うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

固定観念の最終的な勝利:ラース・フォン・トリアー『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

20220122@シネ・ギャラリー

ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は観る者の肉体を内側から揺さぶる。有無をいわせぬ映像の迫力がある。頭では納得していなくとも、押し切られてしまう。だから、物語のなかで突如として荒唐無稽にミュージカルが始まっても、なぜミュージカルなのだろうという疑問が心を支配する前に、ソングやダンスからあふれるパッションに押し流されてしまう。しかし、かならずしも心地よいというわけではないかたちで。

 

物語自体はわりと自然主義的ではある。物語の舞台は60年代アメリカ。チェコスロバキアからの移民でシングルマザーのセルマは、遺伝性の目の病を患っている。ミュージカルをこよなく愛してはいるけれど、彼女の願いは、自らが脚光を浴びることではなく、我が子ジーンがその病に苦しまなくてすむようにすること。工場で働き、内職をして、子どもの13歳の誕生日までになんとか手術代を貯めようとしている。彼女のことを気にかける同僚のキャシー、恋人になりたがっているジェフがいるが、セルマの心は自ら定めた目的から決して逸れることがない。彼女は彼女自身が作り出した固定観念の虜であり、頑なに一途で、愚かしいほどに純真である。

物語が急展開を見せるのは、衰え行く視力を出し抜くために必死の思いで貯めた金を、大家のビルにかすめとられるときのことである。愛妻リンダの浪費でにっちもさっちもいかなくなったビルは、セルマとの秘密の共有の約束を悪用する。金が無くなると同時にリンダの心も離れていくのではないかという怖れの虜となったビルを慰めるように、セルマは自分が近いうちにかならず失明することをビルに告げていた。それは弱みを互いに共有することで生まれるひそやかな関係だった。ほとんど目が見えなくなっていることを知ったビルは、帰ったふりをして店子の部屋にひそみ、セルマの貯金の隠し場所を知るのだった。

しかし、セルマが必死の思いで貯めた金を身勝手に盗むビルが心底悪辣な人間なのかというと、そういうわけでもない。リンダの愛を失いたくないという思いに囚われてしまっているビルは、息子のジーンには遺伝性の目の病気のことは何があっても伝えようとしないセルマの鏡像のようなものである。セルマから奪った金を握りしめて返そうとしないばかりか、妻のリンダにはセルマが自分を誘惑してきたという大嘘をついて保身に走ったビルが、金を取り戻したければ自分を殺してくれとセルマに頼むとき、それは挑発であると同時に、本心の吐露でもあったはずだ。ここまできてはもはや説得はありえない。理を説いても、情に訴えても、どうにもならない。単なる暴力でさえ無力なのだ。自縄自縛の状態から自ら抜け出すことは出来ない以上、片を付けるには、誰かに無理やりに息の根を止めてもらうしかないのである。

こうして殺人がなされる。セルマは拳銃の引き金を引くが、ほとんど目が見えなくなっているせいで、弾は急所を外れてしまい、致命傷には至らない。だから彼女は撲殺を試みるのであり、ビルの顔を鉄製の空箱で滅多打ちにする。

奪い返した金を持って医者のもとに赴き、ジーンの手術費を前払いし、ミュージカルのリハーサルに顔を出した彼女は、演出家が呼んだ警察によって逮捕され、裁判にかけられ、絞首刑となる。映画はそこで終わる。

 

しかし、ラース・フォン・トリアーが『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で描き出したのは、セルマの転落ではない。たしかに映画は彼女の死によって終わるが、無駄死にではなかった。赤ん坊をわが手に抱いてみたいという利己的な理由で産んだ子どもに、遺伝性の目の病気がもたらす盲目の恐怖を引き継がせないことに、彼女は成功したからである。すでに見たいものはすべて見てしまった自分の命を救うことより、孫の姿を見ることができる目を息子に贈ることを、彼女は自ら心に決めたとおり、やり遂げたからである。その意味で、この映画はは、信念が現実に勝利し、最初の望みが最終的に成就する物語でもある。

表面的にも世間的にも敗北としか思われないような絞首刑というラストに向かって進んでいくこの暗い物語がどこか底抜けな明るさと輝きを放っているのは、そのような最終的な勝利が約束されているからでもあるのだろう。想念の世界、想像の世界は、つねに、現実よりも強く烈しいのであり、それが、わたしたちを最終的に生き延びさせるのである。

 

唐突に始まるミュージカルは、現実を雲のようにとりまく無数の仮想世界がつかのまに現出することのしるしである。だからそこでは、客観的な現実と主観的な幻想が互いを相互に侵食し合う。けれども、そこで表面化する幻想は、特定のひとりのキャラクターのものというよりも、複数のキャラクターに由来するものである。

たしかにミュージカルは基本的にセルマの白昼夢であるかのように演出される。たとえば工場でのソングとダンスは、セルマが耳にする機械の規則的なリズムがトリガーとなる。ミュージカルが始まるときセルマはつねにその中心にいる。

にもかかわらず、それらはセルマの願望充足には還元できない。彼女が撲殺したビルがよみがえり、血まみれのままセルマとデュエットを踊ったかと思えば、洗面所で血を洗い流してリンダとデュエットを踊るとき、たしかにそれは、ビルを殺めたセルマの罪悪感が見せた幻想のように見えるけれども、果たしてそれだけだろうか。そこには、ビルの、そして、リンダの幻想までもが、入り混じっていたのではないか。

ミュージカがセルマのソロにはならないのは、群舞を見せるための便宜上の理由によるところも多分にあるだろう。しかし、たとえそのようなプラクティカルな理由があるにせよ、ソングがセルマの独壇場になる一方で、ダンスのほうはそうではないところに、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の集団幻想的な側面が表れていると言ってよいのではないか。

 

ラース・フォン・トリアーの映像はノイズが多い。たとえばセルマとビルが、夜遅く、互いの弱さをさらけ出すようにして親密な会話を交わすとき、カメラはふたりの顔を大写しに捉えるが、そのとき前景にキッチンテーブルのうえの物がちらりと映る。手持ちであるらしいカメラは、つねにわずかな揺れがある。だからキャラクターたちが座して動かないときでさえ、画面には動きがある。フレーム自体がブレているからだ。

それはもしかすると、わたしたちの感覚器官がとらえる現実認識に近いのかもしれない。わたしたちは生身の動く存在であり、固定したカメラが可能にするような映像は、不自然なものなのかもしれない。

古典的ハリウッド映画であれば、向かい合うふたりの対話のカメラの構図は安定的で、話し手を正面から写していくだろう。トリアーのカメラも同じような構図を採用しはするが、アングルはずっと流動的であり、ほとんど即興的に見える。それほどまでにカメラはキャラクターたちの顔を別の角度から映し出していく。トリアーの映像は、スナップ写真を動画にしたかのように見えるところがある。

映像からつねに聞こえてくるノイズが、なぜか、心地よい。トリアーの映画が映像として成立しているのは、彼の画面が物語内容に完全に依存してはおらず、映像単体として自律するからだろう。

 

おそらくトリアーは、商品として美しく整ったものを作ろうとしていないのだろう。それいわば、職人的な技術を用いながら、意図的に、いびつさやゆがみを取り入れることである。それはある程度まで方法論化することはできるが、最終的なところでは、映像作家の極私的な感性に委ねられるものである。自然主義的な物語運びであるとか、そこで前景化してくる情念的なものの烈しさ、理も情も超えるがゆえに他者には説明不可能な私的な行動原理の描き出し方に、トリアーの作家のクセのようなものが見受けらることはおそらく間違いないと思うが、彼の作家性のコアは、映像そのものにある。

こう言ってみてもいい、彼は瞬間的なショット、静止画的な構図ではなく、流動的なシークエンス、次の瞬間には消えてしまうほんのひとときの表情や姿勢を映し出す作家なのだ、と。その意味で、トリアーは人間を撮る作家にほかならない。

 

幼さと悟ったところ、純真さと蠱惑的なところ、夢見がちなところと現実的なところといった、相反するものを同居させているセルマを、ビョークはきわめて巧みに、しかし、それでいて、きわめて自然に、演じ切っている。この映画は観る側の情動に訴えかけてくるたぐいのものだが、それが成功しているのは、ビョークの演技によるところが大きい。

けっしてきれいな演技というわけではない。彼女が作曲したソングについても、メロディアスなヒットソングというわけではなく、凄惨な物語内容に沿ったものになっている。しかし、彼女のハスキーな声と相まって、ひじょうに効果的に響く。

 

それにしても、基本的にリアリズム的に演出された映画である『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に、なぜミュージカル的なシーンがなんの説明もなしにところどころで挿入されているのかという疑問は残る。セルマの白昼夢として説明できなくもないが、それだけでは、正当化の理由としては弱いだろう。

映画のなかで、ビル(だったと思うが)は、セルマに向かって、「ミュージカルは苦手だ、なんでいきなり歌い出したり踊り出したりするんだ」と尋ねる。また、セルマはアマチュアのミュージカル団体に所属し、稽古に出ているし、キャシーとミュージカル映画を観に行くシーンが数度出てくる。ミュージカルにたいする言及が映画のいたるところにちりばめられてはいる。しかし、だからといって、ミュージカル的演出がただちに正当化されるわけではない。

もしかすると、この映画自体が、ひとつのミュージカルなのかもしれない。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のなかにミュージカル的なシーンが埋め込まれているのではなく。フィクションは、往々にして、自らが真実であるようなふりをする。わたしたちの現実と地続きであるように振舞う。この映画も同様である。だからこそ、ミュージカル的なシーンになると、わたしたちは、「こんなことは現実ではありえない」という文句をもらしてしまうわけだ。しかし、この映画にかぎっていえば、それはわたしたちの考え違いなのである。この映画は最初から、自らが虚構であることを知っているのであり、ミュージカルは、自身の虚構性を観客に告げるモメントなのだ。

そう考えてみると、最後にやや唐突に提示される言葉――この物語が絞首刑に処されたセルマの死で終わるかどうかは、これがこの物語の本当のエンディングになるかどうかは、あなたに委ねられている――は、映像作家によるメタコメンタリーと言うべきだろう。この物語は虚構であるが、まさに虚構だからこそ、わたしたちは物語がひとまず提出した終わりを、別の終わりに作り変えて行く余地があるのだということを、観客であるわたしたちに告げる、作者からのメッセージなのだ。

 

とはいえ、このメタフィクション的な結末は、ややありきたりな感じもする。力強いものではあるし、希望を与えるものではあるが、肩透かし感はある。

ミュージカルが終わってしまうのがいやだから、フィナーレは見ない、フィナーレを見ずに帰れば、ミュージカルは自分のなかで終わることがなくずっと続いていく。セルマはそんなふうに言う。最後のシーンで映し出されるメッセージがセルマが言ったことのパラフレーズであることはまちがいない。

物語のシェイプ自体が、物語内の登場人物の言葉によって決まっているという意味で、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は二重にメタフィクション的であると言っていいかもしれない。物語外から物語にコメントする作者の存在が明示される(最後のメッセージで)。しかし、そのコメントは、実は、キャラクターの言葉のものでもある。こうして、物語の内と外が、メビウスの環のようにつながる。

だからエンディングがいまひとつすっきりしないのは当然であり、ここにストレートな爽快さや、すべてをすっかり洗い流してしまうようなカタルシスを求めるのは、まったく不当である。ないものねだりにもほどがある。しかし、にもかかわらず、やはりなにか、かわされたという気分が残るのであった。