うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

顕現しない神に祈ることの不安:ブリュノ・デュモン『ジャンヌ』

20220115@シネ・ギャラリー

ブリュノ・デュモンの『ジャンヌ』は、メタルバンドのPV的な前作『ジャネット』とは大きく異なり、ずっと普通の映画になっている。歌と語りが交替するミュージカル的な前作では、言葉は詩句に凝縮されていた。論理を超越する祈りだけがあった。しかし、個人の信仰と教会の論理がギシギシと衝突する今作では、歌の使用はきわめて限定的になる。散文的な対話が物語を進行させていく。

jeannette-jeanne.com

とはいえ、物語の歩みは不連続だ。幕と場で区切られた戯曲のように、場所と日付と時間でシーンが交替する。シーンとシーンのあいだにジャンプがあり、ぼんやりと見ていると、前後のつながりを見失ってしまう。というよりも、ジャンヌ・ダルクをめぐる史実を知らないと、何が起こっているのかわからなくなって、置いていかれてしまうかもしれない。説明的なところは皆無だからだ。

派手な動きはない。キャラクターたちの動きや構図は様式化されている。舞台における入場退場を模しているかのように、キャラクターたちがやって来ては去っていく。それはきわめて不自然なムーブメントだが、自然主義的なリアリティを目指している映画ではないのだから、この不自然さはむしろ自然なやり方である。

『ジャンヌ』で重要になるのは、シームレスにつながっていく物語のシークエンスではなく、シーンひとつひとつの凝縮度だ。しかし、視覚や聴覚にわかりやすいかたちで訴えかけてはこないので、わたしたちのほうで、自身の感性を、映像に合わせてチューニングするが求められる。『ジャンヌ』の静謐な映像を味わうために、観客はスクリーンに集中しなければならない。

物語前半はまばらに緑がある砂丘のようなところ、物語後半は教会のなかが舞台となる。大スペクタクルな戦闘シーンはない。殺戮や略奪は言葉で報告されるだけで、騎馬によるマスゲームが戦闘のメタファーとなるばかりだ。異端審問では、教会の内部それ自体がスペクタクルと化すが、ジャンヌの火刑はそうではない。映画は火刑のシーンで終わるが、そのときカメラは遠くから磔にされたジャンヌの姿を映すだけである。問答無用の暴力的な映像と音楽で観客を煽り立てるような手法をこの映画は断固として拒絶する。

カメラワークの巧みさは前作との数少ない共通点だ。キャラクターたちはときに画面から迫り出してきそうなぐらいカメラに近づくが、そのまなざしは決してスクリーンの向こうの観客に向けられていない。こうして、わたしたちは、こちらのほうを見つめてはいるが、決してこちらのことには気がつかない相手を思う存分眺められるという理想的な窃視者のポジションを与えられる。わたしたちは傍観者のままでいられる。しかし、映像があまりにリアルなので――これはカメラ自体の性能によるところはあると思う――いつのまにか傍観者ではなく当事者に格上げされていることに気がつく。わたしたちはスクリーンで起こることに介入はできないが(当然ながら)、さりとて、ただ安全なところから高みの見物を決め込むことにはいかなくなる。

ジャンヌの異端審問裁判では、教会関係者たちの語る言葉それ自体がきわめて雄弁であるけれど、それに劣らず雄弁なのは、話し手たちの声の調子であり、身体の震えであり、表情のゆらぎだ。だから、翻訳=字幕で失われてしまう部分が大いにあるにもかかわらず、コアの部分は決して失われることがない。キャラクターたちの身体のたたずまいがわたしたちに訴えかけるからだ。

ジャンヌは一貫して「声」について語ることを拒む。だからこそ、周囲の人間は、果たして彼女の聞いたものが神意なのか、それとも、悪魔のささやきなのかを、判断できなくなる。ジャンヌは聖女なのかどうか――それは最後まで宙吊りにされ、答えはでない。しかし、さらに言えば、神の実在すら、ここでは確証が与えられない。

カメラは執拗に祭壇を映し出し、祭壇に向かって礼をする人々を描き出し、教会の高い天井を映像に収める。神は高きところにいるのかもしれない。ジャンヌが空を仰ぐさまが映画をとおして繰り返し描かれるのも、同じ理由だろう。しかし、それは、そのようなしぐさをする人々の実感でしかない。神の実在は絶対的な真実として表象されることはない。あたかも神がいるかのようにふるまう人々が表象されるだけである。

ジャンヌと教会関係者の対決で浮上してくるのは、教会権力の権威の問題だ。ここで争われているのは神の存在ではなく、神の仲介者たる教会にすべてを委ねるのかどうかという服従の問題である。教会はいわば儀式を独占することによって、信者を囲い込んでいる。しかしジャンヌは、教会を経由することなく、聖書すら介することなく、神と直でつながろうとする。そしてそれこそ、教会関係者が受け入れられないことなのだ。

神は応えない。『ジャネット』では聖ミカエルの訪れが描かれていたけれど(それがジャネットの妄想にすぎなかったのかどうかはわからないが)、『ジャンヌ』にはそうしたシーンすらない。『ジャネット』ではジャネット自身が歌っていたが、『ジャンヌ』では彼女はもはや歌わない。歌は、目深にフードをかぶり、ほとんど言葉を発することのない異端審問官のひとりが歌うばかりである。歌による神にたいする祈りや訴えにおいて、ジャンヌと教会関係者たちはひとつにつながるが、それはいわば、神の不在(または、神の実在の証拠の欠如)を前景化するばかりである。

だから、ここには迷いのようなものがある。ジャンヌは神を信じているが、その証拠は、教会関係者にも、わたしたちにも、与えられない。ジャンヌにしたところで、神の御心のすべてを理解しているわけではないらしい。というよりも、神の御心はあくまで方向性――フランスを解放せよ――であって、具体的な戦略を告げるものではないらしい。だとすれば、神意とはいったい何なのか。

ブリュノ・デュモンが描き出すジャンヌは、聖女というよりも、教会権力に抗する存在として立ち現れてくる。しかしそこで、ジャンヌは神という確信を得ているというよりも、つねに迷い、天に問いかける存在だ。

そこにこの映画の喚起力がある。

ジャンヌが天を仰ぐとき、わたしたちは、神を思う。しかし、それはかならずしも信仰にはつながらない。その亀裂を埋めるのは映像美だ。青々とした空。荘厳な教会の天井。そして、空を仰ぎ見るジャンヌの苦悩の表情。

ブリュノ・デュモンの『ジャンヌ』は、ジャンヌの不安をとおして、わたしたちの世俗的な実存のあやうさをあぶりだす。