うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

猜疑と信頼をめぐる思想戦:劉慈欣『三体』

真実の宇宙は、ただひたすらに暗い . . . 宇宙は暗黒の森だ。あらゆる文明は、猟銃を携えた狩人で、幽霊のようにひっそりと森の中に隠れている。そして、行く手をふさぐ木の枝をそっとかき分け、呼吸にさえ気を遣いながら、いっさい音をたてないように歩んでいる。そう、とにかく用心しなきゃならない。森のいたるところに、自分と同じく身を潜めた狩人がいるからね。もしほかの生命を発見したら、それがべつの狩人であろうと、天使であろうと悪魔であろうと、か弱い赤ん坊であろうとよぼよぼの老人であろうと、天女のような少女であろうと神のような男の子であろうと、できることはひとつしかない。すなわち、銃のひきがねを引いて、相手を消滅させること。この森では、地獄とは他者のことだ。みずからの存在を曝す生命はたちまち一掃されるという、永遠につづく脅威。これが宇宙文明の全体像だ。(『黒暗森林』下299頁)

劉慈欣『三体』はSF物語のレパートリーのオーソドックスなところを突いている。異星人侵略者ものであり、宇宙戦争ものである。異星人が攻めてくることがわかった地球は、科学技術において大きく人類を上回る三体人を凌駕すべく、技術的なブレイクスルーを目指して惑星規模で協力していく。

第一巻には中国近代史の影が色濃く残っていた。文革をめぐる中国国内の混乱が物語の基調を定めているばかりではない。三体惑星に向けて地球侵略のメッセージを送るという自殺行為としての解放願望の起源は、閉塞した社会状況にほかならなかった。『三体』はまちがいなく20世紀後半の中国史にたいするコメンタリーとして始まっていた。

しかし、二巻『黒暗森林』、三巻『死神永生』と巻が進むにつれて、物語の射程は中国から世界へと、世界から宇宙へと拡大していく。その結果、中国色は大いに後退していくし、地球内になった三体に与する秘密結社と、それを抑え込もうとする地球政府との内ゲバも消滅していく。物語の舞台は宇宙へと移行していき、そこでは、今度は、徹底抗戦派と悲観主義派という別の対立軸が迫り出して来る。

物語はますます拡大していく。地球と三体のあいだの闘いは、宇宙規模の闘いのなかに位置付けられていく。入れ子構造のように、ステージが無限に後退していくのである。最終的には、次元をさえ越えた闘いに突入していく。

相互不信こそが宇宙の掟であり、先制攻撃こそが生存の鍵である。

 

『三体』には意外なほど直接対決のシーンがない。三体側の科学技術の現れである装置は出てくるが、三体人を含め、いわゆる宇宙人の描写のようなものは薄い。

なぜなら、『三体』はつまるところ、頭脳戦の物語だから。ここでクローズアップされるのは、長期的な戦略であって、その場その場の戦術ではないから。こう言ってみてもいい。『三体』においてキャラクターたちが思考をめぐらすのは、敵がどのような手を打ってくるかであり、究極的には、敵も含めてわたしたちはいったいどのような「ゲーム」をプレイしているのか、ゲームの理はいったい何なのかというメタ的な問いだからだ。

 

 

次のような言い方もできるかもしれない。『三体』の物語を稼働させるのは、いわゆる科学技術的なもの、未来的なものではなく、観念的なものの対立であり、その意味で、『三体』は思想戦の物語なのだ。

というよりも、惑星自体が侵略されるというシナリオは、必然的に、大きな問いを提起する。誰が地球から逃れることができるのかという問いは、人権や平等といった近代的な理念を根底から揺るがすことになる。

最大の問題は、だれが去り、だれが残るかってことだ。これは普通の不平等とはわけが違う、生存権の問題になる。エリートだろうと、金持ちだろうと、一般庶民だろうと、だれかが去り、だれかが残るってことは、人類のもっとも基本的な価値体系と倫理の最低ラインが崩れ去ってしまうんだ。生き延びる道を与えられた人間が一方にいるというのに、残される人や国家が座して死を待つわけがないだろう。双方の対立はますます激しくなり、しまいには世界が大混乱に陥る。そして、だれも逃げられなくなる!(『黒暗森林』上70頁)

『三体』は哲学的な物語ではないとはいえ、ここでは、さまざまな哲学的問いが提起され、それが物語の骨格をかたちづくっていくことになる。というのも、このような弱肉強食的なモチーフは、物語として肉付けされる(たとえば、暴動が発生する)というよりも——とはいえ、年代記的に進んでいく三巻ではこの方向性に舵を切っていくし、この意味で、三巻は前二巻とはかなり物語運びのスピードが違う——、対話として展開されていくからである。

そのなかで、世界政治についての作者の鋭い洞察がきらめく。

大国が全力で技術を発展させることは、実際は、小国が世界の覇権を握る道を切り拓くことなる。なぜなら、技術の発展にともない、大国が有する人口と資源というアドバンテージはいずれ重要ではなくなる一方、技術は小国にとって地球を動かす梃子となるからだ。たとえば原子力。(『黒暗森林』上70頁)

それは危険な省察でもある。というのも、仮想された極限的な状況において好まれるのは、専制主義的なもの、全体のために個の自由を制約するような政治体制であり、あたかも作者がそのような政体を支持している——ここで劉が現代中国の作家であることを思い出さずにはいられない——かのように見えてしまう。ハリウッドがアメリカの民主主義的価値観を海外に売り込むソフトパワーとして機能したのと同じように、劉の『三体』もまた、結果的に、中国の強権的な社会体制を売り込むソフトパワーとして機能している側面は否定できないのではないか。

人口密度の高いこの飢えた大陸において、民主主義は独裁制よりも凶悪であることが判明し、だれもが社会の秩序と強力な政府を切望した。従来の秩序は崩壊した。人々の関心は、政府が食べものと水とベッド一台分の居住スペースを提供してくれるかどうかだけに集中し、それ以外はどうでもよくなった。この大陸の人類社会は、寒波がつづいて湖面が凍りつくように、全体主義の誘惑に屈した . . . ファシズムをはじめ、とうの昔に見捨てられていたあらゆる思想が、歴史の墓地から這い出してきて世論のメインストリームとなった。宗教の力も再発見され、おおぜいの人々がさまざまな信仰や教会のもとに集まった。かくして、全体主義よりもさらに古い、神権政治というゾンビが復活した。(『死神永生』上286頁)

それはたしかにサブプロット的なものにすぎないとはいえ、このような副主題が、『三体』という小説に奥行きを与えている。

 

異星人襲来というSFという道具立てを取り払ってみると、『三体』の物語世界のインスピレーションとなっていたのは、冷戦時代の軍拡競争であり、スパイ合戦であり、核兵器の先制攻撃をめぐる腹の探り合いではなかったかという気がしてくる。「猜疑連鎖」(『黒暗森林』)や「抑止ゲーム理論」(『死神永生』)というフレーズはそのような歴史的状況に潜在していたパラノイア的不安の巧みな言語化だ。

『三体』はきわめて20世紀後半的な物語ではなかったかという気がしてくる。

 

しかし、ここで付け加えておきたいのは、『三体』はつねに、劣勢側の視点に立つ物語であるということだ。地球は科学技術レベルにおいて圧倒的に三体人に劣っているのであり、いかにして追いつき追い越すのかが決定的な重要性を帯びる。ここで繰り広げられていくのは、いかにして小国が大国に勝利することができるのかのシミュレーションである。その意味で、もしかすると『三体』は『三国志演義』的な物語なのかもしれない。

 

そのような思想的、歴史的、物語的な重層にもかかわらわず、『三体』が読みやすい小説に仕上がっているのは、これがキャラクターを主軸に据えた物語だからだろう。とくにその傾向は二巻以降顕著であり、女性キャラクターの造形と相まって、かなりクリシェめいた感じがしてくるところではある。もちろん、ありきたりにロマンティックな物語は、定番だからこその強さはある。しかし、ここはいかにもジャンル的な書き物という感じが強い。にもかかわらず、もしかすると、劉慈欣自身は、自分の作ったキャラクターたちをかなり気に入っているのではないかという気もする。

そのなかで独自の魅力を放つのは、粗忽だが強靭な意志を持つ史強である。なるほど、彼もまたクリシェ的かもしれない。与えられた責務を全うすると同時に、独自の生の美学を持ちあわせている任侠的な人物。しかし、彼がいるおかげで、ストーリーが引き締まっている部分は多い。

 

『三体』には科学にたいする信頼がある。だからこそ、ここでは基礎研究が称えられる。

「敵はなにを恐れているんだと思う?」

「あんたちだよ! 科学者だ! しかもおかしなことに、研究が実用性から遠のけば遠のくほど恐れられているみたいだ……だからこんなに容赦のないやりかたをしてるんだよ。あんたらを殺すことが問題の解決になるなら、全員とっくに殺されてる。しかし、いちばん有効な方法は、思考をくじくことなんだ。ひとりの科学者が死んでも、べつの科学者が研究を引き継ぐ。しかし、考えをめちゃくちゃにされたら科学はおしまいだ」

「つまり、敵が恐れているのは基礎科学だと?」

「ああ、基礎科学だ」」(『三体』154頁)

だからこそ、『三体』において最大の武器は、科学技術ではなく、物理法則そのものになる。

想像してみてくれ。技術的にほとんど無限の能力を持つ文明に対して、もっとも脅威となる武器はなんだと思う? 技術面からじゃなくて、哲学的な観点から考えてみて . . . そのとおり、物理法則はもっともおそろしい武器なんだ。(『死神永生』下362頁)

物理法則を用いた攻撃は、たとえば、違う次元からの防ぎようのない攻撃となるばかりか、宇宙そのものを呑み込む、環境破壊的な攻撃となる。世界自体が崩壊していくのである。

ひとつだけたしかなのは、この宇宙が死にかけているということだ(『死神永生』下365頁)

 

劉慈欣が『三体』三部作をとおして提示しようとしたのは、ある種の平和主義だったのかもしれない。というよりも、侵略者と戦うことが世界の既定路線となっていくなかで、勝ち負けではない第三の道を探っていくことが、物語として展開されているからだ。

どうして宇宙に追い返して死なせなきゃいけないんですか? 彼らに土地をあげて、わたしたちと共存してもらうことはできないんですか? そうできたら素敵じゃない?(『黒暗森林』上213頁)

でも、きみがやったことはまちがっていなかった。人類世界がきみを選んだのは、つまり、生命その他すべてに愛情をもって接することを選んだということなんだよ。たとえそのためにどんなに大きな代償を払うとしてもね。だからきみは、世界の願いをかなえた。人類が重んじる決断を行い、人類が選んだことをやり遂げた。きみがやったことは、ほんとうに、なにひとつまちがっていなかった . . . 愛はまちがいじゃないからね。(『死神永生』下382頁)

そのような愛のメッセージの体現者たちを女性に割り振るという作者の選択を、女性賛美的と称賛するか、ジェンダーバイアス的と批判するかは、一筋縄ではいかない問題をはらんでいる。