うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。暗誦の教育的効果。

特任講師観察記断章。漢文の素読はとても意味のあることだったのではないか。読み下し文には独特のリズムがあり、定型的な表現がある。韻文とまではいわないが、散文というにはあまりにも定式化されたリズムとメロディがある。だから、暗誦するところまでやれば、言葉の音楽が身体にしみこみ、後になって意味内容が理解できたあたつきには、知のレベルだけではなく情のレベルにおいても、頭だけではなく体もが、テクストを我が物にすることができたのではないか。すくなくとも、素読は、頭で理解するよりもさきに、頭での理解が立ち上がるための舞台である身体をこしらえてくれていたのではないか。

いまやわたしたちはすでにかなりのところまで記憶を外注している。電話番号やメールアドレスを多数暗記している人は少数派だろう。情報を自分のなかに刻み込むよりも、すぐ引き出せるところにストックしておく――そのようなモードがもはやデフォルトになってしまっている。そこで暗記を復権させようというのは、時流に逆らうことでしかないだろう。

しかし、目的としてではなく、手段として、暗誦を推す意義はあるように思えてきた。覚えることでしかわからない感覚はある。頭から引き出すのではなく体が勝手に動き出す体験は、代替不可能なものだ。暗記することによって、ページの上では二次元的に――英文であれば左から右に、上から下に――しか展開されえない文字列が、3次元的なものとして、または、無次元的なものとして、立ち現れてくるのではないか。

そんなことを書きながら思い出されたのは、子どもの頃に習っていたピアノのことだ(とはいうものの、高3ぐらいまで習っていたのだけれど)。習っていた先生の独自の方針だったのか、それとも、わりとスタンダードなやり方だったのか、いまとなってはよくわからないけれど、その先生は、課題曲がだいたい弾けるようになったところで暗譜演奏を課す人だった。だから、ピアノを習っていた10年強のあいだ、一定量の情報を身体に覚え込ませる訓練をコンスタントに積んでいたことになる。今期、学生たちに身につけさせようとしているのは、そのときの体験知を自分なりにアレンジしたものなのかもしれない。

 

暗誦はもしかすると、視覚的=意識的=人工的に英語の音を作り出すことと、聴覚的=無意識的=直感的に英語の音が出せてしまうことのあいだを架橋するものではないかという気がしてきた。ただし、そのためには、「聞いて真似ろ」というだけでは不十分で、音節やアクセントというカテゴリーを可視的なかたちで書きこんだスクリプトをきちんと音にする訓練をさせたうえで、その次の課題として暗誦を導入する――しかし、暗誦することが目的とならないように、暗誦はあくまで手段であることを強調するために、ある程度ならスクリプトを見てもいいと伝えたうえでそうする――必要がある。時間と手間をかけて学生を仕込む必要がある。

対面だからこそできること、Zoomでは出来ないことをやらせてみたらどうだろうかと折に触れて思っているのだけれど、「詩を一行ずつ交代で暗誦させ、グループででスタンザを完成させる」というアクティヴィティをふと思いついた。思いついたときに後付けで気がついたけれど、これはSPACのコロスの朗誦の言語教育への応用ではあるまいか。それはさておき、実際にやらせてみたところ、聞いている方としてはひじょうに面白かった。学生の負担にしても、ひとりで全部覚えるより分量はずっと減るし、グループメンバーとのアンサンブルになるからソロの心理的プレッシャーもなくなるし、いいことづくめではないかと思ったのだけれど、学生の反応はいまひとつ。想像の埒外のことをいきなりやらされて、どう反応したらいいのか戸惑っている、そんな感じだった。焦らず数週間かけて仕込んでいこうか。