うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

メタルな身体:ブリュノ・デュモン『ジャネット』

20220110@シネ・ギャラリー

2時間近くにおよぶメタルのPV。そんな雑な感想を書きつけて見たくなるほど、奇妙な映画だ。ジャンヌ・ダルクジャンヌ・ダルクになる前の物語を、ブリュノ・デュモンは『ジャネット』で描き出していくのだけれど、服装であるとか住居については歴史的実証性をそれなりに考慮しているようなのに、キャラクターたちの立ち居振る舞いは破天荒だ。ジャネットは激しくヘッドバンギングし、彼女の叔父(伯父か?)はラッパーのように手をクルクルさせる。そうした身振りは明らかに非歴史的だろう。

古典時代のオペラのように、レチタティーヴォ的な語りと、アリア的な歌が交替するかたちで『ジャネット』は進んでいく。だからここでは物語はあまり進まない。『ジャネット』のプロットはかなり短くまとめられる。ジャネットは聖ミカエルの言葉を聞くが、それに従うことができず、逡巡のうちに数年がすぎる。そして彼女はとうとう神の御心に従い、故郷を後にする。それだけだ。

デュモンの映像はフェティシズム的だ。映画はジャンヌが小川を歩いてカメラのほうに向かってくるところから始まる。キャラクターがスクリーンから迫り出してくるようなアングルが選ばれる。しかし、キャラクターたちは決してカメラをとおして観客であるわたしたちと目線を合わせることがない。彼女たち彼らの視線は、天のほうか、さもなければ、地のほうを向いている。そしてカメラは、水の中や砂地の上を歩く足、羊の背中を撫でる手を、執拗に写し取る。断片化された身体の運動が、スクリーンに大写しになる。

しかし、カメラが捉える情景は何とも美しい。空の青さ、小川の青さ、川縁の青々しさ。下から見上げるようなアングルと、上から見下ろすようなアングルが交替する。

キャラクターたちがアリアを歌うとき、彼女たち彼らたちは歌に身体を添わせるのだけれど、歌がもしかするとグレゴリア聖歌の旋法を踏まえているかもしれないと錯覚させるのにたいして、身体所作のレパートリーはまったく現代的だ。そこにこの映画の不可思議なアナクロニズムがある。歴史映画のはずなのに、現代のメタルのPVであるかのように感じてしまう。

歌いながら踊る身体は旋回的だ。円運動が基調で、固定的なフレームのカメラのなか、ジャネットは円を描くようにして斜面を行ったり来たりする。メタルを聴かない身からすると、これがどこまでクリシェ的なものなのかよくわからないけれど、この映画を観ながら思い出されたのは、BABYMETALと岡田利規の身体運動のレパートリーだった。

ヘッドバンギングをしながら激しく歌う後ろで、羊が鳴き、ロバが草を食んでいる。映画内の音は自然の音だけだ。そこに、メタルの音楽が外からかぶせられるかたちになる。この二極化した音の使い方――環境音としての自然の音とアリアのためのメタル、中世に響いていたかもしれない音と現代的な音とが、必然的な理由もなしに、無媒介的に、重ね合わされる――にびっくりさせられる。

しかし、メタルはある意味ではキリスト教的なジャンルであるのだから、ジャンヌ・ダルクというトリップした聖女と案外反りが合うのではないかということにも、気づかされた。

 

『ジャネット』のなかで繰り返し表面化するのは指導者待望論だ。兵卒はいる、しかし、集団を率いる人物がいない――これが危険な思想であることは、歴史がよく教えてくれる。そのような空隙を埋めるのはトリックスター的な存在であり、悲劇をもたらすばかりである。

では、ジャネット=ジャンヌは、危機を煽り、その空隙を自ら埋めようとするマッチポンプ的なペテン師なのかどうか。

『ジャネット』だけではそこはまだわからない。映画は、故郷を後にして旅立っていくところで終わってしまう。フランスというものがいまだ想像されえない共同体にすぎなかったかもしれない時代に「フランス」の存亡をそこまで大げさに受け取るジャネットはむしろ異端だったのかもしれない。彼女の叔父(伯父?)が言うように、フランスが滅びたとしても、彼ら彼女らの日常にはさして変化はないかもしれないし、だとすれば、なぜフランス王家の栄枯盛衰を自分事のようにシリアスの受け取らなければならないのだろうか。

『ジャネット』はこの素朴な問いに明確な回答を与えてはいない。しかしこの開かれた問いかけにたいして、反駁不可能な信仰を根拠にして右翼的な回答を与えるところに、この映画の挑発がある。

 

とはいえ、信仰ですべてが片付くわけではない。フランス軍のところに行くことを父が認めてくれないことをわかっているジャネットは、叔父(伯父?)に、嘘を付いて彼女を連れていってくれるように頼むが、そこで「嘘を付けと神様が言ったのか」というような反論にあうと、「そういうわけではないけれど」と言葉を濁す。目的によって手段は正当化されないのだ。『ジャネット』ではジャネットは最後まで迷える人間のままだ。

 

映画はロバに乗って川の浅瀬を行き、画面の向こうに去っていくジャネットと叔父(伯父?)の姿で終わるが、ジャネットをまたがらせたあと、その後ろに乗ろうとして彼は反対側に転げ落ちるが、何もなかったようにもういちどトライし、手綱を握ってロバを進める。コミカルなシーンだが、そこに笑いはないし、笑いが意図されているものでもないだろう。

淡々としている。効果を狙っているようで狙っていないところ、笑いになりそうなところをポーカーフェイスでやってしまうところ、そうしたシュールさが全編にあふれている。

やはり奇妙な映画だ。

jeannette-jeanne.com