うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

『ノマドランド』のなかの美的なものと経済的なもの

@20210601 CineCity Zart

いい映画だ。自然の映像が美しい。荒れ狂う波、広大な砂漠、遠景の山脈。それから作業場の機会の崇高さ。アマゾンの配送センター、掘削場のようなところ、バーガーレストランの調理場。

ファーンという女性を軸に物語は進んでいく。工場の閉鎖によって街一つが消し飛び、ホームレス(またはハウスレス)になった女性のロード・ジャーニー。彼女はホームはなくしてはいない。というのも、車が彼女のホームであり、彼女の住んでいるところだから。

彼女はロードのなかでさまざまな人々に出会っていく。余命すくない老齢の女性もいれば、息子夫妻から逃れるように放浪を続ける男性もいる。誰もが悲しみと喪失を抱えているが、その内実は異なっている。だから彼女ら彼らは自らの物語を語るのだけれど、それは似ているようで似ていない。しかし、そのような話を聞かされると、心の深いところにある柔らかく繊細なところが、わずかにかき乱され、狂おしい気持ちにさせられる。わたしたちが感情を持つ生き物であり、記憶を生きる存在であることを痛感させられる。

しかし、そうした情動的な反応に押し流されそうになるそのとき、この映画にただよう階級的な距離感がふと浮かび上がってきて、感動にふけるわけにはいかないことに気がつく。エンジンがかからなくなったヴァンを修理するために大金が必要になったファーンは、娘に断られたあと、姉に無心することになる。姉は頼みに答えてくれるが、姉の住まう世界――不動産業で利益を上げる富裕層――を前にして、ファーンは苛立ちを隠せない。あたかも彼女がみずから好んでノマドな生活を営んでいるように言われると、ファーンは声を荒立てて反論しないわけにはいかなくなる。姉は、アメリカの伝統的なあり方、開拓者のようなもの、となだめるし、一緒に住もうと誘うものの、そのような申し出を受け入れることはファーンにはできない。姉にはホームもハウスもある。

しかし、それは彼女個人の心理的な問題なのか。

旅の途中で知り合った男性家族を尋ねてカリフォルニアまで車を走らせる。彼は快く歓待してくれる。彼の息子夫婦は温かく彼女を迎え入れてくれる。七面鳥だろうか、多数の家禽を飼っているし、孫が出来た彼は、もはやロードに戻るよりは、自分でも驚くほどに、家に安住している。そのような心地よいはずの家庭のなか、ファーンは居心地の悪さを隠せない。彼が息子とアップライトピアノでジャズを即興演奏するのを階段の上から盗み見ながら盗み聞きする彼女は、ここに自分の居場所を見出すことができない。彼女は車を走らせ、逃れるように、海を見に行ってしまう。彼はホームレスでもなければハウスレスでもなかった。

ファーンの放浪生活の引き金を引いたのは、不況にほかならない。しかし、ほかの放浪者たちはかならずしもそうではない。ここでは、資本主義経済の荒波にさらされて仕方なしに否応なしにノマドライフに追い込まれた人々と、資本主義経済の非人間性から逃れるために主意的にノマドな生活に身を投じた主体的世捨て人とが、同じようにスクリーンに登場するために、まるでノマドライフが個人の自由な選択の結果であるかのような印象を強化する結果に終わっているきらいがある。

ノマドライフを余儀なくされている人々が、心ならずもそうしているとは言い切れないのも、事実ではある。ファーンに助けを差し伸べようという人々は少なくない。しかし彼女はそうした安定的な家庭生活に安住できない。そこに彼女の心理的な苦境がある。

ノマドライフのグル的な存在である老人は、ノマドライフを送る者たちの集会を組織し、知識や知恵を共有しようとする。それは資本主義という荒波のなかに救命ボートを投げ入れ、できるだけ多くの命を救おうとする試みだという。しかし、映画の最後で明らかになるように、彼もまた息子の自殺という心の傷をかかえていた。

路上の生活に「さいごのおわかれ Final Goodby」はない、いつだって「道のどこかでまた会おう See you again down the road」なんだ、そして、いつだってどこかでまた出会うんだ、いつのことになるかはわからないけれど。だからこんな生を送っていれば、道のどこかで亡くなった息子ともまた再会できるような気がするんだ。だからきみもきっと亡夫とどこかで出会えるさ、というようなことを彼が抑えきれない感情を顔に浮かべながら語るとき、ファーンもまた心を動かされるし、この深い心の交わりはわたしたちの心をも動かすだろう。

ファーンの砂漠の田舎町での定住は、天涯孤独な亡き夫の記憶を忘れないためのものであったらしい。そして、ノマドライフは、それをべつのかたちで引き継ぐものでもある。だからここには、宗教的とは言わないにせよ、精神的なものがある。物質的なもの、経済的な損得には還元できないものがある(車を買い替えたほうがずっとお得だという修理工場の男たちの勧めを受け入れることはファーンにはできない)。

しかし、心理の問題がこの物語の根底にあるものなのかどうか。

ノマドランド』はとても美しい映画だ。抒情的な映画だ。しかし、この美的なリリシズムは、現代の資本主義社会が作り出した暴力の副作用でもある。そこを直視することなくこの映画を讃えることは、なにかとても罪深い行為のような気がする。

街から旅立つことで始まった映画は、街に舞い戻り、廃墟と化した家やオフィスを再訪し、そして、また旅立っていくファーンの車を映し出して、終わる。最初と最後がきれいなシンメトリーをかたちづくる。しかし、そうした美的な構成の裏には、アマゾンの配送センターの仕事という厳しい現実がちらついている。