うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ふじのくに⇔せかい演劇祭2019、ロバート・ソフトリー・ゲイル『マイ・レフトライト・フット』

20190502@静岡芸術劇場

自伝についての映画についての劇についてのミュージカル

   障碍についての自伝、

   についての映画、

   についての劇、

   についてのミュージカル

ロバート・ソフトリー・ゲイル『マイ・レフトライト・フット』の入れ子状の構造をわかってもらうには、こう書いてみるのがわかりやすいだろう。発端にあるのは1954年に書かれたクリスティ・ブラウンの自伝『マイ・レフトフット』。それが1989年にダニエル・デイ=ルイスDDL)主演で映画化され大ヒットとなる。スコットランド演劇祭での優勝を願うあるアマチュア団体がこの物語を舞台化しようとして悪戦苦闘するさまを描くのが、ロバート・ソフトリー・ゲイル『マイ・レフトライト・フット』のミュージカルである。

ゲイルのミュージカルは幾重にもメタ的だ。先行テクストが複数ある(自伝と映画)からだけではない。障碍を演じることそれ自体が、このミュージカルのなかで主題化されているからである。 

映画のなかで脳性まひのブラウンを演じたのは非障碍者であるプロの俳優DDLだった。しかし、インクルーシヴさを高めることで特別加点を狙おうというプラグマティックな計算が背後にあるのだから、これを舞台化する場合、障碍者を健常者が演じてもいいのだろうか。障碍者役は障碍者が演じるべきではないか。

しかし、障碍者は俳優としてはアマチュアである。舞台映えのする「障碍者らしさ」を演じることにかけては、障碍の有無ではなく、経験の有無が重要である。この点においては、プロの俳優のほうが適役である。なぜなら、舞台化すべきは、障碍者であるブラウンの生きられた経験ではなく、障碍者役を演じたDDLのプロの演技のほうだからだ。

しかし、演劇祭の規定によれば、インクルーシヴであるためには障碍者役や障碍者が演じなければならない。

とはいえ、障碍の度合いはけっして一様ではなく、脳性まひにしても軽重があるのだから、重度の脳性まひ患者の生涯を軽度の脳性まひ患者が演じることは、倫理的に正しいのか。

いや、そもそも、舞台にのせるべきは、映画が捏造した美談なのか、ブラウンの生涯の真実――元看護士の結婚相手からのDV――のほうなのか。映画の嘘を健常者のプロ俳優が「それらしく」演じることは、根源にあるブラウンにたいする二重の裏切りになるが、ブラウンの生活の真実を彼と同じ脳性まひ患者であるにせよ障碍の程度は異なるアマチュアが演じることは真正といえるのか。

ここにはさらに本質的な問いが賭けられている。舞台というフィクションが表象すべきは、真実なのか、エンターテイメントなのか。

こう問い直してみてもいい。虚構が表象する真実は、エンターテイメント的でありえるのか。

  

劇をめぐる問題、劇団をめぐる問題、またはラブとセックスについての問題

『マイ・レフトライト・フット』は、インクルーシヴでダイヴァースな劇にしたら審査員にアピールできるのではないかという軽い思いつきが、次から次へと思わぬ厄介事を引き起こし、ついには劇団の分裂に至る過程を、二幕仕立てのミュージカル形式で描いていく。脳性まひという障害をかかえる修理工のクリスをアドバイザーとして招いてみたものの、障碍者ブラウンの真実を描くのか、健常者DDLのプロフェッショナリズムを真似るのかで、主演男優グラントとのいさかいが勃発し、そこに、クリスの色恋沙汰が絡み合う。

劇をめぐる芸術と真実の問題と、劇団の人間関係をめぐるドロドロの愛憎劇が混ざり合う。一方に、障碍者の生涯を表象することについての倫理的責任の問題があり、他方に、生身の人間だからこその感情や性欲についての問題がある。過保護な庇護欲や支配欲(シーナ)、身体的なものに起因する劣等感(クリス)、精神的なものに起因する劣等感(イアン)、演技力にたいする自負からくる傲慢さ(グラント)、物事を成功させたいという社会的野望(エイミー)、誰かを愛したいという焦燥感(ジリアン)。そして、他人に認められないことからくる不平不満、誰かに愛されたいという切実な希望。

『マイ・レフトライト・フット』には、健常者らしき俳優がいかにもそれらしい障碍者の演技をするシーンがいくつかあり、それが障碍者ステレオタイプを助長し、障碍者の振る舞いを笑いものにしているという意味で、スキャンダラスに感じられるかもしれない。

もちろん、これが意図されたブラックジョークであることは明白だ。本劇の作家にして演出家のゲイルが障碍者であることを思えば、障碍についての言及が自意識なものでないはずがないし、それを笑いを誘うものに変換するという作業がいい加減なものであるはずがない。

すべてが自虐ネタというわけではないだろうし、障碍についての言及をゲイル本人の経験に還元すべきではないだろう。すでに述べたように、ここでは、障碍の有無だけではなく、障碍の軽重にまで話が及んでいる。健常者が障碍者の「ために」/「に成り代わって」語ることが傲慢であるとしたら、ある障碍者がすべての障碍者の「ために」/「に成り代わって」語ることも傲慢だろう。同じ脳性まひ患者だからといって、クリスの演じるブラウンが絶対的にオーセンティックであるわけではないし、脳性まひ患者だからといってブラウンのことがすべて理解できるわけでもない。クリスの演技を皮肉交じりに論評するブラウンが述べているように、クリスの障碍はブラウンのものほど重くはないし、そうである以上、クリスにしたところで、ブラウンを演じようということになれば、「ブラウンの」脳性まひを演劇的に「らしいもの」として創造しなければならないのだ。舞台上での振る舞いは演技=作られたものであって、「素のまま」ではないという意味では、クリスとブラウンのあいだには、程度の差しかない。

『マイ・レフトライト・フット』の笑いが深いのは、障碍を演じることをここまで真面目に考え抜いておきながら、障碍の演技をコメディーのレパートリーとして取り入れ、それを笑い飛ばすという恐るべき強さをわたしたちに提示するからだ。これはもしかすると、サーカスのピエロのような笑い、シェイクスピアにおける道化の笑いに近いものなのかもしれない。

ゲイルの笑いは別の意味でもスキャンダラスである。下ネタ的なのだ。しかも、相当にブラックな下ネタ。たとえば、障碍のために震える中指で彼女の膣を愛撫してイカせてやる、というナンバー。障碍者の性の問題、性欲の問題が切実なものであることは間違いないし、ゲイルのミュージカルでは、この主題がプロットの横糸をなしている。障碍と演技をめぐる議論が縦糸だとすれば、横糸にあるのは、おせっかいや自分勝手さからくる一方通行的な愛の流れであり、その愛がまったく清らかでもプラトニックではないところに、このミュージカルの生々しさがある。ゲイルは障碍者の問題を、公的領域と私的領域の両方においての主題化することに成功しているし、両者をクロスさせることによって、アートな事柄とリビドーな事柄が分離すべき事柄ではないことをまざまざと例示してみせる。

 

目覚めればそれで解決か

ゲイルのミュージカルは、クリスのかかえる悩みがまったく普通のものであること、障碍の有無にかかわらず、障碍の軽重にかかわらず、誰もが抱くようなたぐいのものであることを、さまざまな形で描き出そうとしているようだ。クリスのエイミーにたいする一方通行の愛は、ジリアンのクリスにたいする一方的な恋慕とパラレルであるし、障碍を負い目に感じて社交的になれないらしいクリスの引っ込み思案さは、自分にたいする自信のなさのせいでおどおどせずにはいられないイアンとパラレルである。みんな同じように悩んでいる。程度の違いはある。しかし、誰かの悩みが特別だったり特殊だったりすることはない。

しかし、これは観客にそれとなく告げられる真実であって、劇中での解決策はまた別のものである。障碍者のクリスに障碍者ブラウンの役を譲らざるをえなくなり、降板を余儀なくされたグラントは、劇団から去ってしまう。2幕で戻ってくるグラントは、「目覚めた」男になっている。そこでグラントは自分が障碍者にたいして傲慢であったことを認め、自らもADHDであると告白し、自分もまた多少は障碍者なのだと吹聴する。上から目線の傲慢さと同じくらいウザい、純粋な善意の押し売りである。これで劇団がふたたびまとまるようなことにはならない。

劇そのものには、障碍についての絶対的な解答はないように思う。アマチュア劇団は結局コンテストで優勝できない。優勝をかっさらうのは、グラントが移籍した劇団による『エレファント・マン』である。それはつまり、プロ俳優たるグラントの演じた「障碍者らしさ」が、障碍者クリスによる障碍者役より高く評価されたということでもある。「らしさ」が本物に勝り、エンターテイメントが真実に勝ったようなものである。

 

真面目なネタのエンターテイメントなプレゼンテーション

『マイ・レフトライト・フット』の内容は、コメディー的に提示されるとはいえ、やはり重いものであり、きわめて真面目なものだ。しかし、プロットは必ずしもそうではないし、音楽のほうがまったくそうではない。

プロットは、ある意味では、ありきたりである。劇についての劇。ラブロマンス。オチには驚きがあるが、大どんでん返しというようなものではない。

音楽にしても同様だ。劇の内容はとんがっているが、音楽はきわめて穏当である。まったく調性音楽的なのはいいとしても、調性音楽としてもどこか新しいようには思えない。いくつかすばらしいナンバーはあったが、忘れられない一節のようなものはあっただろうか。リズムや重唱の扱いについても同様である。

クオリティは高い。エンターテイメントとして何の過不足のない仕事である。しかし、それ以上のものでもない。

しかしここで考えるべきは、重いネタだから重い音楽でなければならないのか、という内容とスタイルの呼応の問題かもしれない。この問題を持ち出してしまう考え方が決定的に時代遅れであり、古典的にすぎるとは思うものの、『マイ・レフトライト・フット』は、ありきたりの音楽「にもかかわらず」、挑発的だと言うよりは、ありきたりの音楽「だからこそ」挑発的な内容が楽しく受容できるのだ、と言うべきだろう。

エンターテイメント仕立てにすることで、インクルーシヴだとかダイバースとかいう難しそうな問題があたかも楽しい考えであるかのように、そういった問題を考えることがあたかも楽しいことであるかのように感じさせてくれること、それどころか、そういった難しいことをことさらに観客に意識させることなく、観客の考え方や感じ方のレパートリーのなかに「インクルーシヴ」だとか「ダイバース」だとか「障碍者の性欲」のようなフレーズを自然に滑りこませるところにこそ、『マイ・レフトライト・フット』の楽しさの批判力がある。

 

メタ的な構造、またはメタ的構造に介入する作者の声

おそらく重要なのはミュージカルのプロットそのものというよりは、上で語ってきたようなミュージカルのメタ的な構造のほうなのだろう。真剣に考えるための材料を観客に提供する一方、それらを楽しくコミカルに料理するための方法を提示しているからだ。何をやるかということにもまして、どのようにやるかということが重要である。態度の持ちよう、接し方のありよう、雰囲気の作り方、というふうに。なるほど、それは必ずしも明確な教えではないし、そういうものとして観客に示されるわけではないけれど、わたしたちは劇場を後にするとき、やってきたときよりは、障碍にたいして蒙を啓かれているだろう。グラントのように「目覚めた」からではなく、障碍がより身近になったから、障碍がより近くに感じられるようになったからである。障害が自分と遠くかけ離れたところにあるものではなくなったからである。わたしたちは、つまるところ、似た者同士であり、互いに別世界の住人ではない。

とはいえ、これは、あまりにも「健常者」からの見方でありすぎるかもしれない。ゲイルのミュージカルに、「障碍者」からの見方という逆方向からの視点があったこと、障碍者に直接に語りかけるための装置があったことは、指摘しておかなければならないだろう。 

ひとつは全編を通して出ずっぱりの、登場人物兼手話通訳の存在である。ナットは黒衣のようなものである。彼女は観客からつねに見えているが、登場人物たちがいつも彼女の存在を認識しているわけではなさそうである。つねに誰かのセリフに寄り添い、それを手話に翻訳する彼女は、物語世界の住人であると同時に、物語世界と観客とを結ぶ懸け橋である。そもそも彼女の手話自体が、物語世界のほかの住民ではなく、観客席のなかの聴覚障碍者に向けてのものなのだ。これが演劇的になにか特別な効果を生み出していたかというと、そこはどうもよくわからないところではある。手話翻訳者は彼女一人であるがゆえに、彼女は特別な存在でもあるわけで、そのあたりは、文楽における人形遣いだとか歌舞伎における黒衣とは、似ているようで似ていなかった。

もうひとりはピアニストのアレックスだ。彼は舞台袖のピアノの前に座り、音楽を奏でる。彼もまたナットと同じく出ずっぱりであり、観客と舞台の中間的な存在である。しかし、おそらくナットよりもはるかに物語世界への没入度が低い。彼は音楽と演技の狭間におり、両者をつなぐ存在である。そしてナットやアレックスのような半‐物語住人は、わたしたちに、舞台の出来事への完全な没入を妨げる効果を持つだろう。ブレヒトが言うところの異化作用のものである。言葉を見ることがどういうことかナットは目に見えるようにしてくれる。言葉とは聞くものだと思いこんでいる大多数の観客の常識をナットは静かに揺るがし続ける。そしてアレックスは、言葉のべつのありようを、言葉を歌うことを示すとともに、ミュージカルのジャンル的なわざとらしさ――なぜセリフを語らずに歌うのか、なぜいきなり踊り出すのか――を、物語世界における内的要求――なぜならピアノを弾く者がいるから、彼のピアノに合わせて言葉を発する必要があるから――へと変換する。

もっともあからさまな物語世界への介入は、ロバート・ソフトリー・ゲイル本人による声である。物語終盤において、いまだに逡巡しつづけるクリスにたいして、「とにかくやってみるのだ」という声が響く。それはクリスがどうか演じようとするブラウンその人からの励ましであると同時に、物語作者からの後押しでもあり、おそらくは、観客席に座っているクリス的存在たちへのメッセージなのだろう。デウス・エクス・マキナ的な介入は基本的に洗練された手段とは言いがたいものであるし、エウリピデスにおけるデウス・エクス・マキナの介入が批判されるのは意味のないことではない。それは劇の内在的論理を破壊してしまう。最後でいきなり劇外部の要素を入れ込み、それで劇的緊張感を無理やり解消してしまう。しかしながら、ナットとアレックスのメタ的な存在は、最初から、こうした介入をある程度まで準備していたようにも思う。そしてマトリョーシカ的な入れ込構造にしても、メタ的なコメンタリーの挿入可能性をあらかじめほのめかしていたようにも思う。

ゲイルからのメッセージ。「とにかくやってみよう」。そしてこれがミュージカル全体を締めくくるフィナーレのモチーフとなる。やってみたからといってうまくいくわけではない。実際、アマチュア劇団はあれだけ欲していた賞を勝ち取ることはできなかった。しかし、一歩を踏み出したことで、キャラクターの生は動き出したようだ。よい未来かわるい未来かはまだわからないけれど、それが「正しい足取り」かはまだわからないけれど、誰もが始まった地点とはべつの地点にいる。べつの地点に向かって歩き出している。