うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

すぐれたエンタメ映画として、すぐれた商品として:新海誠『すずめの戸締り』

20221114@Cinezart

エンタメ映画としてはよくできていると思う。2時間を飽きずに見させてくれるし、最後の20分での盛り上がりも申し分ない。きちんと感動させてくれる。商品としての出来は申し分ない。

風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』の物語をミックスして、それをエヴァの物語世界に移し替え、それを2010年代以降の日本の文脈に翻案すると、『すずめの戸締り』が生まれるのではないかという気がする。

新海誠の新作は偉大なるマンネリズムの具現化である。ボーイ・ミーツ・ガール物語(いや、ここでは、ガール・ミーツ・ボーイ物語というべきか)。記憶のなかの映像と似た男性と出会う女性主人公。ふたりはさまざまな困難を経て、最後にはめでたく結ばれる。ハッピーエンドに終わる物語という路線は、『君の名は』以降の顕著な特徴である。

『君の名は』以降の新海の作品が作り出す物語世界の根底にあるのは、震災が残した心理的なトラウマであり、物理的な被害の傷跡だ。そこではつねに、黙示論的な想像力が蠢いている。いちど世界が滅びかけたからには、ふたたび世界が危機に見舞われることはありえるし、それどころか、今度の危機は前回以上のものとなり、世界を完全に滅ぼしてしまうかもしれないという怖れがある。

前作『天気の子』に引き続き、ここでは、来るべき災厄をどのように抑え込むのかが物語を稼働させていく。そして、災厄が人間的なものではない以上、災厄が気象や地殻といった自然現象である以上、それにたいする対抗策は、必然的に、超自然な何か、ファンタジー的なものになる。ここでは民俗学的なものが、そのようなギミックとして機能する。だから、男性主人公は、土地に開いてしまう扉から暴れ出る地脈を沈める役割を代々担ってきた家系の人間という設定になっている。

男性主人公のほうに特殊技能(自然を鎮める)が備わっているとすると、女性主人公のほうには震災のトラウマがある。彼女は東北の震災(とはっきりは言及されないが、それが想定されていることはあきらかだ)で母を亡くし、叔母に引き取られ、熊本で育ち、いまは高校生で、母と同じ職業である看護士を目指している。彼女には男性主人公のような特殊技能はないが、地元の廃墟と化した遊園地に出現した扉を開け、それを封印していた要石を抜いてしまった結果、扉の向こうに常世を垣間見てしまう。彼女は世界の崩壊(大地震)のトリガーを引いてしまう。そして、引き抜かれた要石は猫となり、天敵である男性主人公を子ども椅子に変えて無力化し、逃走する。こうして主人公たちは、要石を捕まえるべく旅に出ることを余儀なくされる。

熊本から四国から神戸から東京から東北まで、フェリーにヒッチハイクに電車にドライブと、ロードムービー的な物語が続く。旅先での出会いと別れがある。

クライマックスの舞台は2つある。ひとつは、男性主人公が人身御供的なかたちで自らを要石と化すことによって東京を襲う大震災を食い止めるところ、そして、もうひとつは、そうなった男性主人公を救うべく、彼が閉じ込められている常世に入り込むべく、女性主人公のトラウマの地である東北に向かい、そこで常世から男性主人公を取り戻すところ。そのどちらもが、新海の代名詞とも言うべき美麗な風景によって描き出されている。

ただ、『天気の子』における空気や雨や雲が、アニメーションでなければ不可能な、アニメーションだからこそ可能な表現になっていたのに比べると、『すずめの戸締り』の自然描写はどこか物足りない気がした。常世の描き方にしても、美しくはあるが、驚かされるほどではない。大地の精霊の描写にしても、ありきたりとはいわないが、新味は感じなかった。とくに、わりと多用されていた360度回転のシークエンスは、もはや実写映像で見飽きているテクニックであり、それをアニメーションで再現するのはきっとかなりの技術力が要るのだとは思うけれど、いまさらという感じがぬぐえない。

 

来場者特典として配られていた「新海読本」のなかで、新海は、「場所を悼む」ことをこの映画のなかで描こうとしたのだと述べている。

なるほど、たしかに、いま日本のあちこちで、かつて栄えた場所が衰え、廃墟になっている。災害に見舞われなくとも、過疎や不況によって、共同体の記憶の場所が物理的に崩壊しつつある。そのような場所を訪れ、そこで生き、暮し、愉しみ、哀しんだ人々の記憶を、全体として見れば名もなき人々ということになってしまうけれど、ひとりひとりにしてみれば、かけがえのない生きられた経験があったことはまちがいない。それをいま、あらためて描き出すこと、そのような表象されざることをアニメーションとして具象化することには、大きな意義があるだろう。

ただし、ここで付け加えておきたいのは、主人公たちは、そのような記憶を瞬間的に想起し、追体験するものの、それは暴走する土地の力を鎮める力をブーストするためのトリガーにすぎない。「場所を悼む」ことは、物語のためのギミックとして使われているにすぎない。

 

端的に言えば、『すずめの戸締り』はセカイ系なのだ。ここでは「セカイ」と「わたし」がダイレクトにつながっており、その中間項はすべて、物語のための装置になってしまっているところがある。だから、「場所を悼む」というような重要な問題を提起しておきながら、それらが十分に発展させられていないというか、それらを物語の核心にまで取り込むことに失敗している。

この意味で、宮崎駿のアニメーションには思想があるが、新海誠のアニメーションには思想がないと言いたくなるところである。『すずめの戸締り』は、『ナウシカ』や『もののけ姫』に通じるような、人間と自然の問題――超人間的な自然の力を前にしたとき人間に出来ることは何か――を扱っているにもかかわらず、それは物語の主軸――ガール・ミーツ・ボーイ――の背景をなすばかりである。だから、『すずめの戸締り』における民俗学的なものは、民俗学そのものというよりも、サブカルチャーに現れる民俗学的なもののコピーという感じがする。偽物というのではなく、コピーのコピー、いかにもそれらしいもの、という感じがつきまとっている。

 

場所を悼むということは、その場に暮らした人々を描くということになるはずだが、その描写は瞬間的なものにとどまっている。だから、『すずめの戸締り』には、主人公たちの身の回りで起こる個人的な体験と、世界を揺るがす地脈という超自然的なものという二極しかない。

ただ、そのような身の回りで起こる個人的な体験の領域はとてもうまく描けている。ある意味、主人公たちのことをキャラクターとしてあまり印象に残らないのに、愛媛の民宿の子のこと、神戸のスナックのママとその双子のこと、女性主人公の育ての母である叔母、男性主人公の学友と祖父。脇役のほうがずっとキャラとして立っている。

これまで新海は、日常的なパートを、ミュージック・ビデオ的に処理していた。歌が流れ出し、日常の断片がプロモムービーのようにコラージュされていく。それとともに、物語は加速し、時系列が飛ぶ。その手法が『すずめの戸締り』では断念され、主人公たちの旅がとても丁寧に描かれていた。もちろん、それを評価するかしないかは、新海に(ひいては、アニメーションというメディアに)何を求めるか次第ではあるけれど、個人的には高く評価したいところ。

 

正直に告白すれば、こうして見た内容を思い出しながら書いていて、主人公たちの名前がどうにも思い出せないというか、主人公たちを名前と結び付けて思い出すことができない。というか、映画を見ながら、女性主人公が『君の名は』の女性主人公とかぶってしまう瞬間が何度もあった。脇役たちの名前を憶えているわけではないけれど、そちらについてはかなり明確なイメージを結ぶのに、主人公たちの印象はどうにも薄い。

とはいえ、主人公たちのキャラが薄いのは意図的なのかもしれない。新海において、主人公は視聴者が物語世界に没入するためのギミックであって、それ以上でもそれ以下でもないのかもしれない。その意味で、ふたりには、それぞれ、閉じ師という職と、震災トラウマという記憶以外、特殊な属性が付与されていないのは、そうすることで、物語をあたかも自分のものとして愉しむための処置なのかもしれない。

つまりここでは、視聴者のキャラクターへの感情移入ではなく——感情移入が起こるためには、まず、わたしとキャラが別個の存在であるという認識からスタートしなければならないだろう——、視聴者とキャラクターとの同一化――その場合、わたしとキャラは別々の存在とは捉えられていない――が目指されているのであり、そのためには、主人公たちこそがキャラとしては薄く、脇役こそ濃くなければならない――なぜなら、脇役たちは物語世界の真実性を高めるものだから――ということなのだろうか。

 

『すずめの戸締り』は、震災のトラウマ(母を亡くしたこと)の哀しみに沈んでいる子どもの自分を、いまの自分が赦すという物語なのだろう。過去の苦しみを、現在の自分が救うのであり、それは、出口のないように思われる現在だとしても、それはかならず、なにかもっと悦ばしい未来に通じているはずであるという希望を、わたしたちに贈るような物語ではある。

自分を本当の意味で救るのは自分しかいないというのには、おそらく、なにかしらの真実はある。映画が発するメッセージはけっして間違ってはいない。しかし、もしすべてが心理的な葛藤の解消によって片が付くわけでもない。

『天気の子』は、彼女を取り戻して世界を犠牲にするのか、それとも、世界を犠牲にしても彼女を取り戻すのか、というプロットの分岐にかなりの葛藤を盛り込んでいた。そして、後者を選んだことによって世界が変わってしまったこと——海面上昇が進み、地形が変わり、人々の生活に大きな影響があったこと———が、エピローグのかたちであるとはいえ、きちんと描かれていた。

『すずめの戸締り』も、彼か世界かという究極の二択を軸にして物語がクライマックスに向かっていくにもかかわらず、結局は、彼も世界もというご都合主義に落ち着いてしまっているように思う。そして、そのような「あれもこれも」のハッピーエンドは、一時的なものでしかないのである。

たしかに、地震をもたらす自然の力はけっしてなくなることはないのであり、その意味では、問題先送り的なエンディングの『すずめの戸締り』はリアルではある。直近の災害は回避された、だからわたしたちは、束の間かもしれないこの現実を大切に生きよう、というわけだ。

しかしそれでいいのだろうか。

 

『君の名は』と『天気の子』と『すずめの戸締り』は、どれも、2011年の震災を物語世界の基本構造と取り込んではいるが、それをどのように形象化するかは大きく異なっている。『君の名は』では隕石という地球外からの到来、『天気の子』は雨、『すずめの戸締り』は地震

どれも超人間的な力がもたらすものではあるけれど、そのなかでは『天気の子』の雨が唯一、わたしたちの現実世界における環境危機とつながりうるものである。つまり、『天気の子』のおける問題のみが、人的努力による食い止めの可能性が、可能性として存在していると言える。だからこそ、『天気の子』における彼女か世界かという問題には第三の可能性が折り込まれている。つまり、環境危機をわたしたちの手で食い止めることによって、彼女も世界もともに救うという最高のハッピーエンドが、(キャラクターたちや物語世界にとってという以上に)わたしたちにとっての希望として、残されているのである。

こう言ってみてもいい。『すずめの戸締り』では地震の発生を食い止めるために主人公たちは活躍するが、それはわたしたちの現実世界においては、不可能な道筋である。だからこそ、ここで女性主人公が、世界も彼もと両方を選択するとき、それはただたんに、彼女の選択にすぎなくなって、物語だから可能な楽観主義にすぎなくなってしまっている。

だからこそ、『すずめの戸締り』は、そこで提起された問題を現実世界に持ち越すことを、わたしたちにかならずしも求めていないように感じてしまう。だからこそ、『すずめの戸締り』はエンタメの商品としては、わたしたちに解決不可能な宿題を与える『天気の子』よりずっとすぐれているとも言えるのではあるけれど、まさにそれと同じ理由で、つまるところ、たんなるエンターテイメントに終わってしまっているとも言えるのである。