うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230220 『Blue Giant』を見る。

ひたすら熱く、ひたすら激しい。ここまで真っすぐな物語を見せつけられると、白けそうになるところだけれど、そうした皮肉さまでをも青白く燃えあがらせるほどの、ど真ん中ストレートの物語。

 

それはもしかすると、若さゆえの純真さなのかもしれない。

しかし、この物語がここまで熱いのは、それがジャズをめぐるものだからだろう。主人公である宮本大に言わせれば、ジャズは感情を表出させるものであり、だからこその本質は、演奏者の即興的ソロにおいて露呈するのだという。ジャズは演奏者の記憶や過去をもさらけ出すのである。

 

物語だけを抜き出してしまえば、『Blue Giant』はまったくありきたりだ。地方出身の若者たちが、都会で悪戦苦闘し、成功を重ね、ついには栄光を勝ち取る物語。無根拠な傲岸不遜さではなく、絶対的な自己信頼と圧倒的な努力をよりどころにして、スターダムに上り詰めていく物語。悲劇を乗り越え、大団円に至る物語。

そのような物語になぜここまで感動させられるのか。それは、キャラクターたちが、自らの有限な時間を極限的なところまでジャズに費やすという異常性にある。とんでもない打ち込み具合に、圧倒させられないではいられない。

 

アニメーションとしてはいまひとつという気もする。そもそも漫画それ自体が十分に音の聞こえるものであるのだから、そこに実音をかぶせるというのは、蛇足と言わざるをえない。作画にしても、3Dなのか、モーションキャプチャーなのか、技術的なところはよくわからないけれど、手書きではない箇所の映像が、ポリゴンの荒いバーチャファイターのように見えてしまったことは否定できない。やけに肩幅が広い。機械的にリズムを刻むところはまだしも、有機的にリズムが揺れる箇所では、違和感のほうが先に立つ。

感動を伝えるために、演奏に感動している観客の表情を大写しにするというやり方は、なかなか効果的ではあるものの、何度も繰り返されると、さすがに飽きてくる。とくに、泣き顔をいたるところでフィーチャーしているため、それをクライマックスのシーンで使われると、「またか」という思いを抑えられない。

 

だから、この映画でもっとも感心させられたのは、演奏シーンのリアリズム的な表象ではなく、2Dの手書きでしか表現できないような、比喩的な個所。黒い背景に白の線画だけになるところ、とんでもなくデフォルメされた構図になるところ。ライブパフォーマンスが惑星的な、宇宙的なところと共鳴し、奏者たちが煌めき揺らめく炎となるところ。映像が旋回し、歪み、ねじれる。アクロバティックな画面の動きに目を奪われる。

ジャズピアニストの上原ひろみが楽曲を担当しているので、音楽自体はとても素晴らしいのだけれど、その素晴らしさを増幅させているのは、リアルによせた演奏シーンではなく、回想と現在が混ざり合い、奏者と観客とが重なり合うシーンであったというのは、アニメーションの凄さがどこにあるのかをあらためて思い知らされた気がした。