うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。量的な蓄積、質的な飛躍。

特任講師観察記断章。かなり多くの学生に共通する間違いがある。あまりにも初歩的なものなので、なぜここまで正されずに来たのかと首をかしげてしまうような間違いがある。たとえば名詞末尾の複数形のSを読み落とす、Yes/No疑問文のイントネーションを上げない、Wh疑問文のイントネーションを下げない。興味深いのは、この手の基本中の基本レベルの間違いが、発音に関してはそこそこ流暢な学生にも散見されることだ。いったいなぜなのか。

日本語のスピーチパターンは英語に立ちはだかる大きな障壁であるらしい。英語は語の中間(expREss) や末尾手前(insTEAd)にアクセントがくるケースが少なくないが、日本語は頭にアクセントがあって音が減衰していく(「アリがとぅ」とか、末尾をずり上げるように引っ張る(「ありがトオー」)傾向にあるようだ。EXpressだとかINsteadのようになってしまうのだ。わざとらしいぐらいにアクセントを強調して、英語らしいアクセントパターンにどうにか少し近づいたかどうか、というぐらいである。

音読の仕方に加えて、黙読に使う文法的な区切り方――最小意味構成単位に分解していくやり方――も並行して教えているが、こちらは意外とすんなりわかってもらえているような気がする。3週間ぐらいかけてウザいほどに徹底させてみたところ、最初からこちらの望むものを提出できる学生が増えてきた。ただ、それを音読させるとなると、適当に何となく読んでしまう学生が少なくない。だが、朗読を止めて尋ねてみると、区切り方自体は正しくできている場合が多い。頭での理解と口での実践がまだうまく繋がっていないようだ。

執拗にイントネーションを教え込もうとするものの、それが徒労に終わっているのか、何らかの成果を上げているのかは、現時点では何とも言いがたい。「これはある時点でいきなり「なんだ、そんなことか」とわかるようになるものだから、いまはまだピンと来ていなくてもいい、いまの自分のアーティキュレーションではうまくないんだということさえ理解していればそれでいい」と繰り返してはいるものの、30人近いクラスサイズで口伝えに抑揚を教えようというのは、やはり無理があるのだろうかという気もする。オンライン講座のようなものでは不可能な、リアルだからできることをやっているという確かな手ごたえはあるのだけれど。

素読というのは理にかなった教育法だったのかもしれない、と思うことがある。言語に内在する音楽――旋律やリズムや響きーーを、体感的に刷り込むというやり方だ。ただ、日本語と英語のように両者のあいだに相当な距離がある場合、「まねる」ことは、不自然なまでに自意識的なself-reflectiveな行為にならざるをえないのではないかという気もしている。というか、教えられたことをそのまま真似るというのは、実はかなり難易度の高いことなのではないか。これまでの自分が学んできたことをいちど宙づりにして、これまでの癖や常識をときほぐし、それらを新たにつなぎかえなければならない。そうしたun-/re-learningは、つまるところ、内発的かつ自発的に実践されるのでなければ、無意味なのかもしれないとも思う。

身体知をほとんど信頼することができない理性偏重主義者であるこちらの思い違いかもしれない。しかし、学生を見ている限り、このあたりのノウハウは、経験を積めばいつか自然に身につくような代物ではないような感じがする。量的な蓄積とは別の、質的な飛躍のようなものがいるような気がする。

とはいえ、その質的な飛躍を起こすブレイクスルーが何なのかは、依然として手探り状態だ。たいしたことなどやっていないのに、最近2コマ3コマの授業を終えて自分の部屋に戻ると、強烈な疲労感に襲われる。1、2時間の昼寝が日課になっている。