うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

静かに幸せな感じ:ロレンツォ・マトッティ『シチリアを征服したクマ王国の物語』

プーチンによるウクライナ「侵攻・侵略 invasion」が進行するなか、『シチリアを征服したクマ王国の物語 La Fameuse Invasion de la Sicile par les ours』というタイトルは不吉に響く。邦訳は「征服」だが、原語は「侵攻・侵略 Invasion」。直訳すれば、「クマたちによるかの有名なシチリア侵略」というところだろう。

監督のロレンツォ・マトッティは、イタリアの作家ディーノ・ブッツァーティが自ら絵も手掛けた『La famosa invasione degli orsi in Sicilia』をベースにしている(福音館文庫から、宮沢賢治の研究者で全集の編者でもある天沢退二郎と増山暁子による翻訳が出ている)。そちらは読んだことがないので、マトッティの絵や話がどこまで原作をなぞっているのかはわからなかったけれど、公式ホームページにすこし掲載されているブッツァーティの挿絵を見るかぎり、このアニメーション映画は、オリジナルのテイストを尊重しつつも、そこに独自色を足していると言っていいだろう。

 

入れ子状の物語になっているが、枠部分と中身の物語は完全に切り離されてはおらず、メタコメント的につながる。そして映画の最後では、両者が地続きであるらしいことがほのめかされる。

ふたりの旅芸人が寒さをしのぐために洞窟に入っていくと、そこには老いたクマがいた。ふたりは勝手に入り込んだ許しを請うために、芸を披露することになる。アシスタントの少女が巻き上げ式の背景をセットし、太鼓腹の座長の男がギターを鳴らしながら、「シチリアを征服したクマ王国の物語」を始める。

クマたちの王であるレオンスは、息子のトニオに川で魚の取り方を教えている。しかしそれに夢中になって目を離したすきに、トニオは川に流され、人間たちに誘拐されてしまったらしい。息子を失ったレオンスの絶望は深い。何もできなくなり、冬眠を前にした群れ全体も意気消沈する。人間の住んでいるところに連れていかれたのかも、という古老の言葉で、王は覇気を取り戻し、群れを率いて山を下りていくが、クマたちが目指すのは暴君の大公が支配する場所だった。

クマたちが迫ってくることをお抱えの魔術師デ・アンブロジスから聞かされた大公は、クマ狩りとばかりに、大軍を従えて意気揚々と出発する。大公を怖れる魔術師は、クマたちを罠にかけようと画策するが、ことごとく裏目に出る。幽霊が潜む城も、クマ食いのグールが営む食堂も、クマたちをひるませることはない。とうとう城壁に囲まれた王国までたどりついたレオンスは、国の人間が集うサーカスで綱渡りをやっていた息子のトニオと再開するが、そのとき、大公がトニオを射殺する。クマ側も大公を撃つ。父の腕に抱かれる息絶えた息子を目の当たりにした観客たちは、魔術師に、トニオを生き返らせてくれと嘆願する。それを受けて、魔術師はあと1度しか使えない魔法でトニオを生き返らせる。こうしてやっと親子は再会し、大公に変わってレオンスが王位につき、みんなは幸せに暮らしたのだった。めでたしめでたし。

というハッピーエンドの物語が、ふたりの旅芸人の出し物だが、それを聞いた洞窟の主であるクマは笑みをもらす。というのも、彼に言わせれば、それは人間の側からの物語であって、クマの視点で語られたものではないからだ。こうして、クマはこのハッピーエンドの物語の後日談を語り出す。わりと素直な親子離別の冒険譚であった前半に比べると、後半は暗く重苦しい話になる。

レオンスが収める王国では人とクマが共存する。トニオは魔術師と親しくなり、魔法の研究に励む。その一方で、大公の軍隊と最初に接触したときから人間の文化に惹かれていたサルペトルは、王位簒奪をもくろむ。クマの誠実さや純真さを信じるレオンスは、自らの信念により、国を混乱に陥れる。魔術師の杖が盗まれたことで人間を疑い、銀行から金が盗まれたことで魔術師を投獄し、サルペトルが開いたと思しきクマたちの夜の秘密のカジノで酔いつぶれながらギャンブルに興じるトニオを投獄する。

そこで活躍するのはデ・アンブロジスとトニオの友人であるアルメリーナ(奇しくも、旅芸人のアシスタントの少女と同じ名前、同じ顔)。彼女の尽力によって、魔術師の始祖が封じ込めた海蛇が海の底からよみがえる。レオンスは闘いこそクマの出番とばかりに先陣を切って船を出す。盗んだ杖で魔法を使おうとしたサルペトルは魔術師に逆にやり込められて海中に落下する。レオンスは勇敢に海蛇と闘い、吞み込まれそうになったところを、魔術師の助けを借りたトニオがとどめを刺す。

人間にかぶれ、人間の悪癖をリプレイしようとしたサルペトルは滅びたが、レオンスもまた死の床についている。彼は遺言として、人間の社会の複雑な生活を避けて、山の自然のシンプルな生活に戻るのがクマにとってよいことだとトニオに告げる。そしてクマたちは去っていく。トニオはアルメリーナと別れる。

という悲しい話が、老いたクマによって語られる。それを聞いた旅芸人たちも悲しむが、クマは少女を呼んで、さらなる真実を告げるのが、そこは映画のなかでは明かされない。クマは冬眠することにする。旅芸人たちは次の街めざして去ってく。そこで映画は幕切れとなる。

 

宮崎駿のような手書きセル画の有機的な感じでもなければ、現代のディズニーのような最新技術を駆使したハイパーリアリズムでもなく、ある意味ではチープなアニメーション。クマの描き方となると、出来の悪いポリゴンのように見える。人間のキャラクターにしても、デフォルメが強い。太鼓腹、そばかす、棒のような手足。

日本の漫画というより、カリカチュア的な造形と言ったほうがいい。あれこれの既存の型にはめるのではなく、人間が実際に持っていそうな身体的特徴を極限まで誇張することで、現実にはありえないが、現実から出発しているがゆえに、現実と完全に乖離しているわけでもない、不思議なリアリティが生まれてくる。

日本のアニメに慣れた目からすると違和感だらけの表象ではあるが、芯のとおった美意識があることはまちがいない。好き嫌いはともかく、表現としてこうなっているのだと納得させられる。

 

色使いが独特。山は、自然らしからぬ色で、ややきつめのコントラストで表現される。クマにしても、オレンジがかったブラウン。全体的にけばけばしい感じ。その一方で、映画の最後のクレジットで使われる空の色は、とても控えめな、淡いエメラルド色。どちらも、自然そのままの色を使うことをあえて拒否しているかのよう。

 

タッチが一様ではない。人間は手書きの雰囲気を狙っているが、クマは3D的(とくに鼻の出っ張り)。人間のキャラクターはかなりデフォルメを効かせたデザインになっているのに、クマのほうは画一的。そして、クマであれ人間であれ、群集として使う場合は、コピペであるかのように、同じ造形。

レゴブロックで作ったようなモブキャラクターのマスゲームがところどころでさしはさまれる。キャラクターをシンメトリックに配置し、シンメトリックに動かす。フラクタル的な感じと言ってもいいし、鏡に乱反射しているような感じでもある。ダンスのような動きのあるシーンで、そこに、音楽がシンクロするので、幾何学的なところがいっそう強調される。ひじょうに人工的で、手抜きに感じられるところだが、ここに監督の美意識が集約されているようにすら思う。

というのも、コピペ的群衆で画面を充たすという戦略は、全編にわたって用いられているからだ。たとえば王国を去っていくクマたちの列は異常なほどに長く続いていく。クマ一頭一頭は区別がつかない。列になったクマたちが見えるだけだ。

かといって、人間や動物を匿名的に描くことが監督のねらいなのかというと、そういうわけでもないようには思う。匿名的な個体と、名前のあるメインキャラクターたちを視覚的に区別しようという意図でもないだろう(というのも、レオンスやトニオがすぐに見分けられるのは、彼らの顔つきが全然違うからというより、体の大きさや洋服や装飾品があるからだ)。古典的な均整ではないけれど、フレームのなかをなにかしらのパターンで充たことが、マトッティの美意識なのだろうかという気がする。

 

とてもフランス的だなと思うのは、言葉の朗誦がこのアニメーション映画のひじょうに重要なパートを担っていることだ。そもそも旅芸人たちが言葉を語る職人である。海蛇を呼び覚ますためにアルメニーナが呪文を唱えるシーンは、自然主義的に迫真の演技というよりも、ドラマティックな、つまり、ある意味ではわざとらしい朗読である。言葉が大切にされているが、その言葉は、作りこまれたセリフである。

 

この映画を寓話と捉えることは可能だ。たとえば、クマを、別の国の人間とする解釈。つまり、これは、異種族のすれ違いではなく、異なる人間集団の衝突の物語であり、すなわち、人類史で繰り返し繰り広げられてきた戦争の物語、そして、誰が語るのかによって、戦争の物語がいかに歪められたかたちで、一方に都合がよいかたちで、引き継がれていくのかという物語であり、そうした物語を正すために対抗的な物語で補完する物語である。

しかし、そうした政治的な解釈はまちがいなく許容されてはいるけれど、強く推奨されているわけではないように思う。クマたちは人間の文明の複雑さと手を切り、かつての自然のなかでの生活に帰っていくけれど、自然に帰れというメッセージが絶対的な真実として提示されているのではない。

ここで立ち上がってくるのは、個人の想いではなく、集団の生活——伝統的な生活様式と言ってもいいし、そのような様式の基本にあったはずの自然環境や社会状況と言ってもいい――に無理に逆らわないことが、いかに大切であるかという点かもしれない。そこには、集団のために個の望みを犠牲にすることも含まれている。だから、トニオにとって、自分だけ人間社会に残ってアルメニーナと幸せに暮らすという可能性はありえなかったのだろう。マトッティイは、ディズニーだった演出過剰気味に美しく仕立て上げたかもしれない別離のシーンを、控えめな抒情性をただよわせながらさらりと流す。まるでふたりの別れは必然であるかのように。

 

老いたクマが旅芸人のアシスタントのアルメニーナに告げたさらなる真実がなにであったか、わたしたちは知ることはない。しかしもしかすると、彼こそ、トニオであったのかもしれない。そして旅芸人のアルメニーナは、物語のなかのアルメニーナだったのかもしれない。もしそうだとすれば、ふたりは長い時をへて再開できたと言っていいのかもしれない。

そんな静かに幸せな感じが最後に残る。