うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20250126 「不在——トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル」@三菱一号館美術館を観る。

20250126 不在——トゥールーズロートレックとソフィ・カル@三菱一号館美術館

久々に東京方面に出て、昼過ぎには所用が済んだので、国立西洋美術館のモネ展でも見に行くかと久々に上野に足を運ぶ。JR駅前の横断歩道がなくなっていることに気づくまで少しかかった。モネ展は今日の分のオンラインチケットが完売とのことで、入場できず。かなり長い列ができていた。

というわけで、急遽予定を変更して、三菱一号館美術館でやっていたトゥールーズロートレック展の最終日にすべり込むことになった。ロートレックにはさして興味もないままに。ロートレックといえばポスターという程度の貧しい認識のままに。

 

ロートレックの線はどこか寂しい。印刷されることを前提としたからだろうか、彼の塗りは基本的に平面的であり、陰翳がない。その一方で、線にはニュアンスがある。太い細いがあり、勢いやかすれがある。線にはそれを描く手の動きが反映されているように感じられる。滑るような滑らかな線ではある。しかしそこにはアナログなブレがあり、それが、わりと部数を刷ったはずの複製的な印刷物と本質的なところで和解していないようである。

ロートレックのアナログさは、彼の描き出す人物が、匿名的な類型ではなく、似顔絵的なもの、デフォルメされてはいるものの、唯一的なモデルの写実的な描写に立脚するものである点に起因する特徴なのかもしれない。

ロートレックは対象を美化しないが、ことさら戯画化しているわけでもなさそうである。モデルの特徴をとらえ、それを、写実以上アイコン未満に落とし込む。一見すると、ジャンル的なクリシェを再生産しているように見えるけれど、実は、モデルを起源として展開されうる類型を創造しているのではないか。

この意味で、ロートレックドガを先生と仰いでいたというのは、何かとてもよくわかる。印刷を落としどころとするものが塗を平面化する一方で、デッサン的なものは線による奥行きが描きこまれている。それは一瞬を永遠として切り取るような速度の技芸である。

 

現代美術家のソフィ・カルはこの美術館と関係の深い人物であるらしいけれど、コンセプチュアル・アート的であると同時に、言葉(フランス語)による説明に依拠しており、いまひとつどのように捉えるべきかがわからなかった。本人の言葉があるおかげで、意図はわかる。しかし、ここまで言葉を読まなければならないというのは、作品自体の自律性の否定でもあれば、感性的=直感的なものとしての美術の批判と言えなくもないわけで、個人的には判断に窮する。

美術館のほうのプレゼンテーションもいまひとつ上手くない。翻訳は、作品横に、基本情報とともに掲示されている場合もあれば、各部屋の入口そばにA4にプリントアウトしたものが置いてある場合もあった。

しかし、前者の翻訳は、なぜかやたらと低いところにあり、かなりかがみこまないと読めないうえ、字が小さい。そして、かがみこむと自分が影になって見えづらい。作品保護のため照明の彩度が低いせいもあるのだろう。

後者の翻訳には、一部屋にあるいくつもの作品に書き込まれている言葉がひとまとめになっているため、作品を見て、プリントを見て、作品を見て、というように視線をあちこちに動かさなければならず、集中力を削ぐ。

個人的に面白い試みだと思ったのは、盗まれた絵画の枠だけを壁にかけて、それを美術館の人々がどのように感じたのかを語ってもらうという試み。画像として掲げられていたのは、枠の向こうに壁紙がのぞく「不在」の写真であり、それを眺めるスタッフの後ろ姿。これだけで十分作品とて成立していると思うのだが、カルはここに、スタッフひとりひとりが語ったものであるらしい言葉を羅列して、それをキャプションとして付ける。ある意味、彼女の作品は意味が過剰だ。

その一方で、イスタンブールで海を初めて見た人々8名(6名だったか?)を背後から映した4分程度の映像は、逆に、言語的な意味は皆無。後ろを向いている人々が途中で振り向くと、顔が大写しになる。彼ら彼女らは何も語ろうとしない。無言ではあるが、表情は微妙に動く。そこには、何かしらの、言葉にならない思いがにじみ出ている。

おそらくカルは個々の存在(の声)の固有性や唯一性を大事にしたいアーティストなのだろう。コメントをひとつひとつ、ただ羅列したようなやり方をするのも、アーティストによる操作を極力減らして、対象そのものに語らせようとする態度なのではないかと思う。その意味では、言葉を多用するときも、使用しないときも、カルがやっていることは同じ原理に端を発することであるとも言える。

個人的にいちばん美しいと思ったのは、自らを死体に見立てて取った写真。もちろん、これにもキャプションはついてはいたけれど、これは写真単体で成立していたと思う。にもかかわらず、画像的なもの、映像的なものの力をそこまで信頼していないように見える。そこが何とも不思議な感じがする。

 

小展示扱いの「坂本繁次郎とフランス」は、20世紀にフランスに渡って学んだ画家のひとりというサンプルケースとしてはそれなりに興味深いし、坂本には薄いパステルカラーという特徴的な色使いもあるけれど、作品単体としては微妙。個人的に楽しめたのは比較対象として展示されていたセザンヌ静物

 

最終日ということもあってか、閉館1時間ぐらい前だというのに、かなりの人出。こういう言い方はよくないかもしれないけど、「いかにも」な人々が来ているのは、この美術館のマイナー性の反映であるようにも思う。

その一方で、同館の所蔵である丸の内の開発についてのアーカイブ(閲覧無料)にはまったくと言っていいほど人が入っていない。つまりはそういうことなのだろう。人々は「アート」を見に来ているのであって、それ以外には興味がないらしい。

 

丸の内の仲通りは街路樹が電飾でライトアップされており、ハイブランドが軒を並べており、資本主義の饗宴という感じ。あまりにも自分と無縁の空間を歩いていたら、そのあまりの非現実性にやられたのか、頭がクラクラしてきた。