まったく前情報なしで観た結果、「そうか、そういう映画なのか」と思った。宮城リョータの物語としての山王戦。
たしかに漫画版は桜木花道が主人公であり、彼の成長物語だった。赤髪の地毛のわりに内向的な性格の不良である桜木は、惚れっぽいがフラれてばかり。好きになった女の子がバスケット好きだからという不純な動機で始めたスポーツに、彼は次第にのめり込んでいく。最後には、みずからをバスケットマンと言い張るほどに。
そこには、バスケットにかんしても、恋愛にかんしてもライバルである流川がいた。彼らを導く先輩として赤城や小暮がいた。改心した問題児である三井がいた。桜木の悪友たちや、三井の取り巻きたちがいた。対戦チームの背景についてさえかなり詳しく語られることがあったし、山王の選手についても同様である。
そのなかで、たしかに宮城リョータだけが、深く語られないままだった。『The First Flam Dunk』はその欠落を埋める映画である。
ただ、そのために与えられた宮城の前日譚は、いかにもとってつけたものであるように感じる。彼は沖縄出身で、3歳上の兄ソータがいた。バスケットに秀でていた兄を追いかけるようにして、リョータはバスケットにのめりこむ。
しかし、そこに悲劇が訪れる。父が亡くなる。そして、亡くなった父の代わりに母を支えなければという兄もまた、命を落とす。リョータが求めたワンオンワンの続きよりも、友達との海釣りの約束を優先したその日に。約束を破る兄に、帰ってくるなとリョータが悪口を言ったその日に。
母はリョータとその妹を連れて沖縄を離れ、神奈川の団地に引っ越すことになる。
しかしリョータは、兄にたいする複雑な思いを抱え続けている。兄のようなプレイヤーになりたいという思いと、兄を思い出させるバスケットを続けて母を苦しめたくないという思いが交錯する。
映画は山王戦をメインに据えながら、そこに、リョータの前日譚をクロスさせていく構成を取っている。それは漫画ではまったく描かれることがなかった彼の幼い日々の記憶でもあれば、漫画のエピソードの隙間を埋めるようなものでもある。たとえば、三井がバスケット部員と大もめにもめた翌日。
三井と宮城は実はすでに出会っていたというエピソードが創作されてもいた。神奈川に引っ越してきたばかりで友達もおらず、団地周辺ではボールをつくこともできず、近所にあるのか、バスケットコートでひとりでドリブルに励んでいる彼に、兄のソータのように絡んできたのは、不良に落ちるまえの好青年の三井だった、というエピソード。
巧みに計算されたエピソードであり、漫画のプロットと矛盾をきたすことなく、それを豊かにするようなものではあった。しかし、たとえば近年、ガンダムで試みられているような(たとえば『閃光のハサウェイ』や『ククルス・ドアンの島』がそうだ)、パズルのようにすでにある物語の隙間にはめ込んでいくやり方であり、後付け感は否めない。
というよりも、もっとも問題含みだと思うのは、宮城にこのような悲劇的な生い立ちを与える必要が本当にあったのかという点だ。こう言ってみてもいい。何のために彼にこのようなバックストーリーが与えられたのか、と。
原作者がこの映画にクレジットされているからには、井上雄彦がこのような後付けを容認しているにちがいない。しかし、作者のお墨付きがあることと、物語としての整合性が保たれているかは、また別の問題である。
宮城のエピソードはたしかに漫画版になかった社会的な奥行きを作り出してはいる。しかし、『スラムダンク』という漫画がはたして、たとえば井上による『リアル』のように、社会派の物語をもともと目指していたのだろうかという疑問もある。
3Dはおおむねうまくいっていたと思う。すくなくとも、『Blue Giant』に見られたような、あからさまな違和感はなかった。しかし、どこか腰が高いというか(比喩的な意味でも、字義的な意味でも)、どこか重力に欠けているような印象も受けた。
とくにオープニングとエンディングは、音楽がちょっとやかましい感じもしたけれど、映画の雰囲気にはとてもよくあっていた。漫画版ではまったくセリフなしに展開された山王戦の最後の数十秒の沈黙の表現も、きわめて成功していた。
映画は最後に、山王の河津と同じくアメリカにバスケ留学したリョータが、試合で相まみえるところで終わる。それはこの映画が宮城リョータの物語であったことをあらためて確認する作業であったと言っていいし、宮城家の食卓にふたたびソータの写真が飾られるようになったことは、宮城家が本当の意味でソータの喪失を乗り越えたことを示していたと言っていいだろう。
それはたしかに感動的なエンディングであり、わくわくさせるエンディングではあったものの、どこかわざとらしい、泣けるお話、泣かせにきたお話になってしまっていたようにも思われところ。
この作り方は応用が利くだろう。これは宮城の物語だったけれど、同じようなやり方で、三井や流川、赤城や桜木、それどころか、山王の選手ひとりひとりにフォーカスして、同じ物語を別の視点から語り直すことができるはずだ。
ただ、それはまったく蛇足的なものであり、ファンサービス以上の何物でもないものになるはずだ。そしてそのような行為のためのスペースとして、同人というものがあったのではないか。
だからこう結論しても許させるような気がしている。『The First Slam Dunk』は公式による贅沢な二次創作だったのだ、と。