うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230215 『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』(2D字幕版)を見る。

3時間20分は長い。映像の美しさは素晴らしいと思うし、それを最大限生かした自然描写——森の木々、海の生物——には目を見張るものがある。しかし、ストーリーはまったく古典的な復讐劇と家族愛の物語であり、ここまでの装置を使ってそこまでオーソドックスなお話を演出する必要があるのかと思わずにはいられなかった。

たしかに、自然とのスピリチュアルな交流をビジュアル化するには、アニメかCGを用いるしかないのは確かではある。植物や生物との交流、とくに、尻尾のような自らの身体器官を相手と接触させることで、視覚的、映像的なかたちで互いの記憶を伝えるというやり方は、このように表現してこそ映えるものではある。しかし、それはどこか、ジブリの『ナウシカ』におけるオウムとの交信のように見えるものでもあった。とくに、金色の無数の触手のなかに亡骸が包み込まれていくラストシーン。

3時間を超すが、1本の映画というよりは、3つのエピソードの同時上映という感じで、ひとつの作品としてのまとまりは薄い。導入と戦闘、森から海への移住と海での生活、戦闘再びという3本立て。静かなシーンと動きのあるシーン、しみじみとしたシーンと勇ましいシーンとが交互に現れるようになっており、観客を飽きさせない工夫はふんだんになされてはいる。映像自体の遡及力もある。にもかかわらず、3時間以上を持たせるには、それでは足りないように思われた。

しかしそれは、前作を見ることなく今作を見たこちらの責任でもあるのかもしれない。正直、最後まで、なぜそこまで深い憎しみがあるのか、なぜそこまで復讐に執念を燃やすのかが、よくわからないままだった。だから、敵対するキャラクターが、納得できる理由があって執着しているというよりも、ただ単に執着心が深いように見えてしまい、人物造形に奥行きが乏しいように感じられてしまったことは否定できない。

家族愛をめぐる物語であったことは間違いないが、そこには、微妙なひねりもある。敵に追われる父、パルチザン闘争を率いる父は、父親というよりも、軍人としてふるまわざるをえない。父と子の関係にしても、上司と部下のようにならざるをえない。子どもたちが父に逆らえないのは、父としての権威があるからというだけではなく、彼が上官であるという理由のほうが大きいようですらある。そのような枠組みのなかにあって、父にとって理想的な息子である兄と比べられて引け目を感じてしまう弟の反抗の物語が繰り広げられる中盤は、ますます序盤と終盤と乖離しているように思われた。

ここで描かれる家族愛は、血縁を越えた拡大家族のそれである。異種族も、養子も、共に暮らしてきたからには、家族の一員であり、等しく愛の対象である。その意味では、『アバター』の家族物語はきわめて21世紀的なニュアンスを帯びてはいる。けれども、繰返しになるが、そのような物語を説得的に描き出すためにこれほどまでの映像装置が必要だったのだろうか。

アバター』は西部劇の裏返しなのだろう。先住民と闘う開拓者ではなく、先住民に加わり、開拓者たちに反旗を翻す物語。ここには、もしかすると、ベトナム戦争的な含みもあるのかもしれない。圧倒的な物量で攻めてきた最新の軍隊にたいして、土地の利を生かしたゲリラ戦を繰り広げるという物語。その意味で、主人公が元海兵隊員であるというのは、象徴的である。

この映画に環境保護の強いメッセージ性があることはまちがいない。クジラのような海洋動物を狩る船がいるが、彼らはその動物を食べるために狩るのではなく、アンチエイジングに効果があるという容量にしてボトル一本分の脳髄のためだけに狩るのである。18世紀、捕鯨船が、脂をとるためだけにクジラを狩ったように。

先住民は惑星の動植物とスピリチュアルな交流を持っている。それどころか、惑星自体がひとつの生命であり、先住民たちはそこから生まれ、そこに帰っていくようである。しかしこれはあきらかにガイア理論を思わせる。この点においても、『アバター』のネタは使い古されたものであり、ネタそれ自体の新味は薄い。

もちろん、新奇なものがつねに素晴らしいわけではない。オリジナルでなければ価値がないというのは、ロマン主義的な天才論に毒されすぎている。よくあるテーマを独自のかたちでミックスして提示すること、スタンダードなものをハイクオリティで作り上げるかできるか、そのようにして作り上げられたものがわたしたちを満足させてくれるのか、それこそが重要であるのは間違いない。その意味で、『アバター』はとてもよく出来ている。満足度の高い「商品」。