うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

拡散し、集合するわたしたち:ヴァージニア・ウルフ、片山亜紀訳『幕間』(平凡社ライブラリー、2020)

ヴァージニア・ウルフの遺作である『幕間』はおそらくウルフの小説のなかで読み直した回数が最も多いテクストになるはずだ。大学院のゼミで読んだからその時にすでに何度か通読としたせいもあるけれど、アマチュアの野外劇として演じられるイングランドンの歴史物語と、ドメスティックな物語(夫婦の、親子の物語)が交錯し、ローカルなコミュニティの卑近な問題(屎尿ため)と世界史的な趨勢(第2次大戦の暗い影)が同じ俎上に載せられ、最後は人類史的な遠景が飛び出す絵本のように迫り出してきて、オープンエンドで唐突に終わる。そんなとりとめのなさが好きだったのだと思う

アイサは縫いものを置いた。覆いを掛けた大きな椅子がそこここで巨大になった。そしてジャイルズも巨大になった。そしてアイサもまた、窓を背景に巨大になった。窓は色のない空をいっぱいに映し出した。屋敷はもう避難所ではなかった。それは道が造られる前の、家々が造られる前の夜だった。洞穴に住む未開人たちがどこかの岩場の高台から見た夜だった。

そして幕は上がった。彼らは話を始めた。(264頁)

Isa let her sewing drop. The great hooded chairs had become enormous. And Giles too. And Isa too against the window. The window was all sky without colour. The house had lost its shelter. It was night before roads were made, or houses. It was the night that dwellers in caves had watched from some high place among rocks.

Then the curtain rose. They spoke.

 

10数年ぶりに新訳で読み直してみて、記憶していた以上にとりとめもない小説だという印象が深まったのは、その前に『波』の新訳を読んでいたせいかもしれない。

読んだ回数こそ『幕間』に劣るものの、もっとも精読したウルフの小説は『灯台へ』になると思う。映像的なしりとりのように断片的な短い章がつながっていく――章の最後のほうに出てきたキャラクターが次の断片における焦点人物となる――かたちでつねに横滑りするように物語が進んでいく『灯台へ』がひとつのテクストとして統合されているのは、地の文がキャラクターの内面の声を濃密な文体のなかに絡め取っていくからだろう。拡散しそうになる物語や情景を、文体が引き留めていた。

『波』はおそらくそうした文体による統合をあえて放棄した実験的な作品だった。

それらを経由した『幕間』は、『灯台へ』のような映像的しりとりでシーンとシーンがつながれていくけれど、そこには、文体による強制的な統合が働いていないように感じる。野外劇のスクリプトがそのまま混入してくる『幕間』は、フローベールの『ボヴァリー夫人』のかの有名なシーン――野外での農業品評会と屋内での情事が同時並行的に、遠近法的にテクストに取り込まれる――に似ているような気がするけれど、フローベールの文体に比べると、物語世界の音を我が物として取り込んでしまおうという独占欲がウルフの地の文には希薄であるようにも思う。ここでウルフは、物語世界の声や音を、内面の声や歴史の響きを、いわば未加工のままに、生のままに、自律する異物として自らのテクストのなかに同居させようと目論んでいるように思う。調和的な不協和音、または、不協和音的な調和。「ガラクタ、屑、断片——われわれはそんなものからできているのだろうか? [Scraps, orts and fragments, are we, also, that?]」(229頁)

 

そのような集合と離散は、野外劇を創作したミス・ラトロープが試みたことでもある。

蓄音機は有無を言わせない断定的な調子で、勝ち誇ったように告別の辞を告げていた。集いしわれら、散り散りに。それでも――と蓄音機は言い募った――あのハーモニーが創りしすべてを忘れずにいよう。(237頁)

The gramophone was affirming in tones there was no denying, triumphant yet valedictory: Dispersed are we; who have come together. But, the gramophone asserted, let us retain whatever made that harmony.

ウルフの小説はどれも、芸術家小説的なところがある。ウルフの投影とみなしたくなるような芸術家がひとりはいる(しかし、興味深いことに、小説家ではなく、画家だったり劇作家だったりする)。それから、これまたウルフの投影とみなしたくなるような、もう若くはない夫人がいる。敵対的とは言わないけれど、愛情たっぷりというわけではない夫がいる。そして夫人の庇護対象となる若者たち。

『幕間』も基本的にそのような物語類型にのっとっているけれど、ほかの小説と同じように、最終的に物語の重心となるのは夫婦の物語であり、芸術の問題も、歴史の問題も、大きな物語はみな、キャラクターたちのつつましい生活空間やプライベートな心理世界のなかに折り込まれていく。

しかし、それがどこかでふと自然に開かれる。生命の大きな流れにチャネリングされる。それはよろこばしいだけの瞬間ではないけれど、そこになにか突き抜けたほの暗さがある。そのウェットな明るさは、笑いをさそうようなコミカルではないけれど、涙を浮かべたほほえみのようなユーモアがあり、知的な感情がきらめいている。

 

片山亜紀の翻訳は、一言で言うと、訳しすぎだと思う。本文中に割注が多いのは、学術的にはひじょうにありがたいけれど、小説として読むにはわずらわしい。また、ウルフが凝縮的に、散文詩のように、謎めいたニュアンスで書いているところを、あまりもわかりやすくしてしまっている気がする。それはもちろん、読者を思ってのことで、悪気はないどころか、善意の介入なのだろうけれど、そのせいでオリジナルの文体的な濃度が薄まり、原文以上に拡散的な物語として提示されているきらいはあると思う。

とはいえ、これをどう訳せば日本語の小説として成立するのかとなると、そこは皆目わからない。それぐらいこの小説はさまざまな引用の織物で出来ている部分があるし、野外劇自体がイングランドの歴史劇であり、なにかしらの注釈的介入が必要であるのはまちがいないからだ。しかし、片山のやり方が成功しているかというと、個人的にはやや否定的である。

 

「しかし兄と妹にとって、血を分けた体は障壁というよりも靄みたいなものだった。いかなるものも――どんな喧嘩も、どんな事実も、どんな真実も――兄妹仲を揺るがすことはなかった。妹に見えるものが兄には見えず、兄には見えるものが妹には見えず、そうやって永遠に繰り返していくだけのことだった。[But, brother and sister, flesh and blood was not a barrier, but a mist. Nothing changed their affection; no argument; no fact; no truth. What she saw he didn’t; what he saw she didn’t—and so on, ad infinitum.]」(34頁)

 

「一人がパンを切り、もう一人がハムを切る。こういう共同作業には安らぎが、絆を強めてくれるものがあった。[One cut the bread; the other the ham. It was soothing, it was consolidating, this handwork together.]」(44頁)

 

「哀れな人――確信のあることを口にするのも怖いなんて . . . [A poor specimen he was; afraid to stick up for his own beliefs . . . ]」(63頁)

 

「だれも訪れたことのない大地の、いかなる闇の洞穴へとゆくのでしょう? 風に揺れる森へとゆくのでしょうか? あるいは星から星へと飛び移り、月の迷路で踊るのでしょうか? あるいは…… [To what dark antre of the unvisited earth, or wind-brushed forest, shall we go now? Or spin from star to star and dance in the maze of the moon? Or. . . .]」(64頁)

 

「ぼくたちの役目は . . . 観客になること。でも、これもとても大事な役目だからね [Our part . . . is to be the audience. And a very important part too.]」(73頁)

 

「みんなの心も体も近すぎるくらい近いのに、充分な近さではなかった。一人で気ままにものを感じたり考えたりできないと、一人ひとりが別々に考えながら、でも居眠りすることもできなかった。近すぎるくらい近いのに、充分に近くない。近すぎるのに、充分な近さじゃない。だからみんなソワソワしていたのだった。[Their minds and bodies were too close, yet not close enough. We aren’t free, each one of them felt separately to feel or think separately, nor yet to fall asleep. We’re too close; but not close enough. So they fidgeted.]」(81頁)

 

「話の筋って重要だろうか? 彼女は体を動かして右肩越しにうしろを見た。筋なんて感情を生むためだけのもの。感情には二つしかない――愛と憎しみの二つしか。筋を無理してわかろうとしなくていい . . . 筋なんて気にしなくていい、筋なんて何でもない。[Did the plot matter? She shifted and looked over her right shoulder. The plot was only there to beget emotion. There were only two emotions: love; and hate. There was no need to puzzle out the plot . . . Don’t bother about the plot: the plot’s nothing.]」(112頁)

 

「茂みの上からは彷徨う声がいくつも漂ってきた――肉体を持たない声、象徴性をまとった声だと、彼女には思えた。聞くともなしに聞いていると、何も見えないながら、茂みの向こうで見えない糸が肉体を持たない声と声をつないでいるのが感じられた。[Over the tops of the bushes came stray voices, voices without bodies, symbolical voices they seemed to her, half hearing, seeing nothing, but still, over the bushes, feeling invisible threads connecting the bodiless voices.]」(185頁)

 

「ああ、でもわたしはここで一本、あちらで一本と、糸をただちょいちょいとつまんでいるわけじゃない。幾多の彷徨う体、幾多の漂う声を大鍋に煮立て、その不定形の塊から世界を再現させるのがわたし。[Ah, but she was not merely a twitcher of individual strings; she was one who seethes wandering bodies and floating voices in a cauldron, and makes rise up from its amorphous mass a recreated world.]」(187‐88頁)


「観客なんて悪魔だ。観客抜きで芝居が書けたらいいのに――これぞ芝居というものを。でもここでいま、わたしは観客を前にしている。[Audiences were the devil. O to write a play without an audience—the play. But here she was fronting her audience.]」(218頁)