うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230313 『フェイブルマンズ』を観る。

あまり期待もせず、あまり前情報も入れず観たが、とてもよい映画だった。どこかのシーンがとびぬけてよいわけでもないし、何か突出したものがあるわけではない。淡々と進んでいく家族の物語だ。にもかかわらず、観終わったあと、しみじみと「よい映画を観たな」という感想が湧いてくる。

 

『フェイブルマンズ』という日本語タイトルだとわかりづらいが、原題は The Fablemans。英語では、苗字の末尾に複数形の s を付け、頭に定冠詞の the を付けると、「何々家」の意味になる。というわけで、もうすこし説明的に『フェイブルマン家の人々』と訳してもいいところ。

監督スティーヴン・スピルバーグの自伝的要素でいるそうだが、どこまでノンフィクション的なものなのか、わたしにはよくわからないし、そこはあまり興味がない。しかし、ここで見逃したくないのは、この映画が、スピルバーグの分身であるらしいサミー・フェイブルマンが映画監督になっていく過程を描いた青春成長物語にはとどまらない射程を持っているという点だ。

 

なるほど、たしかに映画は、サミー少年が両親に連れられて初めて映画(『世界最大のショウ』)を見て、そのなかの車と列車の衝突シーンに取り憑かれ、ユダヤ教のお祝いの日であるハヌカーのプレゼントに買ってもらった鉄道模型を使ってみずから同じようなシーンを撮影するところから始まる。ボーイスカウトの友だちと一緒に西部劇や戦争の映画を作ったり、家族のキャンプを撮影したり、高校のプロムでは浜辺での一日を上映したりする。サミーはカメラや編集のための機械にますます魅せられていくだろう。

映画とともに成長していたサミーは、大学をドロップアウトしかかっていたとき、あちこちのテレビ会社や映画会社に送っていた手紙にやっと返事をもらい、最後には、ジョン・フォードの事務所に招き入れられ、壁にかかっている絵画を前にしてレッスン――地平線が下にある絵はいい、上にある絵もいい、しかし真ん中にあるのはダメだ――を受ける。スタジオの外を歩いて去っていくサミーの背中とともに映画が終わるとき、わたしたちは、彼がこれからわたしたちの知っているスピルバーグになっていくことを感じるだろう。

 

しかし、この映画があえて『フェイブルマンズ』と名付けられていること、また、映画がスピルバーグの両親であるリアとアーノルドに捧げられていることを見逃すわけにはいかない。この映画はまずなにより、家族の物語なのだ。

とはいえ、それはかならずしも幸福な家族の物語ではない。コンピューターの真価をいち早く見抜いていたエンジニアの父も、コンサート・ピアニストの道をあきらめた母も、子どもたちを深く愛している。サミーが生まれ育ったニュージャージー州では、父はまだうだつのあがらない技師にすぎず、テレビの修理を副業にしていたほどだったが、ゼネラル・エレクトリック(GE)社に転職してアリゾナに移住し、最後にはIBMに引き抜かれてカリフォルニアに移住する。父は技術者としての夢をかなえることができる地位を獲得していく。その裏側で、家庭の歯車は狂っていく。

ニュージャージ時代の父には親友と言うべき存在のベニーがいた。母や彼と(精神的な)恋人関係になっていく。だから父が親友を置いてアリゾナに転職しようとすると、母は父を責めるだろう。そして、カリフォルニアへの栄転に至って、もはやベニーを引き連れてはいけないことがわかると、フェイブルマン一家は彼を残してカリフォルニアに移住するが、母の精神は完全にまいってしまう。夫婦はついに離婚を決意するだろう。母はアリゾナに戻ってベニーと暮らし、子どもたちは父と母のあいだを行き来することになるだろう。

ひたすら善良な父の見ていないところで、苦悩する母の姿が描き出されていく。しかし母の精神的な苦しみは、彼女が芸術家の家系だからでもあるらしい。一度だけ訪れてきた叔父はサーカス芸人であり、彼は人生の先達として、芸術に身をささげることは我が身を引き裂くようなものであることをサミーに教える。しかしながら、芸術から自ら遠ざかることが助けにならないことを、母の人生は証明している。サミーは逡巡する。しかし彼はとうとう、人間には気がついていない真実をさらけ出してしまう映画のほうを選ぶことになるだろう。

 

家庭の歯車の狂いを顕在化させたのは、ほかならぬサミーである。いや、こういったほうがいいだろう。カメラをのぞいていたサミーでさえ気づいていなかった真実——母とベニーの親密さ――をフィルムが捕えてしまったのだ、と。撮影したフィルムを見返しながら、切り貼りの編集をしていたサミーは、母とベニーが親しげに手を握ったり、母がベニーに体を預けたりするところを目の当たりしてしまう。家族に見せるフィルムではカットしたそのシーンを、彼は母にだけ見せる。

彼女は大いにショックを受けるが、それと同じくらい、サミーも動揺する。これまでも自身の撮った映画が人々を笑わせ、喜ばせ、感動させるところは見てきた。しかしながら、観た者の心の奥底まで掻き乱すところを目の当たりにしたサミーは、映画の力に畏れを抱くかのようである。

彼はふたたび同じような体験をするだろう。高校のプロムのためにとった映像は、そこでヒーローのように映し出されていた学生をひどく揺さぶる。彼にしてみれば、それは真実の自分とはかけ離れた人物なのだが、そのような虚像に人々は喝采を送るのを見せつけられて、彼は泣き崩れてしまう。

森の中でのキャンプのなかから母の不貞の証拠になるようなシーンをつないだフィルムに、ハムレットがクローディアにたいして示したような、非難がましい気持ちがなかったとは言えないだろう。そこには糾弾のトーンが紛れ込んでいたのであり、だからこそ、それが母にショックを与えるであろうことは、たとえ無意識的にであれ、サミーはわかっていたはずだ。

しかし、プロムの映像のほうは、そうではなかったのかもしれない。いじめていた相手にたいする悪意はあったかもしれない。しかし、サミーを驚かせたのは、三枚目のように茶化された別のいじめっ子ではなく、美化するように映し出したいじめっ子が、彼の映画に心をかき乱されたという事実だった。

そこでサミーは気づいたのかもしれない。真実をありのままに映し出すことも、現実を現実以上に美しく映し出すことも、どちらも別の意味で、別のかたちで、観る人を傷つけるのかもしれないということに。『フェイブルマンズ』は映画そのものの危険な魅惑をさらけ出す映画である*1

 

『フェイブルマンズ』にはアメリカ社会におけるユダヤ人差別が生々しく描き出されている。アリゾナの高校でサミーは白人のキリスト教徒から「主を殺したことを謝れ」と理不尽ないじめを受ける。ユダヤ人のコミュニティはほとんど存在せず、彼は孤立する。

その一方で、サミーはキリスト教徒の同級生と恋仲になる。宗教や人種がかならずしも分断をもたらす原因ではならなくなる時代がそこはかとなく予感されているようでもある。

 

(ただし、この映画が徹頭徹尾「白い」ものであることも、言い添えておかなければならないだろう。ユダヤ人差別は描かれるが、それ以外の人種差別は表面化することさえないし、そもそも描き出されることがないのだ。なるほど、そのような盲目性こそ、フェイブルマン家の「現実」、1950年代の中産階級ユダヤ人家庭の生活世界だたのかもしれない。だとすれば、この映画がそのような盲点をあえて視覚化しないことを選んだのは、現代的な倫理律——様々な意味での多様性の抱擁――を押し付けて、遡及的な修正を試みていないという意味では、史実的と言えるだろう。しかし、もしそうであればなおさら、わたしたちには、この物語を相対化することができる別の視点が必要である。)

 

さまざまな要素が詰め込まれたこの映画が、不思議なほどまとまっており、スキャンダラスなところでさえ、心をかき乱されるところでさえ、どこかしみじみとした感動を覚えるのは、スピルバーグと共に脚本を担当したトニー・クシュナーの手腕もあるのかもしれない。とにかく全体のリズムが上手いのだ。速すぎもせず、遅すぎもしない。センチメンタルにはならないが、アイロニーが前面に出てくることもない。批判的な距離には欠けていないが、青春の甘酸っぱさは余すところなく描かれているし、離婚する夫婦の子どもであることのやりきれなさも、映画監督にならんとする若者の苦悩も、しっかりと伝わってくる。

しかしそれが強すぎない。物足りないわけではないけれど、過剰なところがない。バランスが見事なのだ。

 

 

 

 

*1:映画製作者の業を描き出す映画だとも言える。サミーは自分の映画が動揺させた二人にたいして、このことは誰にも言わないと約束する。しかし、その沈黙の誓いは守られないだろう。サミーは言わないかもしれない。しかし、サミーの分身たるスピルバーグはそれをさらに映画化し、わたしたちと共有するのだから。カメラはわたしたちの見逃す真実を捉えるだけではない。カメラはそのような真実を上演してしまうのだ。