うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。真面目過ぎること。

特任講師観察記断章。「先生は真面目過ぎますよ」と今日TOEICの特別補講に参加していたかつての学生から言われた。評点のつけ方が辛いとか、接し方が厳しいというようなこともひっくるめてのことなのだとは思うが、この学生がいちばん槍玉にあげていたのは、授業をパスするためのハードルが高いということらしい。後になって思い返してみると、ここには何とも奇妙なところがあるような気がしてきた。  

「真面目過ぎる」というのはおかしな物言いではないか。くだんの学生が「真面目」というのを肯定的な意味合いで使っていたことはたぶん間違いないと思う。こちらのやり方の方向性が妥当であることは、くだんの学生も基本的に認めている。認めたうえで、それが過剰であると愚痴をこぼしているのだ。しかし何が過剰なのか。何が「過ぎる」のか。  

それがたぶん直感的に気になっていたからだろうか、その学生の考える「理想」が何であるのかと尋ねていた(「理想」というのはあくまでわたしの言葉であって、学生の言葉ではないし、それが「(自分のような自堕落な学生にとっての)理想」というきわめて限定的な代物でしかないことを直感レベルでしかないとしても何となくは理解していたらしいところに、まだ一抹の希望をかけることはできるのかもしれない)。すると、それはもうこちらに言わせるなら「不真面目」としか呼びようのない惨状であった。曰く、学生たちはスマホをいじっている。曰く、先生は勝手に話している。曰く、楽に単位をくれる。  

はたして、くだんの学生の愚痴る「真面目過ぎる」――学生たちに真摯な態度が求められる、先生と学生のあいだに真正な対話がある、きちんと課題をこなさなければ単位はもらえない――と、わたしがディスる「不真面目」とのあいだに、ちょうどいい中庸のポジションはありえるのだろうか。  ないと思う。というよりも、そのように問うことは、不毛だ。なぜなら、くだんの学生の関心は、「単位が楽に取れるか」の一点にしかないから。それ以外のことはすべて些事にすぎないことであるらしいから。学びによって得ることのできる知識も経験も知ったことではない、単位さえもらえればいいのだ、大卒という資格さえ得られればいいのだという態度なのだとしたら、教え方や教える内容というプロセスを考えることは無意味だから。  

「単位さえ……」という気持ちも一応は理解できる。しかし、理解できないのは、大卒という名ばかりの資格だけを手にして社会に出ていくことの危うさからこの学生が必至で顔を背けようとしていることだ。自分でもそれが逃げ腰の態度であることはわかっているのだろう。わかっていながら、向き合うことを拒んでいる。なるほど、大学はそのような「甘さ」を許容する優しいモラトリアムの空間ではあるけれど、同時に、その甘さから抜け出していくための、抜け出すとまではいかないとしてもうまく折り合いをつけていくための場でもあれば時でもある。現実社会の紛うことなき一部でありながら、にもかかわらずその一歩手前にあるような、自由な緩衝地帯でもある。願わくば、そのような時空間を、思索/試作のために用いてほしいものだ。甘ったるい自己憐憫にひたり続けるためにではなく。  

ともあれ、くだんの学生にたいしては、「わたしが真面目過ぎるのではなく、あなた(たち)が不真面目過ぎるのだ」とやり返しておいた。「いや、これは真面目不真面目という問題ではなく、倫理の問題なのだ」とも、付け加えておいた。そう、これはすべて、倫理の問題なのだと思う。生きることについての問題であり、行為する存在として生きていくなかで必ず遭遇する自由選択の問題だろう。自由でありえる存在として、自由のあらゆる可能性を自ら引き受けることである。