば暴力的なまでの吸引力が、ここにあるのかどうか。

 

そのような力を映像作品は持たねばならないのかどうか。

 

さて、どうだろうか。

しかし、濱口の映画を生理的に拒んでしまう層こそ、彼の映画に感化されるべき層であるように思えてならない。男性的価値観に縛られている者たち、泣くことも嘆くこともできない男たちは、はたして、この物語を辛抱できるだろうか。

こう言ってみてもいい。濱口の映画を称賛する人々は、すでに、意識高い系のリベラルではないか。そのような層の感性を再肯定され、再強化されるだろう。しかしそれは、そうした層と、そうでない層とのあいだの、亀裂や断絶を深めるばかりではないか。

 

濱口の映画の善意に、現実世界の悪意を覆すことが、はたして出来るのだろうか。

*1:手話の入った多言語の舞台はさすがに見たことはないが、多言語の舞台も、手話を交えた舞台も、過去に見たことがある。その意味では、ここで濱口が映画に登場させている舞台は、現代の演劇シーンにおいて実践されていることであると言ってよいだろう。以前書いた劇評を参照のこと。

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